46 演劇の楽しみ──『俺の屍を越えていけ』を観て

 

2018.11.18

★画像付きブログで読む


 

 青森にある地方放送局での人事の問題。社長は、自分が手を汚すのが嫌だから、社員を6人集め、彼らの上司一人をリストラ候補として選べという。でも、部下にはそれができない。人間だから、上司にも欠点はある。セクハラだったり、パワハラだったり、挙げていけばいくらでもある。でも、同時に、上司は恩人でもある。しかし、誰か選ばないと、今度は自分たちの一人がクジでリストラされてしまう。理不尽な状況での、人間模様が描かれる。

 といって、終始、深刻に芝居が進むわけではない。笑いを誘う風刺を織り込みながら、それぞれの人間の葛藤と苦悩が、役者を通じて生々しく伝わってくる。ドラマは人間同士の衝突や葛藤から生まれるが、同時に、一人の人間の中にも生じる。この芝居は、登場人物同士の対立や衝突もさることながら、それ以上に、一人一人の登場人物の内面の葛藤をより重視しているように見えた。それぞれが内的葛藤を抱えつつ、そうした人間同士がまた、ぶつかり合う。考えてみれば、それが「リアル」な人間の現実だ。「善人」と「悪人」の対立など、ほんとうはドラマでもなんでもないのだ。それはただの見世物でしかない。

 演出の三枝竜は、パンフレットで、「役の感じている不安と葛藤を背負いながら、そしてさらに旗揚げ公演の苦労と努力を背中に乗せることで、より一層、俳優が輝くことを願っています。」と書いているが、いい言葉だと思う。演出家の仕事がどういうものかを、ぼくはよく知っているわけではないが、高校の演劇部の顧問として、30年ほどは過ごしてきたし、50本に近い芝居の演出みたいなものをやってきたのだが、その経験を振り返ってみても、自分がああだこうだとわけも分からず演出してきた結果、本番の舞台で、「役者が輝く」のを見ること以上の喜びはなかった。彼らが中高生だったからなおさらだった。(そういえば、同じ日見た東京都の高校演劇中央大会での、開成高校の芝居も、生徒たちが、それこそ眩しいくらいに輝いていて感動した。)

 演劇は、脚本家の思想やら思いを舞台の上に実現するのが目的ではないのだろう。もちろん、それは大事なことだが、そのためだけに芝居をやるわけじゃないはずだ。ほんとうの目的は、舞台に立つ俳優の一人一人が、人間として成長すること、そして、その姿を観客が目の当たりにすることで、観客もまた成長すること。成長というのが、ぼくみたいな年寄りには、あまりに前向きだとすれば、「豊かになる」と言い換えてもいい。(いくつになっても、「豊か」にはなれる。髪の毛はムリだけど。)

 「豊かな人間」になるために、役者は舞台に立つ。そのための努力をする。それだけでいいんだ。きっと。

 「お客様にすこしでも楽しんでいただけるために頑張っています。」と俳優はよく言うが、「観客のほんとうの喜び」がどこにあるか、はっきりと知っているだろうか。

 観客が「楽しむ」のは、その舞台が、俳優が、本当に輝いているのを見たときだ。あ、輝いてる、と感じたときだ。そのとき、観客自身も実は輝いている。それが「楽しむ」ことの本質だ。そして、この芝居は、そういう意味でも、ほんとうに「楽しめた」。終わったあとの熱い拍手にもそれが実感された。

 誰だって、人間として成長したい。誰だって豊かな人間になりたい。その方法を求めて右往左往する。さまざまな「方法」の中で、演劇ほど大きな成果を上げるものはないだろう。だから、演劇は滅びない。役者は食えなくてもがんばる。スタッフは、直接拍手をあびなくても陰で歯をくいしばって努力する。観客は、時間がなくても、電車が遅れても、かけつける。その理由はひとつしかない。「豊かになる」ためだ。一人一人の人間が「豊か」にならなくては、日本は、いや世界は、いつまでたっても「豊か」にはならない。

 長年親しみ、応援してきた劇団キンダースペースの若手の演出家の三枝竜くん、そして、キンダースペースの芝居にも出演し、いつも支えてくださっている松村千絵さんなどのご縁で、今回の旗揚げ公演を観ることができたのだが、こうした不安定な時代に、演劇の場を作ろうとする意志と努力に、心からの敬意を表したい。

 


Home | Index | Back | Next