44 小説を読むということ──泡鳴の残響の中で

 

2018.9.10

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 前回、小説家の磯崎憲一郎の書評の中にあった「故郷や家族、友人、身の回りの日常を大切にできる人間でなければ、芸術家には成れない」という文章に接して、つい取り乱して、怒りまくってしまったのだが、冷静になって考えてみても、やはりこの文章はショッキングだ。

 しかし、これを読んだ人が誰でもびっくりするわけではなくて、え? どこがイケナイの? こんなこと当たり前のことなんじゃないの? って思う人も多いだろうと思う。むしろ、ぼくがなぜそんなに取り乱すほどショックを受けるのかといぶかる向きも多いだろう。

 ぼくのショックの背景には、やはり、最近入れ込んで読んでいる岩野泡鳴の「余韻」というか、「残響」のようなものがあるらしい。ぼくのショックはともかく、この文章を、泡鳴が読んだら、それこそショックどころか、悶絶してしまうんじゃないだろうか。いや、それ以前に、泡鳴は罵倒して放り投げるに違いない。

 泡鳴にとっては、「芸術」と「実生活」は、切り離せないものであり、まさに「一如」である。日々の「実行」がそのまま己の「芸術」である、いや、そうあらねばならぬというのが泡鳴の信念だった。自分の日常生活が、女色に溺れた爛れたものであるならば、その小説もそれを如実に写し取らねばならない。そこに絶対ウソを紛れ込ませない。余計な感傷も付け加えない。思ったまま、感じたままを書く。その驚くほどの、あり得ないほどの「正直さ」が泡鳴の真骨頂だ。

 そこにできあがる小説が、周囲の者にどんなに嫌な気分を味わわせようと泡鳴は気にしない。気にはしないけれど、やはり自分の小説が受け入れられることを熱望もしている。しかし、だからといって、読者が気に入るような小説を書こうなどという気持ちは、ハナからなかったのだ。

 つまりは、おなじ「芸術」でも、磯崎氏が思い描いているそれと、泡鳴のそれとは、まったく逆の方向を向いているということだ。泡鳴からすれば、「故郷や家族、友人、身の回りの日常を大切にできる人間」なんてまるでふざけた冗談にしか見えないだろう。泡鳴にとっては、「家族」は、根本から疑わねばならないものだったし、自分の子供の死にさえ、涙を流さなかったこともあるのだから。泡鳴は「身の回りの日常を大切にする」ということが、果たしてどのような「実行」を指すのか、皆目見当もつかなかったことだろう。

 泡鳴は、どう生きればいいのかを、その壮絶な「実行」の中に探し求めていたように思う。「家族」とは何か、「友人」とは何か、「恋愛」とは何か、「欲望」とは何か、「信仰」とは何か、そういった生きていく上でのあらゆる問題に対して、泡鳴は、「できあい」の思想で間に合わせることはできなかった。観念的な解決で満足もできなかった。どこまでも、自分の生命をかけた「実行」によって、日々確かめようとしていたのだと思われる。

 そうした泡鳴の生き方をこの数ヶ月目の当たりにしているぼくには、磯崎氏の文章が、ふやけきった、緊張感のない、たわごとにしか見えなかったのもいたしかたないところだろう。

 「変な小説だなあ。」とか、「ヘタな文章だなあ。」とか、「嫌な描写だなあ。」とかいった気分を味わう一方で、泡鳴にしかない鋭い「輝き」を随所に感じながら読みつづけていると、いつの間にか「我が友、泡鳴」というような、洗脳されたような気分になってしまう。そして、泡鳴以外の作家の文章を読むと、その「落差」が鮮明に感じられるのだ。たとえば、たまたま必要あって先日読んだ太宰治の『清貧潭』には、目の覚めるような文章の美しさを感じた。それはかつてないほど強烈な印象だった。

 この年になって、最近ようやく分かってきたことは、小説を読むということは、「味わう」というレベルでは足りなくて、その作者のものの見方、感じ方、考えかたを、まるで作者その人になったかのように我が物とする、というレベルが必要だということだ。別の言葉でいえば、小説を「外側」からではなく、「内側」から「読む」ということ。小説の世界に入り込んで、そこの世界から、わが身を、世界を、見てみること。そういうことこそが大事なのかもしれない。

 泡鳴のものを読むときは、泡鳴になる。太宰を読むときには、太宰になる。漱石を読むときには、漱石になる。そうすることで、それぞれの世界がよりくっきりと見えてくるのだ。

 


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