47 言葉と時間──『鈴の音』を見て

 

2018.11.26

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 人間というものは、さまざまな重荷を背負って生きているものだ。道行く人々は、何の屈託もなく笑い、楽しそうだけど、それは表面だけの話で、その心の中に一歩でも入ったら、想像を絶する世界が広がっているはずだ。だから、ひとりの人間は、ひとつの世界なのだと、前にも書いたことがある。同じ世界が、人によって異なって感じられるとか、人によって解釈の仕方が違うとかいうことではなくて、人の数だけ世界があるということだ。その「世界」を構成しているのは、その人間の体験の総体だ。だから同じものはひとつもない。

 終戦後の厳しい生活は、生活そのものの苦しさよりも、戦中の体験の重みの苦しみ故になおさら耐えがたいものであったろう。そうした「体験談」は、手記として、あるいは小説として、数え切れないほど多く残されている。けれども、それらが「読まれる」レベルにとどまっているかぎり、どうしても「今、ここ」の切実性に欠ける。読者は、どうしても「過去のこと」として読み、理解して、ああこういうこともあったんだという感慨に浸ることに終始してしまいがちなのだ。

 終戦直後を生きた人間を、今、舞台で、生の人間が演ずるということの意味は、「過去の時間」を、「今、ここ」に現存させるということにある。平たくいえば、観客の前に、「あの当時」の人間を提示して、彼らが生きた時間の中に観客を巻き込む、ということだ。

 役者が当時の人間になりきる、というのとはちょっと違う。役者はあくまで現代人であり、昭和24年を生きる人間にはなれない。昭和24年というのは、ぼくが生まれた年だから例にあげたにすぎないが、その年に生まれたぼくでさえ、すでにその時代を生き生きと思い出すことができるわけではない。

 現代を生きる役者は、どうしたらその時代の「時間」を、生き生きと蘇らせることができるのか。それには、役者自身が今の時代、今の時間を、まさに生き生きと生きていなければならないだろう。その「生き方」が真摯でありさえすれば、自然と「その時代」の時間はその役者の中に蘇る。「時間」というものは、消え去るものではなく、人間の奥底にいつも流れているものだからだ。海のようだといってもいいし、滾々と湧き出る泉のようだといってもいい。その「流れ」に触れることができるのは、いつの時代でも、真剣に生きる者だけだ。

 「真摯に」とか「真剣に」とかいっても、別にむずかしいことじゃない。生きている限り、人間は、どうしたって真剣にならざるをえない。おちゃらけているように見えても、人生そのものをおちゃらけ通すことのできる人間なんているわけがないのだ。

 だから、ふつうの言葉でいえば、毎日をちゃんと生きることができていればいい。日々起きてくる避けられない出来事に、ちゃんと向き合っていればいい。自分のやるべきことを、なんとかやろうとするだけでいいのだ。

 役者がそういう人間なら、あるいはそういう人間になろうとしているなら、どんな役であれ、自分のこととして演ずることができるはずだ。どんなに自分と離れた環境での人生だろうと、どんなに年齢の離れた人物の人生だろうと、同じ人間のことだ。「通じている」ところは必ずある。「流れ」に必ず触れる。そこに触れたとき、舞台の役者は、「その人」になる。役の持つ時間がその役者によって、流れはじめる。

 監修の原田一樹さんは、パンフレットにこう書いている。

 

 先ず「戯曲」という形でかかれていることに立ち向かい、これを一つの作品として、観客に提示できるようなものにする、というのがワークユニットの「演劇」ですが、ここには、それだけでは言い表せないたくさんの学ぶべき要素が含まれています。
「戯曲」にあるのは「人」の生きる姿です。その人物が本当に舞台に生きているかどうかは、とりもなおさず、自分自身の生きる姿が問われているかどうか、ということです。「なぜ生きるのか」「どう生きるのか」を、考えることもなしに、登場人物の言葉を吐くことはできません。表現芸術というものは、ただ「技術」によるものではない、というのはこういうことです。俳優として自分自身を問う姿が唯一の説得力です。

 

 言葉というものは、ある意味で「時間」である。うまく言えないが、言葉は時間を運ぶ船のようなものなのかもしれない。あるいは、言葉は、時間の中に浮かんでいるということなのかもしれない。

 「戯曲」という形で書かれた言葉は、だから、時間を含み、時間に浮かび、時間そのものだ。そうした言葉を、今の時間を生きる役者が発するとき、「戯曲」は、人生そのものになる。そのようにして生まれた舞台こそ、真に優れた舞台なのだ。

 前書きが長くなったけれど、今回の『鈴の音』は、まさに、そのような意味で、真に優れた舞台だった。何度でも上演してほしい舞台になった。

 終戦直後の時間が、まざまざと小さな空間に流れ、さまざまな傷を負った人々の息づかいがすぐそこに聞こえた。「風呂屋のペンキ絵描きじゃ、たいしてもうからねえよ。」のセリフも、ぼくの祖父がまさにその「風呂屋のペンキ絵描き」だったから、ジイサンの言葉を直接聞く思いで、そうかあ、やっぱりあんまり儲かってなかったよなあという変な感慨にも浸ったりした。(秋元松代さんの知り合いに、きっと「風呂屋のペンキ絵描き」がいたに違いないと思うと、妙に親近感を覚える。)

 クッキリとした輪郭を保ちながら錯綜する3つのエピソードが、互いに深いところで混じり合い、共鳴しつつラストへと流れ込んでいく演出は、水際だっていた。瀬田ひろ美さんも、演出家として立派に自立したことの何よりの証左である。

 もともとはラジオドラマの脚本だったこれらの作品は、ラジオドラマならではの目まぐるしい場面転換が多かったが、それを、照明と役者の身体の動きで、違和感なくテキパキと切り替えていく演出も、キンダーが長年培った「モノドラマ」の蓄積があればこそだろう。

 その瀬田演出の極めつけは、やはりなんといっても「サイレン」だった。劇中では、工場の始業のサイレンなのだが、冒頭にそれが鳴り響いたとき、ぼくがイメージしたのは、もちろん空襲警報だった。その始業のサイレンの音を聞く登場人物たちの顔にも、その不安がはっきりと表れていた。そして、ラストのサイレン。三つのエピソードがそれぞれに納得のいく形でまとまりを見せ、ひとつに収束して終幕となる直前に再び激しくサイレンが鳴り響く。不安の表情とともに、幕が下りるのだが、そこには瀬田さんの明確なメッセージがあった。

 それは長いこと平和祈念館などでの戦争をめぐる「一人芝居」に情熱を傾け続けてきた瀬田さんならではの、今日的メッセージだ。終戦後70年をすぎても、実は「戦後」は終わっていないことをぼくらは日々実感している。労働の現場、結婚における差別、生きづらさ、どれをとっても、実はなにも変わっていない。戦後は終わっていないどころか、戦前になってきている、そんな不安と危惧を、瀬田演出は強く印象づけた。

 ところで、芝居が始まる前に、劇場にはうすく「昭和歌謡」が流れていたのだが、その中に『白い花の咲くころ』(昭和25年 歌:岡本敦郎)があった。ぼくが幼いころ始めて感動して、涙を流しそうになった歌。その歌を、天井にあるかと思われるほど高い所に置いてあったラジオで聞いた。その記憶がぼくにははっきりある。歌もまた「時間」なのだ。きっと。

 


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