45 「ひとつの世界」

 

2018.10.28

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 たったひとつの「客観的な世界」というものが厳然として存在しているが、それを見る、あるいは感じる人間によって、その世界が「違ったもの」に見える、ということは果たして真実なのだろうか。

 哲学でいうと、存在論とか認識論とか独我論とかいったこととかかわるのかもしれないが、ぼくにはよく分からないから、感覚的にしか語れない。

 感覚的にいうなら、世界のありかたは、そういうものじゃなくて、「ひとりひとりが世界なのだ」ということなんじゃなかろうか。

 ダイバシティということが盛んに言われ、さすがの無教養なぼくでも、最近になって、それは、お台場の商業施設のことではなくて「多様性」の謂いであることを知ったわけだが、その世界の「多様性」、人間の「多様性」ということを考えるにしても、事実はたったひとつだが、人によって見方、考えかた、とらえかたは多種多様だから、そこんとこ大事にしようね、と言っているかぎり、どこかで、でも、おれの捉え方こそ「本物の世界」なのであって、それ以外は「にせもの」だというふうに考える人がどうしても出て来る。

 そんなことを感じたきっかけは、最近話題になった、なんとか「水脈」とかいう議員の発言を擁護したなんとかという文学研究者を称する人が、インターネットのテレビに出てきて、なんとかいうゲイであることをカミングアウトしている大学教授と論戦しているときだった。

 某文学研究者の方は、日本にはそもそも「つつむ」という伝統があるんだから、(といって、源氏物語にはどこにも性の描写がでてこない、なんてデタラメを言ったその後で)、自分が同性愛だとかそういうことを、公然と話すこと自体よくない、日本の伝統に反する、というようなことを言った。

 そしたら、某大学教授のほうが、そうですか、ぼくは、異性愛の人が恋愛の話をするとき、ああこの人は自分は異性愛者なんだということを「カミングアウト」しているんだと思いますけどね、と反論した。

 その言葉に、ハッとした。

 同性愛者が生きる世界では、異性愛者の語る言葉は、みんな「カミングアウト」に見える。異性愛者は、そのことに気づかないから、別に「カミングアウト」なんかだと思わずに、女性なら平気で「私の好きな男性のタイプはねえ。」などと言うわけだ。そういうところへ、男性が「私の好きな男性のタイプはねえ。」と言ったら、何この人、こんなところで自分の「セクシュアリティ」を「カミングアウト」しないでくれる! ここは「つつむ国」なんだから、って某文学研究者のような人は思ったりするわけである。

 そういう世界で、「多様性」を認め合うということは、結局のところ、多数派が、少数派を「理解」し「受容」するというレベルでしかない。そして、多数派は、いつまでたっても、みずからの「正統性」を心の底で疑わないから、せいぜい、自分の度量の広さに満足しておわる。

 世界はひとつじゃない。人の数だけ世界がある。そしてそれは当然のことながら、みんな違う。「多様性」は、みんなで「認め合う」とかいったレベルのことじゃなくて、それは「事実」なのだ。そう考えたい。

 赤ん坊が生まれてくるということは、この「客観的な世界」に、ひとつの「命」が「加わる」ということではなくて、まったく新しい「ひとつの世界」が出現するということだ。その「ひとつの世界」の価値は絶対的なもので、比較できるものではないし、他から「評価」されるべきものでもない。まして、それのちょっとした属性にすぎない「生産性」などが問題になるはずもないのである。

 


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