91 お墓参りに行ってきた

2011.3.21


 大地震以来、落ち着いた日々とてないが、昨日は久しぶりに天気もよくて暖かかったので、お彼岸の墓参りに家内と行った。我が家の墓は横浜市営の日野公園墓地にあって、家から歩いても30分とかからないところにある。この墓地には美空ひばりの墓地もあり、年中花が絶えない。ひばりの墓は我が家の区域からだいぶ離れているが、我が家の墓のすぐそばには映画監督の松山善三氏の家の墓がある。とても質素な墓だが、高峰秀子さんがここに眠っておられるのかは墓碑がないのでわからなかった。

 ついでだから書くが、我が家の墓の右隣には、20年ぐらい前(正確にはよく覚えていない)までは、ワタミの渡辺美樹氏の家の墓があった。美樹氏の父はぼくの父の小学校時代の同級生で、家どうしも親しくしていたので、お正月になると美樹氏の父は家族を連れて我が家に挨拶に来ていたものだ。ぼくもずいぶん可愛がってもらった記憶がある。そのうち突然その渡辺家の墓がなくなり、「空き地」となった。どうしたんだろうねえ、と母なども言っていたが、ある日テレビの『波瀾万丈伝』で、渡辺美樹氏が、あの渡辺さんの息子だと母が知って、一同びっくりしたというわけである。美樹氏の幼い頃の面影もぼくはよく覚えている。それを知って、母も、そうか、お金持ちになったから、もっといいところにお墓を移したんだねえ、などと納得していた。しかし今でもその場所は「空き地」のままである。

 家内と二人で、掃除をし、墓石を拭き、お線香をあげた。この墓には、祖父と、祖母と、父、それに幼くして亡くなった父の弟二人が眠っている。

 我が家の墓の左隣は、ぼくの父の弟の家の墓である。この叔父一家とは、いろいろな複雑な事情があって、今はほとんど連絡なしの状態になっているが、墓参りに来るたびに、こちらにも必ずお線香をあげている。昨日も、すでに新しい花が供えられているその墓にお線香をあげようとしたら、墓のまわりのちょっとした掃除をしていた家内が墓石をみて「Tちゃんが亡くなったわよ。」と大声をあげた。

 Tはぼくの3歳下の従弟である。Tは、叔父の一人息子で、叔父はすでに数年前に亡くなったということを後で聞いたのだが、まさかTがと思って墓石を見ると、真新しい刻字で、今年の1月末に亡くなったことが確認できた。叔父と同様に、ぼくらにはその死は伝えられなかったのだ。そのこと自体は、家と家との複雑な問題があり、仕方のないことだと思っている。

 しかし、Tの死は、ショックだったし、悲しかった。小学生になるまで兄弟のいなかったぼくは、近くに住んでいたTとはよく遊んだ。気持ちの優しいかわいい子だった。成人してからは、ほとんどつきあいはなかったが、墓参りにくるたびに、どうしているかなあと思っていたのだ。

 Tの死を、携帯で妹夫婦の家に電話すると、母を連れてこれからそっちにタクシーで行くところだったとのこと。それでかれらの到着を墓で待つことにした。トイレに行きたくなったので、少し離れた墓地の入り口のほうに行ったところ、たこ焼き屋があった。いつもは買おうとも思わないのに、急に食べたくなって、6個入り1箱を買って、墓に戻ろうとしたところで、母の一行に出会った。みんなでTの冥福を祈った。

 じゃあ、これも供養だ、たこ焼きを食べようということで、一つずつ食べた。ぼくは2個食べたが、1個落としてしまって、大きな笑い声が青空に響いた。ぼくらの家族は、どうもこういう変なところがある。(リンク1)(リンク2

 それにしても、Tはどうして亡くなったのか。まだ58歳だった。こうして一人、また一人と、ぼくの前から去って行く。言いようの寂しさを感じる一方で、大震災の真っ直中だというのに、暖かい光が降り注ぐこの広大な墓地には、不思議と暖かな安らぎのようなものが満ちているようにも感じられた。それは天候故の錯覚だったのだろうか。それとも、どんなに悲惨な死であっても、いずれはこうした暖かい光の中に安らぎを得られるときが来るということなのだろうか。

 少なくともそういう希望をぼくらが持つことが禁じられているわけではない。暗闇の中にも、いつかはかならず光が届く。そう信じる権利をぼくらは持っているのではなかろうか。少なくとも、ぼくは、カトリック者の端くれ(とんでもない端くれだが)として、それを信じたい。

 お墓を後にして、墓地内を歩いていると、鋭くウグイスが鳴いた。その方向に目を凝らすと、パッと飛んだウグイスが一羽、近くの枝にとまった。めったに姿を目にすることないウグイスが、はっきりと見え、そして草むらに消えた。

 大地震から10目の日。人生が、悲しみと安らぎの織物のように見える一日だった。

 

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