Kawakatsu Home(DTI), Kawakatsu Home(Kaba), 徒然Index, 徒然4, 徒然5, 徒然6

つれづれなるままに(5)


このページのポリシーは常に「つれづれ」である。 気の赴くままに、また、気がついたことをそのまま、 書くというものである。 ちなみに右の満面の笑みはその記述に対する意欲を体現しているという 解釈をお願いしたいが、本当は違うという説もある。


つれづれindex page


このページに関して、筆者への叱咤激励は こちらまで。
  1. 1997/12/17

    ポリースメーン

    ここ数日このポリースメーンに狂わされているといっても過言ではない。 その正体とは何かといえば、 杉良太郎「君は人のために死ねるか」である。 そういえば、昔ニフティーのTVフォーラムに出入りしていたときに 時代劇に詳しい某氏にその題名を聞かされたことがあったが そのときにはその歌の正体をしらず仕舞だったのである。 それからそのままにして早一年放置しようとして放置していたわけで はないのだがその魅力に気が付くほどにその情報を仕入れているわけ ではなかったのであまり関心がなかったのであろう。 しかし、その題名からその魅力になぜ気が付かなかったのか? というのが今になって疑問としてわいてくる。 1年間のブランクの後この曲に出会うきっかけは先日乗った 夜行バスの乗客サービスのおかげである。 そういうサービスはどうしても享受したいと思ってしまう性格から ついつい目の前の網袋にいれてあったプログラムを見てみると 最初に演歌の列をみたのであるが、 瞬間でその存在に気が付くことになった。 すぐ手に届く、つまり30分そこいらもすればこの耳にその曲に であえることを考えるといてもたってもいられない気分で すでに明かりを落とされた車内で一人わくわくしていたのである。 それで、そう夜の0時の少し前だっただろうか。 三波春夫の演歌のあとに突如として始まった一昔前の ディスコ音楽のような前奏。あまりにも場違いだったので 直感的にそれがそうだ!と気が付いたのである。 しかしそのあとの展開までは想像だにできなかった。。 そのままその曲調にのせて歌が始まると思っていたのである。 曲を無視したかのような語りが始まったのである。。 「昨日一人の。。」 この瞬間、これは歌わねば!という本能的な欲求が僕の脳髄を 直撃する。このハズレ加減は演歌そのままなのかもしれない。 バックの曲調は妙にハイカラゆえに今までに聞いたことのない しあがりになっているのである。 その語りがおわれば曲にのせての部分になるわけであるが、 完全に拳が回っている。それも杉良の拳である。 そして、その曲の杉良の杉良足るゆえんの最骨頂が、 題名にもなっている部分である。特に「は」のいいまわしが 今にもまねをしたくなるようなほどにあの回しかたなのである。 「はぁぁあぁ」というのを少し圧縮したとでもいうのか、 実にまねをしたくなるその心地好さがあるのである。 その余韻を倍増させてくれるのが、その直後の 語りによる同じ歌詞である。ううむ。。 最後は表題の「ポリスマン」の杉良的表現である。 さらに、この歌の表現の魅力を20倍にしてくれる音の部分があって 1番では聞かれないのであるが、2番の直後に聞かれるそれは 内蔵を内側からくすぐられるような快感(??)が得られるものとでも いおうか、とにかく余韻と魅力ごちゃ混ぜにしてミキサーにかけた ような気持ち良さがその2秒間に与えられる。 擬音語として書けば「きゅくきゅくきゅく」とでもいえば良いだろうか。 もう、今度のカラオケの題目の一つとして欠かさざるものである。。


  2. 1997/12/12

    変な斑紋が。。

    朝目覚めてみれば、右手の人指し指が赤かった。。 実に奇妙な現象に寝惚けた頭で思ったが よくよく考えてみると原因は簡単であった。昨日赤ペンを手にしたまま 寝てしまっていたのである。眠りこけていたために変な持ち方になった のだろう。それで人指し指がペン先にあたってこれほどに指先を 血で染め上げてしまったのである。(血というには少々色が ずれているが。。) しかしここで終りではない。また続きがあったのである。 これに気が付いたの朝の八時で朝飯を食う前であった。 この事実には驚きが伴ったものの指先だけということでたいしたことがない とふんで無理に洗い落とすこともなくそのままにしていたのであるが、 飯を食って研究室に行ってからずいぶん建った昼前の時間に トイレに入った。そのとき偶然に自分の顔が鏡に写りこんだのを みたのであるが。。。これである。 首に赤い染ができているではないか。もちろんその色は今朝指先でみた あれである。無意識のうちに首に手をやってしまったのだろうか。 正面に濃い染があったが、良くみると横にも薄い染がついている。 更に良くみてみれば、あご髭にまぎれて薄い染が。。 うわぁ。どういうこっちゃねん。。石鹸で5分ほど洗浄を試みた のであるがどうもそれが落ちてくれるようすはみられない。 こまったものである。。 いまは、 仕方がないので襟元のボタンをはめることにして 自己満足に近いゴマか仕方を試みている。


  3. 1997/12/10

    猫のいる家の真実

    通学路途中に猫が座っているかもしれないスポットがあると どこかに書いたが、更にそのスポットに関して重大な事実が 明らかになったのはつい先ほどのことである。

    御用御方わ
    此の鈴を鳴らして
    下さゐ


    この記述(実際は縦書き)の横にはまるで風鈴から拝借したかのような 鈴が備え付けられたいた。素晴らしい。


  4. 1997/12/10

    かたせ梨乃の魅力のなぞ2

    かたせ梨乃、 以前にも一度この系列のページで話題にあげたことがあったが、 再び触れずにはおれない事柄である。 たしかに、gooなる検索エンジンによって「かたせ梨乃」のページを検索すると 結構な上位のページに食い込んでくるのであるが、 それにしてもこのコンスタントなヒット数はなんなんだろうと思われる。 つまり、私の作成したページ「かたせ梨乃はうんぬんかんぬん」 というものが、なぜか一日に2人ぐらいは見に来られているのである。 わざとにしてもあまりにもまめな作業である。 それともこういう捉え方をすることはかたせ梨乃ファンを甘くみている だけなのだろうか。 いずれにせよ、そのヒット数はめでたいことなので ちょっとだけそのページを更新してみることにした。 というか、既にその変更を施したのは数日前である。 内容的にはたいしたことがないのであるが、これからもこのページの 更新に努力を注ぐという意気込みをあらわすこととして受け取って頂けたら ありがたい。
    参考: かたせ梨乃のページ

    追加: この記事を書いたのをきっかけに再びgooで調べたら 以前は2番目に出ていたのに3番目に順位を落としていたことが判明した! (と!をつけるほどのことではないが。。) 参考: gooの検索の結果


  5. 1997/12/10

    唇ネットワーク

    唇、良く乾く人はそこに常にメンソレのような薬を塗布する ことが多い。 またビデオ再生などで見ているものが心地好くみられるためには ある程度の厳しさを持った音声と画像の同期が必要である。 いずれにしても人の唇に関係することではある。 それとは別に記号処理に良く用いられる言語、 いわゆるラムダ計算にそのアイデアを源にする言語がある。 これら2つのことは一見全く関係ないことのように思える。 しかし、唇とその言語 との関連があるといったら一体何があるか想像できるであろうか。 答えはある意味難しい。しかし一度しってしまったら簡単であると もいえる。 これだ。 これが、 これになるのだ。 (このねたはあまりにもその受け入れられる範囲が限定される 恐れがあるので、少々つらいものではある。) お粗末。


  6. 1997/12/5

    ジェットストリームの司会は。。

    久しぶりに表題の番組(FM大阪午前0時)を聞いたのだが、 雰囲気はそのままであるが何となく、しっくり来ない。 それはいうなれば、「ルパン3世」の声が山田康雄からくりかんに 変わったときに感じたぎこちなさ、とでもいうのか。 番組構成やいうことはそれほど変わっていないのに 何となく前の「声の低さ」が微妙に違う。 気になって最後まで聞いていたら、案の定である。 ****(名前を忘れてしまった。)という人であった。 となるときになるのは、城達也がどこにいったのか?ということに集約 されるのだが。。


  7. 1997/12/4

    夢(ゆめ)夢を追いかけて、はははぁん

    今朝久しぶりに記憶に残るような夢をみた。 起きる寸前まで夢をみてたのである。 今日目が覚めたのは午前の8時の直前、ネットにつなげたままだったので、 そのまま寝ていたらやばかったのであるが、ICQなるソフトのだれかの 挨拶で目が冷まさせられたのである。 あのソフトではだれかからのメッセージが送られてくるとdefaultで、 音がなるようになっている。更にその音が結構耳につく音なので 目が覚めるか覚めないかの境目であれば必ず気が付いてビクッとする。 今朝の夢をみていたときの状況はまさにその状態だったのである。 まあ、夢をみていたからそういう状態であったともいえるが、 夢をみているときでも何となく自分で「この夢は起きても思いだせんな」 とか「おもいだせるな」とかおもう ことが経験上直接的でなくても分かるのだが、今日は「思い出せる。」 つまりこれは起きる直前の夢なんだなあと何処かで冷静に考えていた ような気がする。それだけに妙に記憶が鮮明でその場に人がいれば その詳細とまでは行かなくても比較的細かいところまで話すことができた だろう。といったが、実は目覚めさせられた原因の発生元との 通信が可能であるという情報がその音と同時に確認されたので、 目の前ではないがほど目の前にいるような感覚で目覚めさせた人に ついついその夢の状況を(文字で)話してしまった。

    先ほど話せると入ったもののやはり夢である。 書いてみるとその前後関係因果関係論理関係みごとに矛盾をはらんだ、それも 常識の範囲では考えられないぐらいにはらんだ、物語なのである。 仕方がないので思い出せる範囲のことをそういう論理関係を気にせず 並べ立てただけであったがやはりまもにその話の雰囲気をつたえられる わけはなかったであろう。僕自身はその妙なリアリティーの余韻に ひたりながら書いていたので「おもしろいおもしろい」とおもえたのである が受け取った方はなんとも突っ込みようのない事実の羅列で 実に閉口したと思われる。まあ、それを額面通り受け取らずに 自分が人に「夢」を語る時の状況を思い浮かべながら であれば結構楽しめたのかも知れない。
    この経験をふまえて、だれかが提案した 「長七郎夢日記」なるページでも はじめようと朝に思ってみたりしたが多分長続きしなさそうである。 だいたいそんなに覚えている夢をみる機会はあまりない。 それでもしかし、ページがあればそれをなんとかしようという心も あるだろうということで一応は作ってみることにしようと思う。


  8. 1997/11/27

    間違いを指摘しているつもりが実は間違いを含んでいるのは 少々恥ずかしい

    最近金融機関の破綻が続き、本当に日本の将来がだいじょうぶかどうかが 気になり 不安に満ちた世であるが、そういうくらい気持ちを吹き飛ばすような ことも探せばないことはない。 このページ群がそれに当たるといってくれればそれに越したことがない のであるが、まあ、これほどの駄文にそんな価値を見いだしてくれる 心の広いお方もそれほどいないと思われる (そういう心の広い方にはこころより感謝!)。 もちろんオリジナルの文章でそういうたのしい気分を作り出すということは 実に大切なことであるが、たまには天然ぼけ的な笑いというもので 一種いつ自分が笑いの対象になることがあるか分からないという不安も 込の実に複雑な笑いというのは、タブーという言葉で封じ込めておくには あまりにももったいないとおもうものもある。 どうせ自分も同じようなことで笑われるときがあるのだから、 そこは、その笑いが腐らぬうちにちゃんと笑ってその天然ボケに成仏して もらった方が良いというのが僕の意見である。

    さて、いったいここで何がいいたいか。ここまで前説で引っ張ってくる のは実は少々無駄だったかも知れない。 土曜ワイド劇場のサブタイトルのように、ほとんど題名で内容を 喋ってしまっているからである。 それは、今はすでに放映が終ったCMである、金鳥・・・もとい ダニアース(アース)のCMについての記述である。 実をいうとこの記述はだいぶ前にしてあったのであるが、 N君の報告によりその後の進展がみられた(なんの進展か、 という意見はあるが)ので改めてここで紹介しようというのである。 要は記事 をみていただいたら良いのであるが、実に心地好い笑いに包まれる 天然呆けである。ただし、このぼけは意外に気が付かないという可能性が (僕の聞いたところでは)高いので気をつけてみて頂きたい。 <そういう僕も、スィートルーム、という言葉を、ずいぶん長い間 勘違いしていたので偉そうなことはいえないが。


  9. 1997/11/21

    なんだこの日経夕刊の広告は

    研究室では、日刊新聞として日経と日刊工業新聞をとっている。 日刊工業新聞は、そのたまに掲載されるなぞな記事の数々で驚き笑わせて くれるわけであるが(たとえば「スク*ア理論」)こと日経というのは そういう記事をのせず、実に堅実な広告ばかりを載せていると 思われているだろうし、実際そう思っていた。 しかし、筆者がたまたま実家に一時帰還している日の夕刊でそれが 幻想に過ぎないということが明らかになる衝撃的(笑撃的ともいう) な広告が掲載されたのである。

    それは、たとえばグ*コのプッ**プリンや、**女性探偵事務所の ようにこじんまりした広告ではない。これでもかというほどの 全面広告である。(さすがに見開き2ページとまでは行かなかったが。) その英雄がたくさんいるとでもいいたげな名前の会社の宣伝しているものは なにかといえば、レーザーポインターである。つまり、比較的の距離のある ところまで届く光を発する手のひらサイズの装置である。 この広告をみてとにかく印象的なのは、バラを持ったウエディングドレス姿 の女の人である。かすかな笑みを浮かべながらこちらへ送るカメラ目線は ただ者ではない感じを感じざるを得ないが、あまりにもその必然性に 欠くといわざるをえない。しかし、その必然性のなさのことなど忘れさせる ほどのインパクトのあるコピーが載っていたりするのだ。

    「みーんなもっている」というある種矛盾に満ちたコピーはまだ 序の口である。 つぎにつづく、「工夫をすることで使い方はいろいろである。」といった 主旨の言葉に続き、この花嫁姿のモデルをでかでかとのせた 「必然性!」を感じさせる文句が続く。 そのポップなフォントを使った文字の方向が放射型に並ぶ文字たちは 思わず息をのむほどの物凄さである。 「もうはなさない!」これは、結婚相手をイメージしているのだろうか。 しかしこれよりもこれにに続いてある言葉が問題なのである。 「とってもすてきな」の次の行「ワタシの愛棒(!!!!!!)」 というのである。たしかに装置は棒状で手のひらサイズなのであるが、、。 見方によってはものごっつい**な感じを受けてしまう。 Kくんあたりなら「ゆるしがたいね」などといってのけるほどのインパクト どころではない。やらしいとか、やらしくない、という次元を越えた 一種その広告に後光が指す錯覚さえ覚えるものがなかろうか。

    この広告の魅力の80%はここまでで紹介し尽くしたのであるが、 あと20%にもなかなか、思わずにんまりなこねたが仕込まれているのを 忘れてはならない。それは花嫁のバラの下の部分に目をうつしてやると そこにある。そこには、この「愛棒」が如何に便利で、役に立つか、 価値があるかをのべるために具体的にどういう活躍の場があるのが紹介 されているのだが。。列挙してみよう。 これは基本的にはどの場面でというキーワードとそのイメージ図、そして そのシーンを経験するであろう職業の種類が列挙されているのである。

    なんとも奇妙な例ではないか。 最後に、当たり前の言葉だが、上が上だけに 何となく突っ込みたくなるようなフレーズも 右下に載っていた。

    *イタズラで光線を人に向けないでください。

    (情報提示NさんHさん)


  10. 1997/11/20

    カレーせんべいはうまいが・・

    昨日、それまでぐっと我慢してきたためにその購入への思いを募らせていた 「カレーせんべい」をついに購入した。 あのかじったときの食感、ほどよい辛さ、それらの感覚は 実に心地好いものである。募る思いはそういうカレーせんのうつくしい 部分を強調して更にその思いが募るという循環を生じていたのだ。 しかし、その味は駄菓子屋の菓子ほどに大味であることには違いない。 ここでいう大味とは、コントラストの強い味という意味である。 僕はこの系統の味をするやつは、好きではあるのだが調子を崩して しまうということを経験によって知っているのだが、いかんせん これほど募ってしまった思いである。寝る前にも関わらず食ってしまったので ある。やはりそれはいけなかった。。すぐにないってしまうことになったの である。それも物凄くつかれた感覚を残して寝たのである。 これは起きるときに顕著に分かった。 ああ、なんともつらい体ではあるが適当に調整すればなんとかなる。 今日も朝いっぱいの牛乳によって比較的心地好くのりきれたのである。 ただ一時的なつらい状態は避けられない。 このことへの恐れがカレーせん を頻繁に食べることを防いでいるということで、なんか助かっている (食費)気がするので、変に得したような気がする。


  11. 1997/11/18

    やっぱり「バス」といえば「ガス」なのか?

    日本がサッカーのW杯出場をきめた翌日、エジプトでイスラム原理主義者 たちか犯行生命をしたテロが発生。多数の観光客が死亡した。 もちろん、そういう話題をワイドショーが見逃すはずもなく、実際どの 放送局のワイドショーもそれを放映していたに違いない。 (TBSはどうかしらないが。) そんな番組の中で、当然出てくるのが中東に詳しい人である。 そういう人がこの事件についての解説を求められ、そしてそれに答えて行く。 それはやはり知識として有機的に持っていることをから事実をかんがみて 実に興味深い解説になるはずである。ああ、そういうことだったのか、、 ということをテレビ局が放送できる範囲であろうが知ることができるのだ。 しかし、そう順風満帆にものが運び続けるというわけに行かないのが この世の中のせちがらいところである。この事件は、エジプトの観光地 ルクソールでバス移動中の観光客が襲撃されたということであるので、 解説にはその「バス」という言葉が頻発する。実際頻発するといって 良いほどにその言葉は発せられていたが、最後のまとめの段階で 少し間をおいて解説者氏がいった言葉は。。

    ガス、、、、ガス、、失礼、バスを襲撃する・・

    「ガス」なのである。彼にとってバスは、「パスガス爆発」の「バス」 だったのである。朝定をほうばる口から押さえきれない笑いとともに 飯粒が2・3粒放出されるのは必死である。


  12. 1997/11/17

    嘘のような本当の話

    人に聞いた話であるが、こういうことがあるらしい。 あるところで家の改築を頼んだ。その人は会社の経営者なので、 結構金をかけて立て替えたらしいのだが、まあ普通にそつなくその工事は おわった。丁度そのころその従業員でその腕をかわれて雇われた人が 丁度家を立て替えたいという話なので、社長さんの薦めで同じ工務店に 頼むことにした。しかし。。その工事は基本的な土台などは良かったが、 ものを落として穴をあけたり、壁紙を素人のような下手さではったりして しまうわりには、何処が悪いという態度で、こちらがわからいわなければ 直しもしないという態度が続く。震災期間とはいえ、その工事は遅れた にもかかわらず、誠意を感じる詫びも特になく、どうも世間の常識からは 掛け離れた感覚の持ち主であると悟った。まあそれでもともかく 本体はでき上がって、あとは塀回りの 工事が続くのであるが、それは別料金になっている。そこで、その値段を 聞いたところ***万円ぐらいだというので、頼んだ。 最後にその納品書に当たる書類を 要求したのだが、***万円では収まってなく2倍近いものがあった。 その詳細を確認しようと見るのであるが、実に曖昧で、大きな枠でしか 金額が示されていない。どうもその誠実さを感じられなかったため 少々怒りを示して、 その書き直しを要求したが、「わすれた」などというプロとは思えない返事 が帰ってきたので、とりあえず、その書き直しと詫びを入れるまでは、 はらわない、ということにしていたが、どうも工務店は自分が間違っている と分かってか知らずか、何もしてこなかった。 そして2年ぐらいってからなかまの工務店の人に頼んで、詫びもいれずに はらえ、ということを言い出したのである。。。。これでいったいどうするか? そこまではまだ聞いていないが、ともかく、家を建てるときの 工務店選びというのは気をつけたいものである。できれば、その人柄 誠実さをあらかじめチェックできればしておきたいし、 また、なまじその紹介元が身内つまり普段から付き合っている人であると むげに断ることもできず、大胆な行動を慎んでしまうということもある。 また、人の「身分」で明らかな態度の豹変をしてしまうという なんとも悲しむべき人がいることも確認できたので、その辺を見抜く力 なんとか養っておきたいものである。


  13. 1997/11/17

    雲梯はそんなに特殊な言葉なのか?

    小学校の校庭ならばほぼ絶対に存在しているというすばらしい遊具の 一つといえば、雲梯である。(え?最近の小学校にはないのか? 筆者1972年生まれが小学校の時は少なくともそうであったはずで ある。)そう、その字のごとく雲のある方向つまり上に梯子をおいた つまり、梯子を横だおしにして2、3メートル上空に固定したような 遊具なのである。これはいったいどう遊ぶのかというと、 某関東方面在住のAさん(仮名:だれやねん、という声はさておき)いわく 「ああ、あの、猿みたいにして遊ぶやつ。」ということである。 これを名前として流通させるにはあまりにも手間がかかりすぎているが その反面なんの疑問もなしにその概念が吸収できてしまうところは 認めざるを得ない事実である。 しかし、それにはちゃんと名前があるのだ。「うんてい」という。 表題に書かれた漢字はこう読むのであるが、実はこの概念、 もしかしたらあまり流通していないではないか?という疑問が起こる 事実が発覚したのである。それは何かといえば、

    ということである。中ぐらいの辞書を幾つか調べてみた (幾つかで、ごまかすところが中途半端といえば中途半端なのだが。。) ら、いずれにも載っていなかったのである(ある辞書をヘボい辞書といったのは ここでお詫びと訂正を。もしそれをヘボいというのならば同じような大きさの 辞書はすべてヘボいということになる。。)。 また、漢字変換さえその事実(つまり雲梯という遊具がある事実)を 押し隠そうとするのである。しかし、偉い漢字変換は存在するもの である。Wnn6という漢字変換はこの漢字を知っていた。つまり つかわれる言葉として認識されていたのである。やはり言葉としては 存在し、どこかの辞書には書かれているはずであることには違いない。

    逆にこのことから、その単語の歴史がどうだということが考えられる かもしれない。つまり、この雲梯というのはその字からは想像しがたい ほどに歴史が比較的短くて中堅の国語辞書に収録されるほどの古さがないが やはり言葉としては存在している。そして、現在の小学校では その存在が確認されることが少なくなってきたことから、 すでに「さるのように遊ぶ道具」という直感的な名前しかおぼえられない という結果になってしまったのかもしれない。

    追加:かの新明解国語辞典(三省堂)にはのってました。。


  14. 1997/11/13

    ついに撤去「ここにごみを置き場でない」

    ついにあの衝撃的な言葉を着された張り紙が除去されているのが 明らかになった。これは何かと言えば、 これである。 この奇妙な張り紙はこの研究室だけでなくおそらくはこの張り紙の張った 交通標識の前を通りふとしたときに気が付いてしまった人々たちに語り草 であったはずであるが(その記述者がだれか?というのも含めて) ついに撤去されていたのである。 しかし、それを知るものからすれば、なぜに今頃に、ということになろうが、 その理由は実はたいしたことがない。単に書く機会を逃していたという だけである。 さて、このかみが除去された理由であるが、幾つか考えられるだろう。

    前者はさすがに考えにくい。もし前者であればはりだした翌日ぐらいには 既に破りとられてなければならないのである。それがなかったということは、 やはりその誤りに気付いてすらなかったのである。 ということは後者であることが考えられるが、 良く回りを確認してみると、どうもごみが捨てられる場所が 移動してしまったようで、別のところに同じような記述の張り紙が してあった。それはまことに普通の日本語であったのが残念であるが、 そこまでに某****の人に期待するのは酷なことであろう。 しかし、笑いの種が一つ減ったと言うことはこの冬の到来もあいまって なかなか寂しいものではある。


  15. 1997/11/7

    「二人は大人」が セガカラに

    先日の日曜日みさなるカラオケやにいった時に、発見したのがこの曲である。 おもえば「グロイザーX」もこのカラオケやで見つけた。 より正確にいえば、「セガから」で見つけたということである。 このカラオケは、音質的には満足できるものではないが、 その偏った曲の選び方については定評がある。 僕のように好きな歌が 人にあまり愛されていたという形跡のない歌 であることがおおいときにはこの選曲のやり方は嬉しいものである。


  16. 1997/11/5

    和製英語氾濫に愁う(新聞投稿マニア風)

    最近の歌謡曲の歌詞は和製英語が氾濫しているという **新聞の記事を読んだ。 まったくもって、けしからん事である。 われわれには美しい日本語という文化がある。それを無視して 英語、それも和製英語という事は、日本語で表現できるものを単に 「聞きよさ」の為だけに英語という道具を用いて書き換えているだけに 過ぎないのだ。日本語でかける歌えるものを 単に聞きよいというだけでそれを拒否し、 偽英語に流れていくとはまったくもって、けしからん事である。 われわれの心にいきづく日本文化をそのような形で亡きものにして なにが日本の将来なのか! われわれは日本文化を愛し親しむ事をしてそれを踏まえて 堅実にそれを延ばしていくことをするべきでないのか。 まったくこれでは日本の将来が危ぶまれるて、 おちおち死ぬ事も出来まい。


  17. 1997/11/5

    オフ会報告に思う

    何回かここでネットでであった人たちのオフ会 (つまり実際に会って行う懇親会) の報告を書いているのだが、 あれを書いていているも思い出されるのが、 ドラえもんの中で出てきた話の一つで、 かってに日記を書いてくれるペンという道具が出てくるものである。 あの話では、克明にその日の出来事をそのペンを持った人の確認できる範囲で すらすらと書いていくのであるが、なんとなくそのイメージが 僕の書いている報告に生きているのではないとふっと思うのである。 要するにあらすじは、出来事の時間順の羅列であり、それに尾鰭背鰭をつけて 全体像の出来上がり、というものになっているからである。 もちろん報告としてはそれでいいのかもしれないが、 実際の思い、感じた事の流れというのは単なる時間順の羅列では 捉え切れないところがある。だから出来事の羅列と、報告は別の 段にして書いた方がいいのかもしれない。 そのように修正したい気持ちは、そのドラえもんの一節を読んだときの感じが 悪かったという事からきているのであるが、 なかなかできものでもない。それならいっそ時間順にものごとを感じたように 書いたら良いかもしれないと良く思うが、大幅な嘘がそこに入るような 気がして書く気になれないのである。 要は、数をこなしてその落ち着きどころを探す事になるだろうが、 そのためにはさらに時間とお金(宴会費用) をかけなくてはいけないというのが なかなか厳しいところではある。


  18. 1997/11/5

    挨拶の難しさを身にしみて知る

    ある図書館の2回のソファーで座っていると ちょうど目の前に階段があり、当然そこを見ていれば 1回にいく人2階にあがってきた人の行き来が見られる。 ついつい、手に取った本を見るのも忘れてそういうひとの動きを 見ていたときであった。 突如階段の終わりのところで、階段に向かって誇らしげな笑みを階段 舌の方に向かって浮かべまたそれを強調するかのような腕組みをした 男性をそこに見た。こちらから見れば背を向けた格好で表情は確認しがたいが もう手に取るようにその表情がわかる雰囲気をその白いセーターから 醸し出しているのだ。 そこでその階段の下の方を見てみると、案の定それに過剰ともいえるほどに 反応していた男が一人周りの人の流れから外れた形で止まっている。
    ちなみにこの階段は開放的な階段で、壁に囲まれた感じのものではなく、 いわば室内にある官位策しかない非常階段といったような形態のものである。 ただし、非常階段とは違って床の部分には絨毯がしいてある。
    しばらく後に止まっていた合図を送られた方の人は、動き始めた。 しかし、その反応ぶりにしてはそっけない挨拶で過ぎ去っていったのである。 ぼくの印象としては、人の流れを遮る事からちょっと場所を移して ぽんぽんぽんとお互いの肩をたたきながら抱擁のポーズを取り、 しばらく(4,5分ぐらいか)はなした後、 「じゃあ、ちょっとこのへんで」といいながら去っていくのかと思っていたので ある。 これはかなり拍子抜けに思えた。 しかし、互いの心が互いに見透かしているのであれば、 案外普通のやり取りなのかもしれない。 合図を送った方は、うまくちょっとした挨拶するという方法が分からず 思わずオーバーリアクションをしてみたのだ。 相手は、そのオーバーリアクションに対し人並みに驚いたのであるが、 相手は何かやりそうな奴だという事は知っているが、 そんなにウマの合う知り合いでもない。ここはささっとながしておこう、 という考えが頭に流れ、結果として少々冷淡な態度でやり過ごしてしまった のである。 端から見えるそのおかしげなやり取りも実は意図するところは ごく普通の事がやりたいという事の一つの現象である。 これはやはりうまい表現方法が身についていないという証拠でも ある(ついついこういう手段に出てしまう事に思い当たる節のある 僕も含めて)もう少し勉強しなければいけないのかなあ、と 思いたくなる経験であった。


  19. 1997/11/5

    貧窮した生活、それは他の人にもある事を知る

    ある図書館のソファーに深く座り、ある本を読みかけていたときである。 そのソファーは壁に接しているものではなく後ろに背を合わせる形で もう一つのソファーが並んでいる形であったが、 ぼくの座っているちょうど後ろ側に何か仲むつまじい友達か恋人かが すわっており話をしていたが、途中で2人の共通の友人とも思える人物が 通りかかった。 そこで何やら興味深い話があったので、 こういう事はなかなか誉められたものではないが、 ついつい目の前にあった本を忘れてその話の方に神経を 集中してしまったのである。 何やら後から来た彼は、連日の宴会に生活パターンを乱され 昼間の授業が眠くて仕方がない言うような事をいっていた。 まあ、それはこの季節、何かいいわけをつけて酒でも飲むというのは 特に不思議な事でもない。そこに就いてはそれほど特別な感動を持って きいたわけではなかった。問題なのは疎の後にさらっと言った言葉である。 「・・・んまあ、そうやねんけどな。おっと、こんな時間か。 いまやったら、中央購買(コンビニのような品揃えの大学生協の店舗) のサンドイッチ半額やけどな。」 これである。 これをまっていたというものが、意外なところから出てきた。 やはりこういう事に気を回している人種がいた、という事を再確認した ことだけで何か今日まで生きてきた事に感謝しなければならない気がするほど に感動を覚えたりするのである。 実際の支出収入状況はおそらくぼくよりははるかにましなはずな彼でも そういう心を持って生活しているんだ、という共感は 正直ってうれしい。研究室にあるお土産を物色して、それをまわりに とやかく言われている生活にそのつらさ(?)を忘れさせるオアシスも ちゃんとあるんだな、と思った一瞬であった。


  20. 1997/11/5

    ノートパソコンの取り組み方一考

    ある友人との電話でノートパソコンの取り組み方についての話が出た。 僕は知らなかったが、普通に机に載せて使うやりかたのほかに、 「無精者」のパソコン使いがしてしまう方法として次のものがあるらしい。

    きくところによれば、その名づけた理由は形状からはいっているらしい。 つまり前者はワニが横たわって口を開けている感じ、 後者はラッコがカンカンかんと腹の上で貝を割っているイメージである。 なるほどな、とおもったがしかし、わに打ちはまだしもラッコ打ちに いたっては、それは名前を作る為に考案したとしか思えない打ち方ではないか? ラッコ打ちというのは、腹にそれを乗せながら打つのだという。 つまり、腹ばいになって寝てみずからの腹の上にノートパソコンの発熱を 感じながら取り組むのだという。当然その画面を見る為に首に相当な負担が かかるのではないか。それがいやなら、眼球を思いっきり下向きに 向けなければならない。 5分もこの打ち方を続けていたら、首がつるか眼球がつるかのどちらか (あるいは両方)の恐怖が待っているに違いない。 ワニ打ちにしても首をいつもの位置から直角方向にずれた方向 に維持しなければならない為、首が相当つかれるはずであり ゆえにどうしようもない打ち方には違いないのである。 その可愛い名前(ワニも実際は恐いがこのような文脈では ぬいぐるみのワニを見ているような感覚に違いない)とは裏腹、 やる前までは天国、やってみて初めて分かるその辛さ、という、 まるで社会の構図を見るような世界がそこにあった。
    ちなみにぼくはワニうちはやったころがあるけども、 ラッコ打ちは未経験である。



愛のHOME PAGEに戻る。