荻須高徳展


 先日、鎌倉の近代美術館でひらかれていた荻須高徳展を観る機会に恵まれた。閉館まぎわだったのでゆっくりと鑑賞する時間がなかったけれども、いろいろなことを考えさせられてしまった。

 僕はこの荻須高徳という人がどのような人なのか全く知らない。ただ、七〇才に近い高齢者で、長くヨーロッパにいて絵を描きつづけてきた人らしいということを知るのみである。絵は、油絵と水彩で、油絵が主な仕事であるようだ。展示ももちろん油絵が圧倒的に多い。題材はほとんど建築物に限られ、しかも、東京でいえば下町のような所の建物を好んで描いていて、又それと同時に、教会とか、大きな建物もかなり多く描いている。建物を描くといってもいろいろな描き方があるが、彼の場合は、壁などを画面いっぱいに大きく描き込むのが特徴的である。色は茶系統を基調として、赤・青などを局部的に使うといったような作風である。

 何も僕は、荻須高徳たる画家の絵を解説するつもりはない。いくら言葉を尽しても、一枚の絵すら再現できるものではないのだから。が、これでおおよその見当はつくだろう。例えば、パリの街角の建物を描いた絵がある。壁はいたる所はがれていて、その上にポスターをはがしたあとがあったり、しみがあったり、およそきれいではないが、いかにも古びた感じがする。そういう壁を画家はほとんど執念に近いものをもって描いている。

 その壁に画家は何を見ているのか。そして、その壁をカンバスに描くことによって何を表現しようとしているのか。それを想像することはそれ程困難でない。いや、むしろ容易すぎる位なのだ。それは、一見きたないものに美しさを見つけるとか、下町のわびしい住居に、思いがけない美しさを見つけるとか、そういったことでは断じてない。彼はそういうことにはほとんど無関心といっていい。彼が描いているのは、それがゴシックの教会であれ、下町の建物であれ、街角の壁であれ、ただ一つだ。それは石である。石であり、石に刻まれた文化の重みである。

 よく若い画家がヨーロッパへ行ってくると展覧会を開く。そこに並べられる絵は、もちろんヨーロッパの風景を描いたものには違いないのだが、それはただ東京タワーのかわりにエッフェル塔を描いたものにすぎないといった場合がきわめて多い。そういう彼等は、ヨーロッパヘ写生旅行にいったにすぎない。単なる写生旅行なら、北海道だって、九州だっていいはずなのだ。彼等の描いてきたものはヨーロッパの風景であって、ヨーロッパそのものではないだろう。ところが、荻須高徳が描いたものは、まさしく、ヨーロッパそのものだ。そこに並べられている絵は、荻須高徳の経験したヨーロッパなのだ。

 それを理解した時、僕は一種の名状しがたい重苦しさを感ぜずにはいられなかった。この重苦しさはいったい何なのだろう。僕はその絵の内面的な深みに感動していた。それにもかかわらず、その感動は僕の心をはずませることなく、かえって重く沈ませてしまった。そしてしまいには、それらの絵を見ているのが苦痛にすらなってきたのだ。

 わかりましたわかりました。たしかに、ヨーロッパというのは文化の重みがひしひしと感ぜられる所ですね。その文化は、決して軽薄でなく、そう、それはまるでどっしりとした石の家のように堅固なものですね。それはもう、本当によくわかりました。けれど、けれど、僕たちはどうすればいいのでしょう。吹けば飛ぶよな木と紙の家に住んで、しみもあかもないきれいな壁のたち並ぶ東京という街に生きている僕たちは……。

 そうだ、それは、森有正の著作を読んでいて絶えず感じていたあの重苦しさと全く同じものだ。森有正があの堅固な思想を形成し得たのは、ヨーロッパに数十年も住むということが不可決の条件だったごとく、荻須高徳の絵も、彼の数十年の滞欧生活の上にはじめて成ったものなのだ。だとしたら、僕たちにとって、これ程絶望的なことはないのではないだろうか。この事実を目前にして誰が絶望的な気持ちにならずにいられようか。その絶望は、ある者をヨーロッパに行かせ、ある者を奈良、京都への旅をさせる。しかしヨーロッパに行けず、奈良、京都に失望しか見出せない者は、いったいどうすればいいのか。これが、森有正を読みつついつも感じていた不安だった。この不安は大きく、しかもなかなか消えそうにない。

 その日、展示場の片隅にあつた水彩画の小品に心の安まるのを感じたのは、果して僕の敗北だったのだろうか。

(1971)




森有正との別れは、この辺から始まっているようです。こんなにもヨーロッパの重圧が当時のぼくにあったのは、今振り返ってみると不思議な感じがしますが、森有正の一種のヨーロッパ至上主義から、どうやって自由になるかを模索していたのでしょう。水彩画への好みがこんな所に図らずも顔を出していて、僕自身にとっても興味深いものがあります。

(1998)