68 時空を超えた旅──ああ、渋谷!

 

2020.8.26

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 今はこんなだけど、昔はこんなに素敵なところだったんだといった類いの話を聞くと、無性に悲しくなる。

 ただでさえ悲しいことの多い日々、なるべく「無性に悲しい」なんて心境にはなりたくないから、昔から、あんまりそういう類いの話は好きではなかった。

 好きではなかったのだが、最近は、やっぱりそういう話に無性に心引かれるようになった。これも年のせいなのだろうか。

 赤坂憲雄の「武蔵野をよむ」(岩波新書)を手にしたのも、そういう気持ちからだった。

 ちょっと前に田山花袋の「東京の三十年」を読んでいたら、やたらと国木田独歩のことが出てきて、そこに、独歩の渋谷の住まいを訪ねたエピソードが目にとまった。それによれば、独歩の住まいは、今の渋谷駅からそんなに遠くないところにあったという。

 明治時代の渋谷などといったら、それこそ江戸の郊外で、田んぼや畑が広がっていたんだというような知識はあったが、独歩の「武蔵野」がこの渋谷での生活体験をもとに生まれたとすれば、その住まいは渋谷よりずっと西、たとえば、幡ヶ谷とか、笹塚とか、いやひょっとしたら吉祥寺とかそんなあたりじゃなかったか、と、東京にまったく不案内なぼくは漠然と考えていたのだが、それがそうじゃなくて、渋谷駅のほど近く、つまり今のNHK放送センターあたりだったのだと、赤坂の本できちんと説明されて、あらためて、おどろいた。

 田山花袋は、独歩の住まいと彼のたたずまいをこんな風に描いている。


 渋谷の通を野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林について曲っていて、向うに野川のうねうねと田圃(たんぼ)の中を流れているのが見え、その此方(こちら)の下流には、水車がかかって頻りに動いているのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私たちは水車の傍の土橋を渡って、茶畑や大根畑に添って歩いた。
 「此処らに国木田って言う家はありませんかね。」
 こう二、三度私たちは訊いた。
 「何をしている人です?」
 「たしか一人で住んでいるだろうと思うんだが……。」
 「書生さんですね。」
 「え。」
 「じゃ、あそこだ。牛乳屋の向うの丘の上にある小さな家だ。」
 こう言ってある人は教えた。
 少し行くと、果して牛の五、六頭ごろごろしている牛乳屋があった。「ああ、あそこだ、あの家だ。」こう言った私は、紅葉や栽込(うえこ)みの斜坂の上にチラチラしている向うに、一軒小さな家が秋の午後の日影を受けて、ぼつねんと立っているのを認めた。
また少し行くと、路に面して小さな門があって、斜坂の下に別に一軒また小さな家がある。
 「此処だろうと思うがな。」こう言って私たちは入って行ったが、先ずその下の小さな家の前に行くと、其処に二十五、六の髪を乱した上(かみ)さんがいて、「国木田さん、国木田さんはあそこだ!」
 こう言って夕日の明るい丘の上の家を指した。
 路はだらだらと細くその丘の上へと登って行っていた。斜草地、目もさめるような紅葉、畠の黒い土にくっきりと鮮かな菊の一叢(ひとむら)二叢、青々とした菜畠──ふと丘の上の家の前に、若い上品な色の白い痩削(やせぎす)な青年がじっと此方を見て立っているのを私たちは認めた。

田山花袋「東京の三十年」


 このとき独歩が立っていたのが、今の「NHK放送センターあたり」だったのだということが、どうしても信じられない。信じられなくても、そこに独歩の住居跡という記念碑がたっているという。(これはちょっと見ておきたい。)

 赤坂の本は、ちょっと繰り返しが多くて、雑然とした印象もあるのだが、いろいろな本を紹介しているのがありがたい。

 中でもおもしろかったのは、大岡昇平の「幼年」という小説で、大岡の幼年時代の渋谷あたりの光景が描かれているという。しかも、田山が書き留めた「水車」に(というかその水車が廃止されて跡地に建った住居に)幼い大岡は住んでいたのだというのだ。これはぜひとも「幼年」を読まねばならない。

 読書は読書を呼び、つきることはない。

 昨今の渋谷駅周辺の再開発のすごさが何かと話題になっているが、すでに田山花袋はこの「東京の三十年」(1917年刊)の中で、東京という町のすさまじい変貌ぶりに驚き嘆いているのである。つまり、100年前から、ああ、昔の東京はどこへ行ったのだ! と、嘆いていたのだ。今更なにを嘆こうか。嘆いているより、時空を超えた旅を本とともにするにこしたことはなさそうである。

 

 


 

 

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