森有正の死に


 雑木林の中を、どこまでも続く細い道がある。その道を一人の背の低い、小太りの男が、すり切れた背広を着て、少しうつむきかげんに足早に歩いてゆく。足早だからといって、それがせわしなさを感じさせることは全くない。これ以上足が地についた歩き方はないと思わせるほどの落着きをもった足早である。その男の行く手には、紅葉する雑木を透かした明るい秋の光がおち、一筋続いている道の隅々をくっきりと浮びあがらせている。その男の通り過ぎた道には濃密な空気が流れ、それは絶えず静かに道の上の石に結晶している。だが、突然、その男の姿が、明るい道のまん中で消えた。同時に空気はますますその濃密さを増し、結晶はその速度を早めはじめた。そうして、その男の行く手の道は、ますます秋の透明な光の中に、まるで次第につま先あがりに空へ上っていくかと思われるほど、はっきりと遠くまで、つづいている。その道を歩いてゆくのは、それでもなお消えたその男以外にはない。その男の消えた地点から、歩き出せる人間は一人もいないのだから……。

 「森有正パリに死すか、かっこいいね。」勤め先の学校の司書室で、これから又いつものように始まる一日のことをぼんやりと考えていたぼくの耳に、新聞を読んでいた同僚の一人がつぶやいたそんな言葉が入ってきた時ぼくは一瞬、森有正が「パリに死す」という本を出して、その本の広告を彼が口に出して読んだのだと無意識のうちに思い込もうとしたようだ。しかし、そんなことはないのだ、きっと森有正は死んだのだと、同時にぼくは思った。そして事実彼が口にしたのは、読売新聞朝刊の森有正の死を報じる見出しであった。悲しいという感情は不思議となかった。三島由紀夫が死んだ時程の衝撃もなかった。しかし又、志賀直哉や武者小路実篤が死んだ時のように「大往生」の安らかさも全く感じなかった。ぼくの頭に浮んだのは「客死」ということばだった。それは決して「パリに死す」という地理的な問題にとどまることはなく、むしろ、人生という旅の途上で死んだという意味をも含んでいる。誰もが人生途上で死ぬのだから、それは何も森有正に限ったことではないとはいわせない。「客死」ということばは、森有正にしかふさわしくないとさえぼくは思う。

 人は誰でも一筋の道を歩んでいるわけではない。砂漠の中をめくらめっぽうに歩いたとしても、歩いた軌跡をただちに「道」と称するわけにはいかないのだ。高村光太郎は「ぼくの前に道はない/ぼくの後に道はできる」とうたった。しかし、それは、歩けば足跡がつくということでは決してない。「あと」に道ができるかできないか。それは歩みの質にかかっている。そしてあとに道ができるような歩き方は、本当は、まえに道をみていなくてはできないのではないか。砂漠の真中に立った人間が、どちらに一歩を踏み出したとしても、それは所詮、恣意というにすぎない。その恣意の一歩一歩が連った歩みの軌跡は、決して「道」ではない。たとえ砂漠の真中でも、茫々たる砂の面を透かして一筋の道がみえた時、人ははじめて確信をもって一歩を踏み出す。そして砂の下の道は、その人の歩みとともに、顕わになる。それが本当の「道」だ。そして、そういう「道」を歩んでいる人間が死ぬということが、人生における「客死」ということの本当の意味なのだ。

 森有正は、人間の本当の生き方を(そして今では死に方を)ぼくに身をもって示してくれた唯一の人だ。

 それにしても、死とはいったい何なのだろう。人は死んでも、次の世代の人の心の中に生き続けるのだ。例えば親は子の心の中に、教師は生徒の心の中に、著者は読者の心の中に……だから、人間は不滅だ、といったふうな考え方は、感傷的なまやかしに過ぎない。一人の人間が他の人間に及ぼした影響が、その人間の永遠性を保証するなら、影響とは決して恣意なものであってはならないだう。ところが、影響というものは、あくまで受ける側が主体となるものなのだ。何からどういう影響を受けようと、責任はあくまで受ける側にあり、与える方からすれば、それは常に不本意な結果に終わるだろう。とすれば、影響を受けようという主体的な努力は、有効だが、影響を与えようという主体的な努力は、精神の深みにおける問題においては、決して実を結ばないものなのだといわなければならない。

 森有正は、そういう意味で、決して影響を与えようなどという意志を待たなかった人だ。だから、自分が影響を与えた人々の中に自分は生き続けるんだ、などということは考えもしなかったはずだ。彼は、彼の道を歩いただけだ。

 それならば、死とは一体何なのだろう。六五年間の経験の総体としての森有正の肉体の消滅。それは一体何を意味するのか。我々の手にはその著作が残っているからいいじゃないかという気持にはどうしてもなれない。それは、森有正が作品のみで勝負する芸術家ではなかったからだろうか。森有正にとって、著作はあくまで生活の一部だったろう。誰に聞かせる為でもないパイプオルガンの演奏を日課とし、学生食堂の粗末な食事の前にも祈りを捧げる素朴なキリスト教信者であった森有正。黒いビニール靴いっぱいの楽譜、その四隅のすり切れてボロボロになった楽譜に印された赤や黒の線、それらは、決して後世に遺されるものではない。それらは、森有正の肉体の消滅とともに、この世から消える。パイプオルガンは、武蔵野のICUチャペルに、もう鳴らない。その空白は、もう誰によっても埋められはしない。

 ぼくは感傷的になっているわけでは決してない。それどころか、森有正の死には安っぽい涙を拒む厳しさがある。ただぼくはこの世にあるということ、日々生活するということ、そのこと自体の成熟を求めつづけたといっていい森有正が死んだということに何とも言えない困惑を感じているのだ。生活そのものは、いくら成熟したところで肉体とともにしかあり得ないものだし、形あるものとして後世に残るものでもない。死とともに完全に消滅するのだ。そういうものに、森有正が生涯の大半をかけたことをぼくはどうとらえるのか。森有正の著作を読んで、その思想を吸収しあるいは批判し、肯定的に、あるいは否定的にその思想を継承していくことに意味がないなどと言うのではない。それは大いに意味のあることだろうし、誰かがやらねばならない重要な課題であることに間違いはない。だがぼくはそうしたことよりも、森有正という一個の人間の生活に興味がある。生活は、誰にも継承されはしない。死によって完全に滅びる。ぼくが思うのは、そのことを森有正はどのように考え、どのように克服しようとしていたのかということだ。

 死が完全な無ならば、その死に向って生きていることを百も承知の人間が、自己の生活とか経験とかの成熟をめざすということは、全くのナンセンスではあるまいか。むしろ、自己の死によっても滅びない、形あるものを後世に残す為に努力し、そしてそのものによって自己の永遠性を信じようとするか、いっそ楽しめるだけ楽しむか、そのどちらかが妥当な生き方であろう。しかし、死が無以外の何物かであったなら……。天国とか地獄とか来世とか、そういった概念をここで安易に持ち出すつもりはない。そうではなくて、死に向って生きていることを百も承知の人間が、毎朝たった一人でパイプオルガンを数時間もひく(それはオルガニストになる為の練習ではないのだ)ような生活を送ったという事実、そこにこそ、その人間にとっての死の意味が隠されているのではないかということなのだ。来世があるかないかといった議論はいつも不毛である。

 死が決して無ではないことを、森有正の六五年の生涯が証ししているとぼくには思える。あるいは、死が無ではないことを、ぼくは森有正において信ずることができる、といいかえてもいい。だが、死がそれならば何であるかは、依然としてわからない。そして、いつかはわかる時がくるとも決して思わない。死が何であるか、わからないままに、ぼくは生きることにおいて、刻々に、死に対する信仰告白をしていかねばならないのだと今は思う。

 森有正「バビロンの流れのほとりにて」を、ぼくはどんなにかむさぼり読んだことだろう。そして、ICUで初めて(そして最後に)会った時、ぼくはどんなにか幸せだったことだろう。とうとう言いだす勇気がなくて署名してもらえなかった「バビロンの流れのほとりにて」は、今も書棚に静かに立っている。だが、著者を失った本が、こんなにも淋しげになるとは思ってもいなかった。この淋しさの前には、作品の自立という観念が、どこか空々しいものに思えてくる……。

(1976.12)




森有正の死は、突然でした。ぼくが、ここで必死になってこだわっている死の問題は、いまなお解決できずにいる問題ですが、このころとは少し違った視点で考えられるようになったような気もします。死の問題は、若い時の方が、切実で深刻なことは確かです。(1998)