ある日の憂鬱


 どうして僕は最近こんなに怠惰になってしまったのかなあと歩きながら考えていた。これから、あそこの駅まで歩いていって、電車にのって学校に着けば、かならず研究発表会がはじまるっていうのに、しかも僕自身が研究発表者の一人なのに、僕はろくな準備もしていない。ようやく作った発表用のプリントも、見るのもおぞましいような粗雑さにみちみちている。これを他人に配るのかと思うと、身がちぢまってしまいそうだ。しかも、家を出る時、カバンにこのプリントを入れたら、もうそれだけでいっぱいになってしまって、他に参考文献の本だとか、カードだとかが入らなかった。いいや、その気になれば入れることもできたのだ。それなのに入れようともしなかったのだ。こんなことがあっていいのだろうか。

 僕は電車に乗る。乗った電車を降り、次に乗るべき電車に乗る。朝、八時。僕の立ったすぐ隣りに、若い男と女が並んで立って、あたりをかまわない大きな声で話をしている。会社の同僚だろうか。まずい所に立ったものだ。これから三〇分、この連中の退屈なおしゃベりを聞かされるのはたまらない。他へ移ろうとするが、もちろん身動き出来るはずはない。

──住宅難、住宅難なんていうけど、私にはわからないわけよ。ずっと家に住んでるから。

──アパートの窓の所へ植え木バチなんて置くの、ありゃせせこましいね。みみっちいよ。

──庭は広くなくちゃね。

──けど案外自分が住むと、いっしょうけん命植木バチ置いたりするかもね。

──そいで、せっせと水やったりして……。でもね、家がせまくてのびのびとできないから、レジャーブームなんてことになるのかもよ。

──ボクなんか、日曜日外出る気にならないもんね、全然。

──私も、雨戸あけっぱなしで朝もねてるの。窓の外の木なんか見ながらねてるのいい気持ちよ。

──夜も雨戸閉めないの?

──うん。雨戸閉めてねるなんてイヤだわ。

 住宅難の話は、休日の過ごし方の話に移り、それが季節の話に移り、それが服装の話に移り、そして、沈黙。ざまあみやがれ、もう話題なんかないだろう。僕は心の中で意地悪くほくそえむ。それと同時に、ある光景が思い出されてくる。

 聞こえてくるのは、数知れぬ足音だけである。樹木がざわめくような無気味な足音。僕は天井の低い細い道を歩いている。歩いてくるのは、二人一組の男女たちだけである。みんな同じように腕を組んで、同じように微笑んで同じように楽しそうだ。たまに、一人で歩いている女か男を見かけるが、何だか不自然に感じられてしまう。本当に、彼等は何をしているのだろう。どうしてそんなに幸せなんだろう。愛しあっているから?本当にそうなんだろうか。愛しあうってことは、あんなふうに腕を組んで、微笑みをかわしながら、楽しそうに歩くことなのだろうか。本当に彼等は何をしているのだろう……。

 男が沈黙を破る。しかし、前の話題のむし返しだ。あきらかに彼等は活気を失っている。しゃべり疲れている。いいぐあいに電車は終点に到着だ。

 学校に着くと、真赤な字でスト決行中の立看板が目に入る。校内で、腕の中に何枚ものアジビラを押し込まれる。僕は、数歩歩いたところで傍のゴミ箱へそれをすてる。今ではそんなことを平気でするようになった。

 僕の発表は、ひどいものだった。聞く者が理解しやすいように秩序だてて述べるという配慮と、自分のいいたいことをわかってもらおうという意欲がまるでなかった。友人のSからも「君の発表は何だか全然わからなかったよ。」といわれる始末。そしてその事で僕はひどい自己嫌悪に陥った。何故もっとしっかりと準備して、まとまった発表をしなかったのだろうという後悔の念も押しよせる。

 疲れ切って横浜駅まで帰ってくれば、また人はあふれている。地下道をうめつくしているアリのような黒い頭をみていると何だかひどくさわがしく感じられるが、きこえているのは実は足音だけだ。何故だか全てのことが面倒くさい。こんな時は、これから先の人生が耐えられない程長く感じられる。僕は無気味な足音にじっと耳を傾けた。

(1971)




大学4年の秋、卒業論文の中間発表会の日のスケッチです。自分では、1年かけて懸命に取り組んだ論文でしたが、紛争によってすさみきった大学の中では、指導教官の教授にも会って意見を伺うなどという気にもなれず、ほんとに投げやりな気分だったように思います。なにしろ、指導の教授と卒論について話したのは10分にも満たなかったと思います。卒論を提出してからは、一度も話しませんでしたし、その評価も知りません。本当は、その教授と現代詩についてなどゆっくりお話もしたかったのですが、当時はそういう雰囲気すらなかったのです。まこと、鬱屈した大学時代でありました。

(1998)