89  井上ひさし「父と暮らせば」を観て 

          劇団キンダースペース@キンダースペースアトリエ 2017.12.7

   

2022.8.8

★画像付きブログで読む


 

  ★この「劇評」は、2017年12月8日に、フェイスブックに投稿したものですが、こちらに再掲します。

 

 演劇を愛する者として、恥ずかしいことだが、この芝居、初見だった。やはり名作だなあとの感を深くした。
いろいろと考えたことはあるが、まずは、演者の小林さんと深町さんと、こうして続々と名作を舞台に送りつづけるキンダースペースに感謝したい。

 被爆体験は、今でも、各地で語り継がれているのだろうが、そして、広島・長崎では、語り手が高齢化したとはいえ、今なお実体験者の方々が懸命に語り継いでいるだろう。だろう、としか言えないのは、ぼくがそれを聞いていないからだ。
この芝居の成立の事情を詳しく知っているわけではないが、井上ひさしが被爆者の体験手記などを丹念に読んで、その体験を、語りとして舞台に現出させていることがよく分かる。

 いつか、被爆体験者はこの世からいなくなる。その時、誰が、その体験を語るのか。その答のひとつがここにある。

 今回の舞台を見ながら、「被爆体験」が、西川口の小さな劇場空間の中に、くっきりとした輪郭をもって立ち現れるのを感動をもって「体験」した。それは、鍛え抜かれた深町さんの演技力によるものでもあるが、また同時に、言葉が本質的に持つ力にもよるのだ。

 「言語化」することは、なんと大事なことだろうと、見ていて何度も思った。その「言語」を、空間の中に解き放ち、他者の心へしっかりと届ける「役者」というものは、なんとスゴイものなのだろうと、それも何度も思った。

 深町さんの透明で芯のある声が、次々と悲惨な光景を観客の心のなかに描き、小林さんのあたたかく包みこむような声が、その悲惨さを「むごいことじゃのう」と受け止める。観客も、小林さんとともに、深くうなずく。共感とは、こういうことだろう。

 葛藤はすべて生きている者の中にあり、死者は、ひたすら許す者、応援する者として存在する。許し、応援するものとしての死者。しかも、その死者は、生きている者の夢と希望によって「成り立っている」。生者の希望が、死者を存在させる。だとしたら、生きる者にとって、希望は、むしろ義務である。

 見事な戯曲、そして見事な舞台だった。

 


 

Home | Index | Back | Next