式根島紀行


 ルネ・クレマンの「太陽がいっぱい」という映画はあまりに有名だが、そのラスト近くに、アラン・ドロンが寝椅子に坐って、地中海の光を全身に浴びながら、ウィスキーを飲んで「素敵だ、素敵だ。」と一人つぶやくシーンがあった。それを目にとめた茶店(?)のオバさんが「どうしてかね」と聞くと「太陽がいっぱいさ」と答えるのである。この映画を白黒のテレビで、しかも途中から見て、しばらくこのシーンが頭にこびりついて離れなかった。Y子が、友達と式根島に行くんだという話を僕にした時、思わず「一緒に行くよ」と言ってしまったのも、半分以上はそのせいかも知れない。普段そういう事にはあまり積極的でない僕が、突然そんな事を言いだしたので、彼女は驚きと、そして多分嬉しさとで、電話の向こうで目をパチクリさせていた。その様子が「エッ?」と聞き返した彼女の声の調子から手にとるようにわかった。

 八月×日早朝、我々は式根島に到着した。民宿も決まり、一段落ついた所で、早速我々は泳ぎに行くことにした。海水浴場は数多くあるが、その日は民宿に一番近い白砂浜海水浴場に行った。天気快晴。砂浜は広くはないが、名前のとおりガラス玉のような砂で敷きつめられている。そこに原色のビーチパラソルや、海水着が小麦色の肌とともにばらまかれている。太陽の直射は、やけるように熱く、これではのんきにウィスキ−など飲んで「素敵だ。素敵だ。」とやっていたら、たちまちバーベキューになってしまいそうだ。

 すなわち、我々は涼を求めて水に入る。ところが、水に入るという簡単そうなことがここではなかなか出来ないということを、足が水についた時にすでに我々は悟った。これが湘南や逗子の海岸なら、波打ち際から沖へ向って、ジャブジャブと一直線に歩いてゆけば自然、水はくるぶしから膝へ、膝から腹へ、腹から胸へ、胸から顎へ、次第に上ってくるわけで、それ以上水が上ってきたら、我々は体を水に浮かせばそれでよいのである。ところが、ここでは波打ち際から沖に向って一直線にジャブジャブと歩いてゆくということが全然できない。というのは、成程砂浜はあるが、波打ち際からは砂浜が姿を消し、大きな岩がゴロゴロと転がっているのである。しかもその岩には一面にヌルヌルとした藻がついていて、ヘたをすれば簡単に転んでしまう。かくして、我々は大変な苦労の末にようやく胸程の深さの所にたどりつくのであるが、調子に乗ってそのまま進むと、こんどはすぐ背が立たなくなる。背が立たなくなっても、体を水平にして水に浮けばそれで問題はないわけだが、世の中には、そういう簡単なことがなかなか出来なくて悩んでいる人間も案外多いもので、何をかくそうこの僕もその一人なのである。といっても、僕が全くの世にいうところのカナヅチではないことは名誉にかけてここでいっておかねばなるまい。

 さて、このように泳ぎにくい所なので、僕とY子はゴムホ−トを借りることにした。それにつかまってバチャバチャやっていれば安心だいうのが、僕の魂胆だったのだが、Y子の魂胆はどうやら別の所にあったらしい。はじめのうちは自分の思惑通り、ゴムボートの端につかまってバチャバチャやって自分なりの楽しみを享受していた。彼女もまた同じ事をしていたわけだが、彼女の方はそんなことでは次第に満足出来なくなってきた。とうとう彼女はこういった。「あそこの岩まで行きましょうよ。」彼女のいう「あそこの岩」とは、今、僕らが浮んでいる所から、およそ五十メートルも離れた所に島のように浮いている岩である。成程その岩には数人の人間が、いかにも気持ちよさそうに立ったり坐ったりしている。彼女がいきたがるのももっともだし、僕自身行きたい気持ちはおおいにある。しかしである、今僕らが浮んでいる所でさえ、立っているとは表現できにくい所なのである。まして五十メートルも沖に近い所では、僕の何十倍背の高い人間でも、おそらく背は立つまい。とすれば、頼みのつなはこのゴムボートだけ。僕の手に自然力が入り、これを客観的にいえばゴムボートにしがみつくというかっこうに思わずなったのも無理からぬことといえよう。

 彼女は答を待っている。こういう場合、「嫌だ。」とはどうしても言いにくい。「何故?」ときかれて、まさか「こわいから」とは申せまい。それで僕は顔色一つ変えずにこともなげに答える。「ああ、行こう。」そうは答えたものの、体の方はすでに先刻述べた通りのかっこうになっているので、おかしな事が遂に生じた。彼女はゴムボートの端につかまって、体はそのまま気象台の吹きながしよろしく波のまにまに漂っている。そうなるのがあたり前であろう。ところが同じゴムボートの同じ側につながっていながら、僕はどうしても彼女と同様な姿態をとることが出来ない。すなわち僕の腰は車エビの如く曲り、足はゴムボートの裏にまわってしまう。つまりは、体の後方に浮くべき足が、体の前方に浮いてしまうのだ。あげくのはては、ゴムボートの向こう側に足の指などがニョッキリ出てくる始末で、こうなると、重心がずれてゴムボートはやおら屏風の如く海上に立ちあがり、更にこちら側に倒れかかってきそうになる。先程から、不思議そうな顔をして僕の行動を眺めていた彼女はここに至っていみじくも聞いたものである。

「あなた、何やってるの?」

 何やってるの、もないものだ。見ればわかるじゃないか。僕は君と同じようなかっこうになりたいので悪戦苦闘しているんじゃないか。と心の中で叫んでみても、彼女にとってはハシを持つより簡単なことに、大の男の僕が苦心惨憺しているなどということは、とてもまともには信じられまい。僕は、ニッコリ笑って

「何でもないよ。」

 とにかく、そこは彼女の援助もあって無事きり抜けて、僕らは沖の岩に到着した。岩の上にボートを引き上げて、坐ってみれば爽快である。ここは湾の入口に近いから、波も威勢がいい。ようやく一息ついたのもつかの間、彼女は、水中メガネで魚を見るのだと言って水に入った。岩の上に坐ってみていると、うまい具合に水に浮いて水中を眺めているらしい。時々手足を巧みに動かして方向を変えたりしている。長く伸びた手足の肌が白く美しい。くらげのようだ。彼女はすぐに上ってきた。

 僕は彼女から水中メガネをかりると、同じように水に入った。先程彼女のやり方をよく見ておいたから、あの通りやればいいわけだ。まず体を浮かし、顔もつけてあたりを見廻す。水はそれ程透明ではなくて、魚の姿もみあたらない。岩が実際より遠く見える。時々波が来るので、手足を動かして岩から離れないようにする。なんだ簡単だ。しばらくして、さて上ろうか、と考えて僕はあわてた。上ろうとして、岩をつかむのだが、体が波に流されてしまうのだ。体がスーッと遠くへ運ばれて行くようだ。必死に顔をあげて泳ぎ、岩につかまるが、また流される。岩の向うから、大きな波が重なってこっちへ向ってくるのを見た時は気が遠くなるような気がした。岩の上を見ると、彼女が坐ってニコニコ笑って僕の方を見ている。僕が溺れかかっているのを知らないのだ。僕はけんめいに平泳ぎをしながら、顔だけは平静を装って、さて彼女の方を見てニッコリ笑ってみせたものだ。彼女はそれに答えて手などふっている。僕は波のひいた時をねらって、それこそ無我夢中で岩にかじりついて、ようやく上ることができた。

 「お魚はいた?」「いいや。でも荒い波だねえ。」僕は動悸のおさまらない胸をおさえて、やっとそれだけ答えた。彼女ははるかな水平線に目をやりながら、「そうね。とっても気持ちがいいわ。」僕ははるか遠くに見えている海岸まで、これからどうやって帰っていったらいいのだろうかと、笑顔の下の心の中は、まさに暗澹たるものがあった。

 旅はあっという間に終った。家へ帰ってしまうと、その短い旅のことが妙にセンチメンタルな気持ちで想い出されてきた。大学の夏休みの課題として、原稿用紙二枚、何でもいいから書けという小学生の宿題のようなことが出されていたので、僕は「旅の終り」と題して、次のような文章をものした。

 東京湾に入るとへ船の揺れがピタリと止った。ホッとしたような空気が船内に流れ、スピーカ−は、甲板に出て新鮮な空気を胸いっぱいにおすい下さいと告げた。

 左に三浦半島、右に房総半島を眺めながら船は東京湾の水の上を滑っていった。空はボンヤリと曇っていて、風は冷たい程だった。船は白い波をほうき星の尾のようにひいて走った。私の想いは、そのかすかな白い尾をたよりに明るい光にあふれた式根島につながっていた。

 島に着いた時、同行のKがポツリとこういった。

 ──こんな小さな島でも、住んでいる人たちの生活は、僕達とたいしてちがわないんだな。

 全くその通りだった。地図でみると、海の中に砂粒程の大きさしかないこの島にも、道が走り、家が建ち、家の中には台所があって女たちが炊事をしていた。

 僕はふとこんなことを考えた。この島に生まれ、この島に生き、この島に死ぬ人たちは、おそらく世界からとり残され、無視されるだろう。しかし、そんな事にかかわりなく、この人たちがここに生きているということは、疑いようもなくいい事なのだ、と。

 海岸は、細いガラス玉のような砂がしきつめられ、透明な水が、岩と岩の間に海藻を運んできた。光は、海に、岩に、若者たちの黒い肌にはね返った。夜になると、黒い空に白い砂のような星がしきつめられ、時々打ちあげられる花火が、電光のように海辺を照らした。僕は、今までの自分が、ひどくふけ込んでいたように感じはじめた……。

 夕闇が船を包みはじめていた。船は、ゆっくりと東京港竹芝桟橋に横づけになった。灰色の空を、白さぎの列がV字形になって、東京タワーの方へ飛んでいくのが、旅の終りの光景にふさわしいと僕は思った。

(1972)




親友とその彼女を含めた四人の小旅行は、ぼくの鬱屈した大学時代の中での数少ない光に満ちた幸福な思い出です。ここに出て来るY子は、今のぼくの妻。それにしても、あそこで溺れ死ななくてよかったと思います。ちなみに、水泳のほうは、その後もいっこうに上達せず、むしろますます泳げなくなってしまっています。今なら、確実に溺死です。なお、この文章の中に見られる妙にくどい文体は、当時読んだ「トリストラムシャンディ」(朱牟田夏雄訳)を意識的にまねしたような気がします。(1998)