13 コメディはむずかしい 

2013.2.16


 コメディはむずかしい。だからテレビのプロデューサーも、なかなかコメディには手が出せないのだという。

 それはそうだろうと思う。昔、学校で演劇部の顧問をしていたころ、笑わせる芝居はほんとうに大変だった。笑って欲しいと思うところで、観客が笑ってくれるかどうかはいつもヒヤヒヤものだった。芝居のはじめの方で、笑いどころでクスクスって声が聞こえると、その人が神さまみたいに思えたものだ。

 これに対して、「泣かせる」のは簡単だ。誰かを死なせて、そこへ悲しい音楽を流せばいい。涙なんてすぐに出てくる。感情のコントロールなんて簡単なことだ。だから最近のように、映画の観客の評価の基準がひたすら「泣けた!」だというのは、制作者にとっては実に楽な話なわけで、それがまた映画作りを安易なものにしているのだろう。

 そこへいくと笑いは知的な反応だから、ある程度の知性がないと笑えない。先日、「ひまわり寄席」での、柳家喜多八、瀧川鯉昇、入船亭扇遊の三人会「睦会」を聞きに行ったが、そこへ小学校3年生ぐらいの男の子が父親に連れられてきていた。大丈夫かなあと思っていたが、やはり無理だった。最初の喜多八師匠は、真正面にその子どもがいるものだから、子どもがたくさん出てくるお得意の「いかけ屋」をやった。当日は「ひまわり寄席」には珍しく、演目が事前発表されていなかったので、たぶん、子どもを見てそれに決めたのだろうと思う。聞かせどころのドタバタになると、子どもはさすがに聞き入っていたが、次の瀧川鯉昇師匠の「ちはやぶる」となるともうイケマセン。完全に退屈しきって、腰を浮かせて周りをキョロキョロ見たり、座席から滑り落ちたり、あくびをしたりで、それがいちいちぼくの視界に入ってくるものだから、邪魔になって仕方がなかった。先日の「にぎわい座」といい、どうもこのところ「睦会」は、邪魔が多くてちっともゆっくり楽しめない。

 やはり小学3年生に、落語は無理だ。去年、中1を対象に落語会をやったときも、果たして彼らが笑うだろうかと、会が始まるまで心配だった。けれども、ろべえさんに、なるべく分かりやすいのをお願いしますと頼み、中1にも十分に分かる落語だけをやってもらった結果、爆笑の渦となったのだった。

 子どもを連れてきた父親に、どういう思いがあったのかは知らないが、「ちはやぶる」とか、「棒鱈」(入船亭扇遊)とか、ましてや「笠碁」(柳家喜多八)とかいった落語を聞いて、小学生が笑えると思う方がおかしい。小さい頃から「いいもの」「ほんもの」を聞かせたいということだろが、何でも聞かせればいいというものではない。

 そういえば、「王羲之展」に行ったときも、会場からぞくぞくと修学旅行中とおぼしき中学生の一群が出てきた。坊主頭のいかにも純朴な男の子が、うめきともつかない声を出して伸びをしているのを見て、つくづく気の毒に思った。書道部の中学生ならともかく、一般の中学生に無理矢理この展覧会を見せてもどうしようもないではないか。教育の現場も、相変わらずの勘違いばかりが横行している。

 話がそれてしまったが、「コメディはむずかしい。」ということだった。つまり「純と愛」は、このむずかしいコメディに果敢に挑戦しているということを言いたかったのだ。で、見事に成功しているのならいいのだけれど、残念ながらそうではないということを前々回に書いた。「笑い」は、送り手と受け手の間に、ある種の知的交流があって起こるものだから、送り手が、受け手のことを考えないと、うまくいかない。簡単なことだ。小学生に「笠碁」はわからないのと同様に、「純と愛」のギャグは、年寄りには(いやほとんどの人には)受けない。まあ、それはそれでいい。ときどき笑えるから、許す。なにしろコメディはむずかしいんだから。

 「純と愛」のほんとうの問題は、「人間が描けていない」ということだ。遊川和彦は、朝ドラに出てくるような「ありえない女の子」なんてバカにしていて、そんならもっとあり得ない人間ばっかり出して、そのドタバタを楽しんでもらおうと思っているのかもしれないが、ドラマをなめてはいけない。

 ドラマを演じる役者の向こうに、「ほんとうの人間の姿」が感じられなければドラマの意味がない。「純と愛」の登場人物には、「人間」が感じられない。今、「里や」に集まっている人間たちは、人間ではなく、段ボールで作った等身大の平面人形みたいにペラペラだ。そのペラペラ人形が、ロボットみたいに、脚本家の書いた台詞をしゃべらされているだけのようにみえてしまう。これは決して役者が悪いのではない。ひとえに、脚本家と演出家がダメだからなのだというしかない。

 「純と愛」は、「笠碁」一編にも遠く及ばない。遊川和彦は、今からでも遅くない。落語でもじっくり聞いて、頑張ってほしい。あ、もう収録は終わっているのかな。

 まあ、なんだかんだと文句をつけながらも、それなりに楽しんでいることも事実。さっき、今週分の最終回を見たら、余貴美子演じる女将の部屋が初めて開けられ、そこには死んだ亭主が残したホテルの資料やら、ホテル経営に関する本やらで埋まった書棚があった。こういうイメージは好きだ。これでペラペラ人形の「里や」の女将に少し「厚み」が出てきた。

 あと40回ほどある。何だか来週は「里や」が燃えてしまうようだけど、「純と愛」まで燃え尽きないでほしいものだ。

 

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