92 心を支えてくれた人

2011.3.23


 一昨日のことだったが、ブログをやっているという方から、リンク許可のメールをいただいた。

 何でも、去年にNHKで放映された森有正のドキュメントを期待して見たが失望し、何か森有正に関する文章ははないかとネットを検索していたら、ぼくの文章に出会ったということだった。感銘を受けたので、引用とリンクの許可をいただきたいということだった。

 その文章というのは、ぼくが何十年も前に書いた『森有正氏との出会い』『森有正の死に』という二つの文章である。ネット検索というのはオソロシイもので、検索欄に「森有正」と入れると、いろいろなサイトが出てくる。だからときどきこういう依頼が舞い込んだりするのである。

 数年前にも、三島由紀夫を研究しているとかいう人から、ぼくが学生時代に書いた『眼の喪失──三島由紀夫と能』という短い文章にリンクを張らせてくれと依頼を受けたこともある。

 森有正の場合も、三島由紀夫の場合も、本人に実際に会ったという経験を書いたものなので、ぼくのような者が書いた文章でも、それなりの価値があるのかもしれない。

 で、久しぶりに、森有正に関する自分の文章を読んでみて、結局、オレが昔考えていたことと、今考えていることは同じなんだなあと感慨深かった。むしろ昔の方が、今よりずっと真剣に突き詰めて考えていたようだ。人間というものは、生涯、自分の最初に心に抱いたテーマのようなものの周りをグルグル回り続けながら生きていくものなのかもしれない。だからこそ、若い頃の「出会い」が大事なのだ。本でも、人間でも。

 未曾有の大学紛争の真っ直中で大学時代を送ったぼくは、どのように生きていけばいいのか分からず途方に暮れていた。学生運動にどうかかわればよいのか。学問とはどうあるべきなのか。大学は何をする場なのか。安保はどうすべきなのか、など様々な問題を突きつけられた。そのうえ、さまざまな学生グループが、仲間になって行動しようと誘ってきた。しかし、ぼくはどうしても行動することができず、懸命に考えようとしていた。考えることだけで精一杯だった。けれども、今、行動しないのは、卑怯だとか日和見だとか若者らしくないだとかいった非難の声が、同級生や先輩やマスコミや果ては大学教授からさえ、執拗に浴びせかけられた。そうした中で、ぼくの精神的な支えとなってくれたのが、森有正の著作だったのである。ぼくは彼の思想にしがみついて、あの苦しい大学の4年間を生き延びたといってもいい。

 大学を卒業して教師となり、だんだんと森有正の思想から離れていったが、それは嫌になったというのではなく、おそらくぼくの中で、考えることの重点がずれていったからだろう。

 森有正が死んだとき、ぼくはすでに都立高校の教員だったが、やはりいちばんぼくが考えたのは、「死と生」の問題だったということが、今回読み直してよく分かった。

 若い頃とはまた違った意味で「死と生」の問題が大きくぼくの前にたちはだかりはじめている今、ふたたび森有正を読もうかと思っている。

 

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