芸術の一段階


 大学に入って、僕は多くの絵を見、多くの芝居を観、多くの音楽を聴いた。芝居に限っていえば、能、狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎といった日本の古典芸能はほとんど観た。それも繰り返し観たし、新劇もそれに劣らず多く観た。受験勉強から解放されたという自由な雰囲気の中では、そういった本物の芝居を観るということだけでも僕には十分価値のあることと思われた。見終ったあと、友人と喫茶店に入り、慣れないタバコをふかしながら、今観てきた芝居について、いっぱしの口をきくのは楽しいことだった。見るもの全てが珍らしく、僕も好奇心が旺盛だった。その頃の僕に向って「何故観るのか」と質問したら、「観ておいて損はないから」という答えが即座に返ってきただろう。「観ておいて損はない」──何という言い草だ、と今なら思う。しかし、その時は確かにそう考えていたのだ。僕は、未知の世界を知りたかった。新しい体験をしたかった。そして、そういう新しい体験が、必ず僕の「成長」に役立つと信じていたのだ。そして、そういう新しい体験の連続が、その頃の僕の日常生活だった。

 あれから三年たった。芝居を見ることはごく稀になり、絵もあまり見なくなった。音楽も、ベートーヴェンに代って、石田あゆみの出番が多くなった。僕は、だんだん「芸術」から縁遠い人間になってきたのだろうか。

 僕はそうは思わない。××デパートで「ルノワール展」をやってるといえばすぐに飛んでゆき、○○美術館で「レンブラント展」をやっているといえば授業をさぼってでも見にいった三年前の僕が、果して今より「芸術」に近い所にいたといえるだろうか。何故僕は「ルノワール展」を見に行ったのか。それは「見ておいて損はない」と思ったからだ。では、何故そう思ったのか。それは、ルノワールが有名な画家であり、そういう画家の絵の実物を見ることの出来る機会が少なかったからだ。そして、人の頭ごしに実物の絵を見て、人並みの感動を得て帰ってきたというわけだ。たしかに損はなかった。結果的にみれば大いに「得」をしたとさえ言えるかもしれない。しかし、それが「芸術」ヘの接し方といえるだろうか。

 僕は次第にデパートで開かれる展覧会に興味を失っていったが、その頃から僕は、親しい女友達と銀座を歩いていて疲れると、四丁目のソニービルの隣にある日動画廊で休むようになった。そこでは、たいてい誰かの個展をやっていて、しかも、とても坐りごこちのよいイスが設置されているのだ。僕たちは歩き疲れた体をそのイスにあずけて、しばし絵を眺めるのだ。そしてたいていはどれが一番いいかという話になる。二人ともそれほど絵がわかるわけではないから、勝手なことをいうことになる。何もいわない時もある。たまに、買うならこれだというのがあることもある。そんな時はその絵の前に何十分でも坐っていて、見あきたら見あきたから買う必要はないということにして画廊を立ち去る。画廊を出てしばらく歩くうちには、誰の個展だったかたいてい忘れている。しかし、二人で買うことに決めた絵がいつまでも忘れられないこともしばしばある。

 こういう場合について考えてみると、まず僕達が、日動画廊へ入ろうとする動機は、体を休めたいという自然な欲求ではあっても、「見ておいて損はないから見ておこう」というさもしい根性では決してない。しかも、単に体を休めるなら喫茶店でもいいのに画廊に行くというのは、そこが無料であるということだけではなく、そこに絵があるということにもよることは確かである。更にいえば、もしかしたらとてもいい絵があって僕達を喜ばしてくれるかもしれないという期待がそうさせるのだ。画家はたいてい聞いたこともない人である。従って僕達はそこに並んでいる絵に対して全く自由である。ある時は不快な感じを、ある時は心の底から暖かくなるような感じを僕たちは素直に受け取る。押し寄せる人波にもみくちゃになって、好感すら持ち得ない「名画」に懸命に感動しようと目を光らせ歯をくいしばっているなどというのは、考えてみれば馬鹿らしい。

 芸術は、何よりもまず憩いの場であっていい。日常生活でパンのようにこわばった心を、やわらかくほぐし、うるおいを与えてくれるものであっていい。苦しみ悩む魂を優しく慰めてくれるものであっていい。これが芸術の第一段階だ。

(1971)




一種の教養主義から懸命に脱皮しようとしている僕の姿といったところでしょうか。なんだかとても理屈っぽい自分に、今では呆れてしまいますが、まあ、若さということでしょう。(1998)