教育の自立について


 ごく一般的にいって「大学教授」というのと「高校教師」というのとでは、そこから受けるイメージがひどく違う。前者が雲なら後者は泥といった所だろうか。「大学教授」といえば、まず、ぎっしり本の並んだ書斎が目に浮かび、つづいて数冊の研究書やその他の著書が思い浮かぶ。学会で講演する姿、あるいはテレビの教養番組で対談する姿、はたまた、学士院賞を受賞する姿など、さまざまな大学教授の姿も思い出される。それに比べて「高校教師」はどうだろう。貧弱な専門書、数冊の教育雑誌、週刊誌、教養書などのおかれた書斎。もちろん著書などはなく、その代りに子供と奥さんがいて、アパート暮し。夜はテストの採点、日曜はクラブ活動の指導。まあ、そんなイメージだろう。

 それだけのイメージでも、両者の優劣は歴然としているが、大学教授の背後にどっかと腰をおろしている「学問」が、それを決定的なものとする。その「学問」に対抗するものとして高校教師が持っているのは「教育」だが、「大学教授」も又「教育者」であることが、高校教師を打ちのめしてしまう。大学教授は、「教育」と「学問」の両者を仕事とするが、高校教師は、「教育」だけであるということから、高校教師は「大学教授になれない者が仕方なしにやっている」とか「いずれは大学教授になることを目指している」とかいったイメージを持ちやすいし、現にそのような高校教師は決して少なくないはずである。このように、イメージにおいて、両者に雲泥の差があるとみられたり、高校教師自身に、いってみれば「学問コンプレックス」というようなものがひそんでいたりするということは、結局「学問」と「教育」が全く別の行為であり、仕事であるということが、世間の人にも、高校教師自身にも、ハッキリと認識されていないというところに原因がある。

 それでは「学問」と「教育」とはどこが根本的に違うのであろうか。「学問」が対象とするものは、論理の世界である。例えば国文学なら、研究対象は現実の文学的事象あるいは文学者であるが、そこからある論理を抽象することによって、それははじめて「学問」として成立する。「学問」とは「真理の探究」といわれるが、その「真理」とはあくまで「論理」の裏づけを持つ「真理」でなくてはならぬ。従って厳密にいえば「学問」とは「論埋の探究」であるというべきだろう。従って、それは、あくまで現実を対象としながら、究極に於ては「普遍なもの」を目指しているといえる。極端な例では、現実とは関係のない論理の世界だけで構築される数学のような学問もある。そういう数学は、その意味では最も純粋な「学問」であるといえる。

 さて、それに対して「教育」が対象とするものはあくまで現実の人間である。比喩的にいえば「教育」は、「教育者」と「被教育者」の中間に存在している行為そのものであるということが出来る。従って「教育」は複数の人間を必要とするもので、「学問」があくまで「孤独な作業」であることと根本的に相違する。

 又「学問」も、行為であることは確かだが、その結果として具体的にいえば必らず「論文」が生まれる。「論文」は書かれ印刷されたものであるから、それは形として残るし、明確にその結果を確認することが出来る。そして、その論文が価値を持っていれば、何年たっても滅びることはない。それに比べて、同じく行為である「教育」は、結果が形となって残らない。「教育」という行為は、現実の人間の中に解消してしまうかに見える。「教育」という行為は、その現実の瞬間においてある完結性を持っている。従って「教育」はいつまでたっても現実から離れることは出来ないし、現実から離れた時は、「教育」が、「教育」でなくなる時である。この「教育」の現実への癒着という事実こそ、「教育」が、「学問」や「芸術」にくらべて、卑しめられ、軽んぜられて来た最も大きな要因である。しかし、もし「教育」の自立があり得るなら、この現実への癒着という事実を「教育者」自身が積極的要因として自覚することをおいて他にはない。

(1971)




このころの僕は、大学院に進むか、それとも卒業して教師になるかでおおいに悩んでいました。大学に入学する時は、教師になるつもりだったのですが、大学の学問的な雰囲気に魅力を感じ、学問の道も悪くないなと考えていたのです。しかし、その後の大学紛争はそうした学問への漠然としたあこがれに水をさし、大学そのものへの嫌悪すら生じさせてしまいました。しかし、一方で教師の仕事の空しさのようなものを僕は感じざるをえず、そんな中からこんな文章が生まれてきたように思います。現状としては、高校や中学の教師に対する世間の目はこの頃よりもいっそう冷たくなり、その「社会的地位」はほとんど地に落ち、さらにその仕事の重要性、過酷さに見合うだけの金銭的報酬もない職業になってしまっています。現在の教育の荒廃について論じるとき、決まって教師の質の低下というようなことが言われ、研修の機会を増やそうなどと提言されますが、それより教師の給料を少なくとも今の倍にすることが先決です。(1998)