12 見る目ができかけている 

2013.2.9


 僕は見る目ができかけている。自分でもどういうのかよくわからないが、なにもが今までよりも心の深くへはいりこみ、いつもとどまる場所よりも奥へはいる。きょうまで自分でも知らなかった心の隅があって、今はなにもがそこまではいりこんで行くのだ。その隅でどんな事が起こるかは知らない。(「マルテの手記」リルケ・望月市恵訳)

「マルテの手記」は、若い頃からの数少ない愛読書だ。とはいっても、最初から最後まで隈無く読み尽くしているというわけではない。通読することはないのだが、折に触れて、パラパラとページをめくってきた。そして、冒頭近くにあるこの一節にいつも目がとまる。

 若い頃は、ここを読んでも、さほど共感しなかった。というよりは共感できなかった。こうした実感を持てなかったからだ。「ぼくは見る目ができかけている。」なんて境地は、若い頃のぼくにしてみれば、想像もつかなかったのだ。

 絵を見ても、映画を見ても、芝居を見ても、本を読んでも、感動することは多々あったけれど、自分に「見る目」があるとはとうてい思えなかった。「見る目ができかけている」とも思えなかった。どんなに好きな絵があったとしても、それが「専門の批評家」にけなされたりすると、がっかりして自信を失った。どんなに感動した本でも、友人がその本を否定すると、感動した自分の幼稚さを恥じることとなった。

 せめて映画については、いっぱしの口がきけるようになりたいと思い、1年に100本の映画を映画館でみようと決心したこともある。実際には70本ほどしか見ることができなかったが、そのときは、多少は映画についての自分なりの「見識」は持てたように思ったが、それも結局は「専門の批評家」の受け売りでしかないという忸怩たる思いがつきまとった。

 まあ、そんなこんなで月日が過ぎ去り、気がつけば還暦もとっくに過ぎた今日この頃、「マルテの手記」のこの言葉が、妙に身近に感じられるようになっていることに気づいた。「ぼくは見る目ができかけている。」と、いう言葉が、自分の言葉として言えるような気がするのだ。

 思い上がっているのではない。何だかそんな気がするのだ。「なにもが今までよりも心の深くへはいりこみ、いつもとどまる場所よりも奥へはいる。」そういえるような気がする。「きょうまで自分でも知らなかった心の隅があって」と「マルテ」は書くが、確かにそういう「自分でも知らなかった心の隅」がぼくの中にもあるような気がする。でも、それが何なのかよく分からないし、それをうまく言葉にすることもできない。

 「マルテ」は更にこう続ける。

 僕はきょう手紙を書いたが、それを書きながら、僕はこの都会へ来てからまだ三週間になるだけであることに気がつき、不思議に感じた。どこかほかの場所で、たとえば田舎で過ごした三週間は、一日のように短く感じられるが、ここではそれが何年もに感じられる。僕は二度ともう手紙を書かないことにしよう。僕が変わりかけていることをなんのために知らせるのだろう? 僕が変わりかけているとすれば、僕は今までとは同じ者ではいないといえる。今までとは同じ者でないとすれば、僕は知人を持たないことになる。僕を知らない他人へ手紙は書けない。

 ぼくも「変わりかけている」のだろうか。そうだとしても、ぼくが「今までとは同じ者ではいない」ということにはならないとぼくは考える。ぼくの変化は、もしあるとすれば、微々たる変化で、パリという都会で「マルテ」が経験した「知人を持たないことになる」というような大きな変化とはほど遠い。それに、「マルテ」のようにぼくは若くはない。変化といってもたかが知れている。

 とはいえ、「ぼくは見る目ができかけている。」というのは、やはり実感である。だから、続けて「マルテ」がこう書くのを、ほとんど我がことのように感じるのだ。

僕はもう書いただろうか? 僕は見る目ができかけている。そうである。僕は目が開き始めた。まだ少々おぼつかない。怠らずに修業しよう


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