90 アタマのいい人にはかなわない

         

2022.9.8

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 アタマのいい人にはかなわないなあとよく思う。ぼくは、アタマが悪いから、はんぶん嫉妬が入っているけど、やっぱり、現代思想なんかの本を読んで、ドゥルーズはこう言ってるけど、まあ、あれは、あれだから、みたいに軽くしゃべることができる人って、心底うらやましい。

 もっとも、そういうふうに、なんでも知ったふうに軽やかにしゃべるからといって、その人がアタマがいいのかどうかも実は分からないし、そもそもアタマがいいってどういうことなのかもよく分からない。けれども、山田詠美の「ぼくは勉強ができない」じゃないけど、「ぼくはアタマが悪い」ことは、断言できる。

 先日、仕事の関係で、國分功一郎と千葉雅也の対談「言語が消滅する前に」(幻冬舎新書 2021)を読んでいたら、千葉雅也のこんな発言があって、びっくりしてしまった。千葉雅也が詩をよく書いているし好きだということが話題になったあと、國分が「いま聞いてて思ったんだけど、千葉君って、あんまり小説の話はしないよね。」と言ったことへの発言である。

 小説、苦手なんです。というか、人間と人間のあいだにトラブルが起きることによって、行為が連鎖していくというのがアホらしくてしょうがない。だって、人と人のあいだにトラブルが起きるって、バカだってことでしょ。バカだからトラプルが起きるのであって、もしすべての人の魂のステージが上がれば、トラブルは起きないんだから、物語なんて必要ないわけです。つまり、魂のステージが低いという前提で書いているから、すべての小説は愚かなんですよ。だから、僕は小説を読む必要がないと思ってるの。

 國分は、「ここでいきなりものすごいラディカルなテーゼが出たね。」と笑いながら、「千葉君が言ってるのは、いわゆる近代小説のことだよね。」と確認した。千葉は「そう。近代小説じゃなくて、もっと実験的な小説とかもっと古いやつだったら、僕も面白いと思う。」と応じていた。
それにしても、アタマがいい奴にはかなわないなあと、その時、つくづく思ったわけである。

 もっとも、千葉は、この本の「あとがき」で、「この箇所は一種のユーモアとしての誇張的な言い方なので、ギョッとする読者もいるかもしれない。その後、小説に対する考えはある面では変わり、ある面では変わっていない。人間ドラマのただなかに、現代詩にも似た抽象的な幾何学を見出すことができるようになった、と言えるかもしれない。それは、人間の愚かさを描くことを受け入れないままで受け入れるような、奇妙な弁証法である。小説はすばらしい、だからいつか書きたいと願っていて書くに至ったのではない。小説に対する、僕なりに根本的だと思う違和感を通して、小説とは何かという問い自体を含む小説を書くことになった。だからその経緯を残している。」と補足している。

 調べてみると、彼の書いた小説は、芥川賞候補にもなっている。よけいかなわないなあと、またまた嘆息である。

 千葉は要するに、言葉は「もの」だと思っていて、その言葉を使って、作品を構成することのできる詩というものが魅力だということらしいのだ。しかし、「近代小説」ときたら、もう、バカのオンパレードで、アタマさえよければ避けられる人間関係のトラブルをえんえん追いかけている。そんなものは読む必要なんかないんだ、と、まあ、そんなところだろう。

 だからたとえば、岩野泡鳴の小説なんか、おそらく1ページだって読めないだろうし、最近では、惜しくも亡くなってしまった西村賢太の小説なども、1ページ読んだだけで(読んだらの話だが)、すぐに放り投げてしまうに違いない。

 彼は、小説に対する考えは「ある面では変わり、ある面では変わっていない。」と言っているが、その二つの「ある面」とは何だろうか。その後の言葉から推測すれば、小説でも「抽象的な幾何学」を描けるようになったという行為の面では変わり、「近代小説」がバカな話ばかりだという認識の面では変わっていないということだろうか。彼の書いた小説を、一度読んでみたいと思う。

 「幾何学」と言えば、スタンダールの影響を受けた大岡昇平が、恋愛心理をまるでチェスの駒を動かすように描きたい、だか、描いただか、そんなことを言っていたのを思い出す。そういう小説なのだろうか。

 しかし「変わった」のか「変わってない」のか知らないけど、いったい「魂のステージ」って何だろう? いったいどこからこんな言葉がとび出てきたのだろうか。なにやら怪しい宗教の匂いすら漂う「魂のステージ」って、何? 対談だからとっさに出た半分冗談なのだということかもしれないが、それにしても奇っ怪な言葉である。

 別にそんな言葉を持ち出さなくても、「もしすべての人がアタマがよくなれば、トラブルは起きない」でいいのではないか。で、そのことに関しては恐らく千葉は「変わってない」に違いない(と思う)。「あとがき」では、「人間の愚かさを描くことを受け入れないままで受け入れるような、奇妙な弁証法である。」と、アタマの悪いぼくにはさっぱり分からないことを言っているのだが、結局は、「人間は所詮バカなんだという前提では書かないぞ」ということだろう。

 まあ、いずれにしても、書きたいように書けばいいわけだが、バカなぼくでも、言っておきたいことはある。

 人間というものが愚かなものだということは、「前提」などではなく、「事実」なのである。事実だからしょうがないのである。ぼくは、人間が愚かなものだということを「前提」としてものを考えたり書いているのではなくて、事実として愚かであり、バカであるぼくという人間が、考えたり書いたりしているだけのことである。

 ぼくはバカだから、日々人間関係においてトラブルを起こしているのである。むしろ、日々の人間関係でトラブルのない人間なんて、この世に存在するはずもないとさえ思っている。存在するとしたら、それこそ「魂のステージ」が「特上」の天使みたいな存在だろう。

 ぼくはバカだから、「人間と人間のあいだにトラブルが起きることによって、行為が連鎖していくという」近代小説が、「アホらしくてしょうがない」どころか、「おもしろくてしょうがない」し、生きて行くうえでとても役にたっている。まさに「おもしろくてタメになる」わけである。しかし、いくらタメになったところで、それを生かすこともできずに、またぞろ人間関係の泥沼に足を突っ込んでいることに変わりはない。

 別に変に卑下しているわけでもなく、いじけているわけでもない。これは、ぼく個人の問題にとどまらず、人間はバカだということは、人間の歴史そのものが証明してきたところだし、いまもまさに証明されつつあることだ。

 そのバカな人間が、人間関係のトラブルに巻き込まれながらも、懸命に生きている。その様を、岩野泡鳴も西村賢太も、懸命に描いている。そこに、えもいわれぬ「哀愁」が漂うのだ。その「哀愁」こそが、文学の本質であろう。

 アタマのいい人が書く小説は、おそらくその「哀愁」が描けないだろう。もっとも、「哀愁」は、作品そのものに「内在」するというよりも、読む人のアタマのなかに生じるものだろうから、千葉雅也の小説を読んで、ぼくが「哀愁」を感じない保証はない。やっぱり、読むしかないか。

 


 

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