90 ヨクミキキシ、ワカリ、ソシテワスレズ──自宅待機中の生徒諸君に

2011.3.18


 大地震以来、はじめて学校へ行った。日ごろは、生徒のいない学校ほどいいものはない、などとうそぶいているぼくだが、やはりまったく生徒のいない学校が、もう1週間近くも続いているのだと思うと、がらにもなく寂しさを感じた。ちょっとだけど。

 終業式もなく、4月の新学期を迎えるという、ぼくの40年近い教師生活においても初めての事態にどう対応するか、先生たちも懸命である。その対応の難しさは、生徒や父母の想像をはるかに超えるもので、ぼくのようなロートルの隠居教員では、もうとてもついていけない。

 生徒のことを思えば、あの地震以来、学校は閉鎖状態で、最初のうちは休みでラッキーなどと思っていたかもしれないが、だんだん日が経つにつれて、勉強はどうなるんだろうか、何をどう勉強すればいいのだろうか、学校からの指示はないのだろうか、などと様々な不安を感じているかもしれないなあと思ったりもする。

 しかし、生徒諸君。ここはよく考えてみてほしい。この1000年に一度とも言われている大災害の真っ直中、東北では避難所で病気のお年寄りが今でも亡くなり続け、原発は先行き不透明な状況が続くという今、自分が何をどう勉強していいのか分からないなどということがあるものだろうか。

 勉強しなければならないのは、この「現実」である。君たちが、今、学べることは、教室で学べることの数百倍、いや数万倍もある。そのことに君たちは気づいているだろうか。君たちが、もし、数学の問題を先生が送ってくれないだろうかとか、文法の復習をするためには何をやったらいいのか先生の指示が欲しいなどと思っているとしたら、大きな間違いだ。恥ずかしいことだ。学ぶべきことは自分で探せ。それが出来ないなら、これからどんなにスゴイ大学に入ることができたってまったく無意味だ。

 学ぶべきことは、今、山ほど君たちの目の前にある。原発ひとつとってみても、その状況の推移をしっかり目に焼き付け、また原発を推進してきたエライ学者が、テレビでどんな表情で「解説」をしているかを目を皿のようにして見なければならない。避難所の人びとを、テレビがどのような姿勢で報道しているかをつぶさに観察し、家を失い家族を失った人びとがどうようにして生きる力を得ているのかを感じ取らねばならない。君たちの若い想像力を全開にして、その人たちの苦しみと悲しみを全身で感じ取らねばならない。

 原発を信じられないほど多く作り、その電力を湯水のように使って生きてきたぼくらの生活の姿勢は、これからどう修正されねばならないのか、あるいは修正することなく突っ走るしかないのかについても考えなければならないだろう。

 そして、こんなにももろく奪われてしまう人間の命とはいったい何なのか。ぼくらは、何のために日々勉強しているのか。こうした現代文明を作り上げてきたのは、ぼくらの「勉強」の「成果」だったのではないか。だとしたら、ぼくらはいったい何をどう勉強すべきなのか、そして何のために生きるのかを、「自分で」考えるべきだろう。

 そうしたことを、ひとつひとつ考えていくこと。これ以上大事な勉強はない。数学の問題を解いたり、英語や国語の文法を覚えたりすることだけが勉強なのではない。そんなことは、ある意味ではどうでもいいことなのだ。

 ただ国語の教師として言うなら、今、君たちが見聞きし体験して、感じ考えたことを、1冊のノートに書いて書いて書きまくれ。それは君たちの思考力を鍛え、文章力を鍛え、そしてこれからの君たちの人生を大きく変えていくだろう。そのノートは一生の宝となるだろう。

 偉そうなことを言うのは嫌いだが、ぼくも今、遅まきながら考えている。考え尽くそうとしている。でも、老人は、しょせん先のない人間だ。君たちは、これからの世界を作っていかなければならない。まだ中学生、まだ高校生といっても、たぶん、この年ごろに本当に真剣に考えたことが、人間の一生を決定づけるのだとぼくは思っている。ぼく自身がそうだったから、おそらくこれは多くの人にも当てはまるに違いない。

雨ニモマケズ、風ニモマケズ、
……
ヨクミキキシ、ワカリ、ソシテワスレズ。


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