67 演劇はどこへ行くのか? ──劇団キンダースペース「岸田國士の夢と憂鬱」をめぐって

 

2020.7.21

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 劇団キンダースペースの主宰者原田一樹は、劇団賛助会への誘いのパンフレットに次のようなメッセージを掲載した。これをぼくは、原田一樹の現代の状況における演劇に携わる者としての「宣言」だと思っている。

「私たちはどこから来て、ここからどこへ行くのか」
「演劇」は、古来この問いに、「観客の皆様」と共に向き合ってきました。
舞台にあるのは、生身の、今この時の、私たちの姿です。
「俳優」は、「観客の皆様」の鏡として、舞台に立ちます。
「俳優」が呼吸するのは、「観客の皆様」が呼吸する空気です。
「俳優」の立つ場所は、「観客の皆様」の場所です。
キンダースペースの35年は、「観客の皆様」と共に歩んできた35年です。
「ここからどこへ行くのか」私たちと共に歩んでくださることを、切にお願い致します。

 この「宣言」が書かれた後、コロナ禍以来初のキンダースペースの芝居「岸田國士の夢と憂鬱」を見てから、はや3週間が経とうとしている。その間、ずっとこの芝居のこと、そして演劇のことを考えていた。考えはするものの、なかなか言語化できずにいた。このままだと、何も書かないまま過ぎてしまいそうなので、今思うことを、まとまりもないままに書いておきたい。

 この3週間に、偶然にも、「メロドラマ」という言葉に、まったく異なった二つの場面で出会った。

 一つは、マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第1巻 スワン家のほうへ」。こんな文章が目をひいた。

「人生においてメロドラマの美学に根拠を与えてくれるのは、サディズムぐらいしかない。」(岩波文庫・吉川一義訳 352p)

 メロドラマとサディズム、この二つがどうして結び付くのか、恥ずかしながらさっぱり分からなかったので、メロドラマについて調べてみた。すると、こんな解説があった。

「18世紀後半に西欧で発達した、音楽の伴奏が入る娯楽的な大衆演劇。」(デジタル大辞泉)

「ヒーローとヒロインの前途に迫害する敵(かたき)役もしくは越えがたい障害が現れるというパターンが多く、善玉と悪玉とははっきり分かれている。またドラマ全体としては道徳的、感傷的、楽観的で、最後はハッピー・エンドになる。さらに、劇的効果を強めるための音楽の使用、スペクタクル性を高めるための大仕掛けの舞台装置など、映画が誕生するまでもっとも大衆的な娯楽媒体だった。」(日本大百科全書)

 なるほどそういうことだったのか。メロドラマというのは、「通俗的な恋愛劇」のことだとばかり思っていたのだが、これは、長い演劇の歴史を背景にしているのだった。

 そういう意味では、昼メロだけがメロドラマなのではなくて、「水戸黄門」も「ゴレンジャー」も、そしてハリウッド映画の本流もみなメロドラマだということになるわけだ。

 「水戸黄門」を見れば、それが「現実」ではないことは明らかなのに、それでも見たあとは「すっきり」する。そこには、誰の人生観が反映されているわけでもなく、ただ「幻想」が広がっているだけで、観客はそれをみて、しばしこの世の憂さを晴らすのだ。

 こうしたドラマは、フランス革命や産業革命を背景とした大衆の嗜好から要請されたものだ。専門家ではないから、詳しくは説明できないが、世の中の価値観がひっくりかえり、生活の激変のよる不安と恐怖は、より刺激の強い娯楽を求めたといったところだろうか。

 しかも、産業革命以来の交通の発達により、人々はより遠くへも出かけるようになったので、舞台にも、様々な土地の再現を求めたらしい。その結果、ギリシャ以来の古典劇が、原則一つに場所での出来事を描いたのに対して、メロドラマの舞台では様々な土地の出来事が展開し、舞台はよりスペクタクルになり、さらには、より恐怖と刺激を供給するようになった。そこに、プルーストのいう「サディズム」が、根底を支えるものとしてあるわけだ。

 つまり、メロドラマは、登場人物が「越えがたい障害」を越えることで、ハッピーエンドになる(つまりは世界は「フェアな場所」だということの確認。)という構造を持っているわけだが、この「障害」に、攻撃、暴力がこれでもかこれでもかと加えられることで、そのハッピーエンドはますます強化されるわけで、そこにサディズムが「根拠」を与えているということになるだろう。

 もう一つは、先頃NHKで放映されたドキュメント「キューブリックによるキューブリック」だ。

 キューブリックは、このドキュメンタリーの最後に自らこう語っている。

常に問題になるのは、メロドラマが作り出す幻想を終始推し進めるか、それとも自分の人生観を作品に反映させるかという点だ。メロドラマは登場人物たちにさまざまな困難を与えることで、世界は善意に満ちたフェアな場所だと観客に示す。試練や苦難、不運な出来事のすべてはこのためにある。一方悲劇や現実に近い形で人生を描写した作品では、観客は見たあと、むなしさを覚えるかもしれない。だが世界のありのままの姿を伝えない定石どおりの手法は、単なる娯楽映画でないかぎり、あまり価値はないだろう。

 簡単に言ってしまえば、キューブリックは、メロドラマではなく、「自分の人生観を作品に反映させ」た、「現実に近い形で人生を描写した作品」をこそ作ろうとしたということだろう。その作品がたとえ「観客」に、むなしさを覚えさせたとしても、それでも「観客」に、人間とは何か? という問いへのアプローチを提供することができる。そういう映画でなくては「価値がない」と言うのだ。

 前置きが長くなったが、ここで冒頭の原田一樹の「宣言」(「宣言」として書かれたものではないだろうが、ぼくはそうとりたい。)に戻ろう。

 原田は「「私たちはどこから来て、ここからどこへ行くのか」「演劇」は、古来この問いに、「観客の皆様」と共に向き合ってきました。」というのだが、ここまでの演劇の歴史を見てみると、古来「ずっと」そうであったわけではないということが分かる。「観客」の要求によって、この重大な問いと向き合わず、ひたすら刺激の強い幻想を提供してきた演劇の時代もあったのだ。あったどころか、今も、その時代を色濃く引きずっている。

 そうした現状の中での原田の「宣言」は、明らかに演劇の原点への復帰を目指していることが分かる。キンダースペースが長いこと、ギリシャ悲劇や、イプセン以来の近代劇に取り組んできたのも、そうした志向の表れだろうし、モノドラマという形式で、近代日本文学の舞台化に情熱を注いできたのも、近代文学の中に見られる「人間とは何か」「私とは何か」という問いへの真摯な葛藤に「ドラマ」を見出したからだろう。

 そうした上演を通じて、キンダースペースの舞台は、常に「観客」に、「人間とは何か?」という問いを共有するように求めてきた。「求めてきた」というのは、なんだか変な言い方だが、「観客」は、舞台を見ているうちに、自然とその問いに向き合うようになった、というほどの意味である。観客が、しばし現実の憂さを忘れ、あ〜あ、スッキリしたという気分で劇場を後にすることがキンダースペースの舞台の目的ではない。「もやもや」が残ったり、「むなしさ」にとらわれたりしながらも、それでも、ああ人間って難しい、でも、面白い、といった気分で家路を辿る、これがキンダースペースの芝居だ。

 そういう意味で、「宣言」の「舞台にあるのは、生身の、今この時の、私たちの姿です。「俳優」は、「観客の皆様」の鏡として、舞台に立ちます。「俳優」が呼吸するのは、「観客の皆様」が呼吸する空気です。」という言葉を理解することができる。

 「舞台にあるのは、生身の、今この時の、私たちの姿です。」というのは、演劇が常に「脚本」を「俳優」が舞台の上に現出させるものだが、その「俳優」は、自分のあずかり知らぬ「他者」を「演じる」のではなく、まさに「生身の、今この時の」自分自身を舞台に晒すことになる、また、そうでなくては、「観客」もその舞台に自分の「生身」を投じることができないのだということだ。

 いくら演技がうまくても、登場人物をいかにも作り物めいた人間として描いたら、そこに生まれるのはメロドラマ的幻想でしかない。いくら演技が拙くても、そこに「生身の人間」が描かれていたら、「観客」は知らず知らずのうちに、わが身をそこに投影する。

 「俳優」が「「観客の皆様」の鏡」だということはそういうことだ。「観客」が「生身の、今この時の」の人間である以上、「俳優」が「鏡」であるためには、「俳優」もまた「生身の、今この時の」自分をさらけ出さなければならないのだ。

 「俳優」と「観客」は、「同じ空気」を呼吸し、「同じ場所」に立つ。それは、決して、「ライブ」であるという表層的な話ではない。「同じ空気を呼吸する」ということは、「生身の人間」同士が、お互いを「鏡」としながら、「同じ問いに向き合う」ということだ。それは決して「同じ答えに到達する」ことを意味しない。そもそも「答え」のない「問い」なのだ。「答え」が出るのなら、何も劇場に足を運ぶ必要もない。「答えの出ない問い」だからこそ、「同じ問いに向き合う」ことができるのだし、そこに大きな価値がある。

 今回のコロナ禍の中で、野田秀樹の出した声明が多くの反発を生んだが、演劇のもつこのような「観客」との関係が、やはりきちんと理解されていなかったためだろう。確かにスポーツも観客あってこそのものだ。けれども、スポーツの観客と、演劇の観客には、大きな違いもあるのも確かなことだ。ぜんぜん違うというのではないし、多くの共通部分を持つのだが、演劇が「俳優と観客が同じ空気を呼吸しながら、同じ問いに向き合う」芸術だという意味では、「無観客の演劇」とは、ほとんど言葉の矛盾と言っていい。

 スポーツの観客が、「応援」「声援」という形で、スポーツに参加することで、選手は勇気をもらい、やる気が出て、プレイに集中できる。そのことの意味をどんなに強調してもしすぎることはないだろう。「観客」に元気と勇気を与えるためにプレイするのだという言葉もよくアスリートは口にする。それも決して嘘ではないだろう。けれども、自分のプレイに熱中するアスリートは、そのプレイの瞬間、瞬間には、決して「観客」を必要としないし、「観客」のことを思ってプレイしているわけではない。自分の持てる力を可能の限り出し尽くすだけだ。その全力プレイが、結果として、「観客」に勇気を、元気を、感動を与えるのであって、その逆ではないだろう。

 けれども、演劇は違うのだ。俳優が、「観客の鏡」だということは、「観客」がそこにいなければ、「鏡」が無意味となってしまうということだ。「観客」は、俳優の演技の「受け手」ではなく、「俳優」とまったく同じレベルで、そこにいる。「応援」ではない。「観客」もまた「俳優」の「鏡」なのだ。

 演劇の与える「感動」というものは、だから、「演劇鑑賞」といったレベルでの受動的なものではなく、俳優と同じ空気を吸いながら、時々刻々俳優が現出する「人間」と共に生きること自体が心と体に生じさせる一種の「震え」「振動」のことなのである。

 今回の「岸田國士の夢と憂鬱」は、「麺麭屋文六の思案」「留守」「遂に「知らん」文六」の3本連続上演だったが、このほとんど世に知られない作品、岸田國士の代表作ではなく、むしろ失敗作のような作品を、あえて舞台にのせたことは、野田の言うような「演劇の死」への危機感、そしてどうしても演劇を死なせてはならぬという原田一樹の切迫した心のありようを語っている。

 太平洋戦争へと向かって行く世相のなかで、解決のつかない問題に翻弄される主人公は、まさに、今のぼくらの姿そのものだ。とうとう「知らん! 知らん! 知らん!」と叫びながら、ただ、「オイチ、ニイ……、オイチ、ニイ……」と進み続けるしかない主人公に、「観客」は、背筋の寒くなる思いで目を凝らすしかない。

 その時、「観客」も「俳優」も、同じ空気を呼吸し、同じ場所に立っていたのだった。

 


 

 

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