黒い影


 先日、母の叔母にあたるおばあさんが、交通事故で亡くなった。母の末妹の結婚式も無事済んで、いなかから母の帰った翌日のことである。母は再び葬式に出席する為にいなかに戻らねばならなかった。

 いなかというのは、新潟県の青海町である。新潟といっても富山に隣接する北陸の町である。ここの海岸沿いに見事な道路が貫通したのは五六年も前のことであろうか。カーブの少ない幅の広い、ドライバーにとっては快適な道路である。事故の起ったのはその道路であった。

 時刻は夕方で、おばあさんは孫の通う幼稚園へ何かの用があって行く途中の出来事だった。直線の道路とはいっても、事故のあったあたりは、ちょうどゆるやかな坂の頂点付近で、見通しが悪かったらしい。夕闇の中に、おばあさんの姿はまぎれてもいただろう。横断歩道のない所を急に渡ろうとしたのか、それとも規則通りに横断歩道を渡っていたのか、その辺の詳しいことはわからない。かなりのスピードで走ってきたらしい乗用車にぶつかり、十数メートルひきずられたということだ。内臓破裂。隣の糸魚川市の病院に運ばれたが、その夜のうちに息を引きとったという。

 乗用車に乗っていたのは、若い婚約中の二人だった。

 葬式から帰って来た母は、死んだおばあさんのことよりも、図らずもおばみさんを殺してしまった若い婚約者の二人について多くの言葉を費やした。二人は、葬式の日、泣き通しだったという。その姿がひとしお参列者の同情をかったという。

 俗に魔がさすという。この時も、魔がさしたのに遠いなかった。若い二人は、長いドライブ──それも婚約中の大事な記念となるべきドライブ──を、あと五分程で終えようとしていた所だったのだ。。二人はその時、何を話していただろう。今日のドライブの楽しい思い出をもう話の種にしていたかもしれない。あるいは又、結婚式について二人で想像しあっていたかもしれない。その時、フロントガラスを黒い影が横切った。その黒い影はそのまま彼等の心の奥に染め抜かれてしまった。もう洗い落とすことはできない。

 おばあさんは、内臓は手のつけようのない程こわれてしまっていたけれど頭はそれでも割合はっきりしていて「私はもう死んでもいいんだ。うらみはない」といったようなことをいい、意識が薄くなると、うわ言に、「赤紙が来た。赤紙が来た。早くしたくをしなくちゃ」といったようなことをくり返したという。おばあさんの夫は、戦死したのである。何から何まで不幸な人だった、と母はいった。そんな不幸な人が、こんな不幸な死に方をする、いったい何の因果だろう、ともいった。

 たしかにそれは不幸な死だった。けれども、世の中に幸福な死というものがあるものだろうか。死とはいつも不幸なものなのではなかろうか。不幸ではあるけれど、ある安らかさが平等に配分されている。それが死というものではないだろうか。僕は、不幸なそのおばあさんに安らぎが与えられたことを信じることができる。それを信じられるから、僕たちはやがて死に「不幸な」という形容詞をつけることを忘れてゆくのだろう。そこに純粋な死だけが残る。

 死んだ人はすでに安らぎを得た。けれどもこれから生きてゆかねばならない若い二人にいつ安らぎが訪れようか。そのことを考えると思わず背筋が冷くなる。生には安らぎはなく、ただ果てしない苦しみだけがある。生きるということは、その果てしない苦しみに耐えることなのだ。その若い二人にとって、そして僕たちすべてにとって、生とはそれ以外の何物であり得るだろうか。

(1971)




今までぼくの前を様々な死が通り過ぎていきました。そしてその都度、ぼくは何かを学び、何かを失い、年を重ねてきたように思います。この文章を書いたとき、どんなに生きることが大変かをまだ実感はしていなかったはずですが、それでも「予感」があったのでしょう。いやはや、生きていくだけでも大事業です。(1998)