森有正氏との出会い


 日本語というものは、実にやっかいなもので、たとえば、こうして私が森有正という人について書こうとする時、森有正氏と書くべきか、森有正先生と書くべきか、あるいは森有正さんと書くべきかで大変迷ってしまう。氏とか先生とかさんとかいう言葉が微妙な感情を含むことが多いから困るのだ。例えば先生という言葉は、大変丁寧でいいようだけれど、地方代議士だの芸能人だのにも使われていることを考えると、どこかコビヘツラウような感情が漂っているように思えてならない。一人の人間が、私の前に一人の人間として存在している時、その人間に対する呼び名は、無色透明な言葉でなければならない。私はそういう言葉をさがしたけれど、結局あきらめる他はなく、氏という言葉でもって代用させることで満足しなければならなかった。つまらないことにこだわっているように思われるかも知れないけれど、このことが森有正氏について語る時、何よりも大切なことのように思われるのである。

 森有正氏の著書に親しむようになってから、はや五年の月日が流れている。「バビロンの流れのほとりにて」は、一年かかって読んだ。大学紛争にあけくれ、自分という人間に全くあいそをつかしてしまっていたその一年間、私が、かろうじて精神の破滅からまぬがれ得たのは、私が肌身離さず持ち歩いていた「バビロンの流れのほとりにて」一冊のおかげだった。

 今からふり返ってみると、そのころの私は、決してよい読者ではなかった。なぜなら、私はあまりにその本に頼りすぎていたからである。海で溺れかかった者が、救助しにきた者に全てをまかせ切ってしまうように、私も、森有正氏に全てをまかせ切ってしまっていた。そういう読者であった私の中で、森有正氏が次第に神のような存在になっていったことは無理のないなりゆきだった。そういうことの危険性に私が気づかなかったわけではないし、又、そういうことを固くいましめていたのは他ならぬ森有正氏だった。けれども、その頃の私は、そうするしか精神の破滅からのがれる道がなかったのである。

 森有正氏は、このようにして、いつしか私の内部で神のような存在になっていったのだけれども、その森有正氏に直接会う機会が私に訪ずれたのである。

 書物を通して親しんできた人間に直接会って話をしたいという欲求は誰にでもあるが、必ずしもその目的は明瞭でない。読者の訪問を受けた堀辰雄は、自分の真の姿は著書の中にあるのだから、あなたに直接語ることは何もないといっている。それは至極当然のことであり、やたらと著者に会いたがるのは、女学生が映画スターに会いたがるのと同様に、単なる好奇心にすぎない。もっとも、私も女学生のように好奇心が旺盛で、森有正氏を一目なりともみたいという欲求があるにはあった。けれど、それはそれだけのもので、私は堀辰雄の言葉に多大な共感を寄せていた。

 ところが、実際に、森有正氏に会えるという段になると、私の心は一種の興奮状態におちいった。私には、それが一生のうちに何度あるかわからない精神的な大事件のように思われだしたのである。このちょっと大げさな考えは、しかし、全くの誇大妄想ではなかった。我々が生きていく途上で、ぶつかる様々な事件のうちで、他の人間との「出会い」が最も重大な事件であることは疑えない。しかし印刷技術が発達し、またテレビ、ラジオが普及した今の社会では、そういうものを通しての「出会い」が無数に起こり得る状況にある。今、テレビのスイッチをひねれば、たちまち私は何人かの人間に「出会う」ことが出来る。けれど、その「出会い」は、決して生きた人間同志の、一回限りの「出会い」ではない。私がテレビに出ている某氏に「出会った」瞬間に、同時に数百人、数千人の人間が某氏に「出会っ」ている。「出会い」が一人の人間と一人の人間とが、ある場所で、ある時間に、一回限り「出会う」ことであるとすれば、それらマスコミを通した「出会い」は幻影でしかない。

 堀辰雄の理解という点では、生身の堀辰雄に会ったところで、それ程得る所はないかも知れない。けれど、それにもかかわらず、堀辰雄に会いにいった読者の気持ちは、何らかの下心がない限り、純粋なものであったといえるだろう。それは好奇心であるかも知れないが、純粋であることによって好奇心を超えてしまっている。現代では、誰もが、生身の人間との「出会い」を求めている。そして、それだけに、生身の人間との「出会う」ことの出来る人間は非常に限られてくる。ある女学生が、ある歌手を熱烈に好きだとしても、多くの場合、彼女は演奏会の狂騒の中で、かろうじてその歌手と握手をすることで満足しなければならないだろう。そしてその空しさに気付いた時、彼女の心は、平凡な恋人へと向うはずである。それはともかく私を訪ずれた森有正氏との「出会い」の機会が、大事件と思われたのは、こういった今の社会の状況を考えれば、必ずしも大げさではないということがわかると思うのである。何しろ私は全く平凡な一人の学生にすぎない。森有正氏は、十数冊もの著書をもつ「偉い」人である。いや森有正氏は「偉い」人にとどまらない。私にとっては神にも匹敵する人である。その人に、私は会える。会って、もしかしたら話ができる……。

 森有正氏に会うという前の晩、私は、森有正氏と私の目の会う最初の瞬間のことを想像して、思わず身ぶるいをした。私は、おそらくその時、たおれてしまうに違いないと考えた。今までの私は、いくら森有正氏を尊敬しても、愛しても、単に森有正氏を「見る」私でしかなかった。けれどあした私は、森有正氏に「見られる」私になり、そして「見られた」私になる。それは、私と森有正氏の関係の、決定的な変質ではないだろうか。外面的には、何の変化もないだろう。私はやはり私であろう。けれど、私の内部は決定的に変質するはずである。私はそこまで考えた時、ハッとした。今、まさに森有正氏は私の内部で神になったと気づいたのである。森有正氏をキリストにおきかえた時、今私の考えていたことは、信仰の本質ではなかったか。キリストに「見られている」自分を、もし私がこのように明瞭に認識できたとすれば、私はもうその時既に、信仰に生きはじめているはずだ。私はそう思った。あした、森有正氏は、どんな目で私を見るだろう。そしてその時私は何を思うだろう。私はおさえ切れぬ興奮に疲れて眠りにおちた。

 私に何故森氏に直接会う機会が訪ずれたのかということについて簡単に説明しておこう。私の友人にKというのがいる。そのKの父君が森氏と親交があり、Kがクラッシック音楽に興味のあることをその父君から伝え聞いた森氏が、御自分のパイプオルガンの演奏をKに是非きかせたいということになった。その際にKが私をさそってくれたというわけである。

 私がKとともに、国際キリスト教大学のチャペルに着いたのは、朝の八時頃だった。家を六時頃出たにもかかわらず、約束の時間にかなり遅れてしまった。大学の門をくぐってからもタクシーはチャペル前につくまでかなりの距離を走ったようだ。広い構内にはまだ人影も少ない。雀の鳴く声が大きくひびいている。車を降りてチャペルに近づくと、内からパイプオルガンの響がかすかに伝わってくる。森氏はこうして毎朝五時から九時までオルガンをひくのが日課になっているという。そのことは氏の著書にも書かれていた。正面のドアーが閉っているので我々は裏へまわった。チャペルの内は厳そかな音に満ちあふれていた。正面に巨大なパイプオルガンが据えてあり、森氏の姿はその陰になって見えない。しかし、この堂内の空間を満たしているバッハの音楽は、森氏の指から流れていることに間違いはない。僕とKは静かにイスに坐った。

 両側の大きなくもりガラスの窓からは、朝の光がまっすぐにさし込んでいる。オルガンの音は、断えることない奔流のようにあとからあとから流れでてくる。一曲が終ると一瞬の静寂。せきばらいが聞こえる。しかし、その静寂もたちまち新しい音の奔流にかき消される。一時間がまたたく間に過ぎた。

 音楽が終った。イスから立ちあがる音がした。その時私の全神経はたえられない程に緊張していた。

 森有正氏は私の前に全く予想外の姿で現われた。私の予想では森氏は重々しい足取りでゆっくり私の方に近づき、ニコリともせずに私のあいさつに対して威厳をもって会釈をするはずだった。しかし、実際には森氏は、オルガンの間からヒョッコリ顔を出し、我々をみとめると、顔をくしゃくしゃにして微笑しながら丁寧におじぎをし、歩くというよりは小走りで我々の方へやって来た。「Kさんですね。」と森氏は我々二人に向ってそういった。Kが黙って答えないので私が「ハイ」と答えた。「どうぞオルガンの方へ。お見せしましょう。」森氏は、我々にオルガンの構造を説明して下さった。いろいろとひいてみて下さるわけだが、その時私はほとんど驚愕した。森氏の指は太く短く、又その足も同様に短い。オルガンはペダルもあるので演奏する時の氏の格好は決してカッコイイとはいえない。悪戦苦闘という感じがする。鍵盤の上をはう指も、見ていると女流ピアニストのそれのような優美さは全くない。これがあの壮麗な音楽の演奏者の姿だとは!私があの豊かな音の流れに静かにひたっていた時、森氏はこのような悪戦苦闘をしていたのだ。森氏の髪には白いものがかなり目立った。私はオルガンをひく氏の真剣な横顔とその短い無骨な指とを穴のあく程みつめていた。

 「さあ、朝ごはんを食べに行きましょう。食べすごしますよ、九時までですから。」そういって氏は立ちあがり、楽譜をカバンにしまった。その楽譜は、紙が黄色くなっていて四つの角ばかりでなく辺までが擦れてぼろぼろになっていて、しかも赤や黒でビッシリと書き込みや印がついていた。そういう楽譜が、古ぼけた黒のビニールカバンにチャックも閉められないほどギッシリとつまっている。我々の前を早足に歩いてゆく氏の背広はかなりくたびれているようだった。靴もピカピカではない。ワイシャツもしわが目立つ。

 我々はICUの食堂で朝食をとった。そこはセルフサービースなので、森氏は慣れない我々の先頭に立ってアルミのお盆をとり「これをこっちへ持って来て下さい」というと、さっさと配膳のカウンターの方に行き、そこのおばさんともていねいな挨拶をかわす。それから「三人分です」といって古めかしい財布から代金を払って下さった。テーブルに坐るとすぐに「あ、これはソースですから卵に入れると大変です。これかな、しょう油は。」といってもう一つのプラスチック容器の口を鼻の所へ持っていって「ああしょう油です。」食べ始める前に、手をひざに置いて祈っていらしたのが印象深かった。

 「どちらがKさんですか。」「ぼくです。」「あなたは?」「山本と申します。」「山本さんですね?」「はい。」「Kさんは高校?」「一年です。」「山本さんも一年?いやもっと上でしょう。」「大学三年です。」「ああ大学生ですか。どちらの?」「教育大です。」「ああ教育大ですか。大変ですね。やっぱり筑波へ移るんですか?」「ええそういうことになったらしいです。」「三教官の問題はどうなりましたか。」「まだ正式には何も決っていないようですが。」「家永さんは授業やってらっしゃいますか?」「ええ。」

 実をいうと、そのころの私は、筑波問題に対する質問には閉口していた。私が教育大の学生と知るとその質問をしない者はいなかったからである。だから、森氏にその質問をされた時、内心失望した。氏に対してではなくそういう質問が出ざるを得なかったということに対してである。しかし、それ以外にどんな話題があの場合あり得ただろうか。僕は、氏に向って自分が氏の愛読者であるということすら告げ得ない程臆病だった。

 私とKが食べ終ったのを見ると氏は、また自分の食べ終っていないのに立ち上って「牛乳はお嫌いですか。」「いいえ。」と答えると、「じゃあ買ってきてあげましょう。ここの牛乳はおいしいですよ。ここで牛を飼っていて、それからもらってきたものですから。」といって二本買ってきてから、また食事をし、それが終ると今度は自分のを買いに立ち上がり、自動販売機の方へ行きかけたがすぐ戻ってきて「この牛乳ビンのフタはヒモがついてますから、それをひっぱるとあきます。」そう説明して下さってから買いに行かれた。

 食事が終るとすぐに「じゃあ行きましょう。これを持って……」と盆を持ち、またカウンターに行って「このお皿はここ、これはここ、この卵のカラはあそこ。」と我々に教えながら片づける。外へ出ると、すぐ帰りの道を教えて下さり「それじゃあとは御自由に。」と両手を広げ、それから九十度ぐらい腰をまげてていねいにおじぎをなさった。

 私はとうとう森有正氏と筑波移転問題以外の話をせずに終ってしまった。その日、小脇にかかえて持っていった氏の著書「バビロンの流れのほとりにて」に署名をお願いする勇気も最後まででなかった。しかし、そんなことはどうでもよかったのだ。その日の私の最大の収穫は森有正氏も真剣に生きている一人の平凡な人間に過ぎないということがわかったことだといってよいだろう。著書から想像される著者というものは、しばしば実際の著者とかけはなれたものになってしまうものだ。しかし、その両者はともにその人の真実の姿なのだ。そしてその一見かけはなれた二つの姿に、ある微妙な均衡を見出した時、我々ははじめてその人を理解したといえるのではなかろうか。

 神なる森有正氏は私の心の中から消え去った。それと同時に、この苛酷な現実を背負ってひとり歩いている同時代人としての森有正氏が私の心の中に生きはじめた。オルガンをひく時の氏のあの悪戦苦闘の姿、そしてまた食堂のおばさんとにこやかに挨拶する氏の謙虚な姿が、三鷹から電車にのった私の頭の中に静かにそして鮮やかによみがえってきていた。

(1972)




忘れっぽいぼくには、このような文章はスナップ写真以上に貴重です。今は亡き森有正の姿が鮮やかによみがえってくるのを感じます。今のぼくは森有正の著作にそれほどの魅力を感じてはいないのですが、ここに書かれているように、大学時代のぼくを精神的に支えてくれたのは、森有正の著作だったのです。なぜ、その思想がぼくの心をとらえ、なぜ急速に魅力を失っていったのかを、そろそろ検証しなければならないのかも知れません。(1998)