眼の喪失

三島由紀夫と能


 三島由紀夫をまのあたりに見たのは、三度か四度だったと思う。いずれも、観世流の能の会である「鉄仙会」の会場でのことである。観世会館の、脇正面にいつも坐っていた私は正面席の一番前の列のほぼ中央の席を占めている三島由紀夫と瑤子夫人を度々見かけることがあった。

 三島由紀夫は、「鉄仙会」のS会員であったから、その席は彼の専用であった。けれど、彼は毎回顔を見せるわけではなかった。観世鉄之丞とか観世寿夫のシテで、しかも、定家だとか、清経だとかいう、見ごたえのある曲の時に限ってあらわれ、しかも、一緒に演ぜられる狂言や、鉄之丞や寿夫の弟子の出る曲は、一度として見たことがなく、一曲だけ見ると、夫人とともにサッソウと立ち去るのである。そんな時、私は友人と顔を見合わせてオレたちは意地がきたないから、全部見なきゃ損だといって、おしまいまで見るが、なる程ああいうのが理想的な見方かも知れないねえなどと話したものである。狂言にも多分に同情的な私は、そういいながらも、せめて、野村万蔵ぐらいは三島由紀夫も見たってよさそうなものだ、と多少腹立たしい思いでいたが、一度として、「万蔵を観る由紀夫の図」は見ることができなかった。

 三島由紀夫が、能を観る時の有様、形相は、すさまじいものがあった。腕を組み、舞台にすい寄せられるように身をイスから乗り出し、目を大きくみひらき瞳を舞台の一点に釘づけにしている。固く結んだ薄い唇は、内部から湧き起る激しい衝動をジッとこらえているようだった。三島由紀夫は、そういう時、その精神といわず肉体といわず、全身全霊が、能の舞台の空間に、くさびのように食い込んでいるように思われた。それはもう芝居を観るなどという生やさしいものではなく、舞台と真剣勝負をしているような迫力があった。それは暇を持てあましている人間が、上品ぶってわかりもしない「お能」を観ているのとは全然違った精神の活動であった。そして、それは又、国文科の学生が、「教養のために観る」のとも違う。いってみれば、「観る」ことで、その瞬間を火のように生きている一人の人間の姿なのであった。

 能をあのように観る人を、私は三島由紀夫の他に知らない。その三島由紀夫が、既にこの世の人でない今となっては、能があのように観られることも、もうないといっていい。三島由紀夫のように能を観ようなどと言ってはいけない。我々が三島由紀夫のように生き、三島由紀夫のように死ぬことが決して出来ないと同様に、三島由紀夫のように能を観ることだって絶対にできはしない。「三島由紀夫」という固有名詞は、「のように」という言葉のつくのを決して許さないのだ。

 観世会館に、サングラスをかけた三島由紀夫があらわれることはもうない。ぽっかりあいた三島由紀夫の席を前にして、舞台の上の鉄之丞が、寿夫が、感ずるものは何だろう。おそらく、それは、自分を見つめる、稀有の眼の喪失への限りない悲しみであるに違いない。

(1971)



三島由紀夫が死んで、すでに30年近く経つことにびっくりしています。彼の政治的信条には共感を持てなかったのですが、その演劇や小説、そして数多くのエッセイ・評論にあふれる才気には心底魅了されました。その三島由紀夫と何度も能を共に観たというのは、ぼくにとっては貴重な体験です。しかし、今となっては、万蔵も寿夫もすでにこの世の人ではありません。万蔵の「木六駄」、寿夫の「定家」は生涯忘れることのできない舞台です。(1998)