26 「語る」ということ ──瀬田ひろ美・一人芝居『父さんはとうとう帰って来ませんでした』を見る

2017.7.18

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 岸政彦は「語り」についてこんなことを書いている。

「ある強烈な体験をして、それを人に伝えようとするとき、私たちは、語りそのものになる。語りが私たちに乗り移り、自分自身を語らせる。私たちはそのとき、語りの乗り物や容れ物になっているのかもしれない。」『断片的なものの社会学』

 戦争体験の語り部として「語る」ときだけではなくて、ぼくらが日常のあらゆる場面で何かを語ろうとするとき、こうしたことは起こるのだという。

 たしかに、ぼくらが、あのときああしてこうしてと、夢中になって「自分語り」に熱中するとき、ぼくらは「語り」に突き動かされ、そして自分の小さな物語を作っているのかもしれない。岸政彦は、そのようにしてつくりあげてられてきた物語の組み合わせが「自己」なのだという。

 劇団キンダースペースの瀬田ひろ美による一人芝居『父さんはとうとう帰って来ませんでした』は、戦争体験者、江頭ふみ子の手記を、一人芝居にしたものだが、それは、「語り部」を演ずるという、二重の「語り」として瞠目すべきものであった。
実際の体験者の語り部が語る「語り」でも、「語り」は、語り部に乗り移り、語り部は「乗り物」になる。それなら、「語り部」を演ずる役者は、「乗り物」の「乗り物」にならなければならない。

 けれども、「乗り物」の「乗り物」なんていう二重構造が、観客に見えてしまったら、しらけるだけだ。感動どころではないだろう。その二重構造が見えないようにするためには、「役者」が透明にならなければならない。まずは、役者が透明になり、その中の「語り部」が舞台に現れ、そして、その「語り部」さえもが透明になって、舞台には、「語り」そのものが姿を現さなければならないのだ。それは至難の業だが、キンダースペースの「モノドラマ」で長い間鍛えてきた技術と芝居への思索によって可能となったのだ。

 朗読は、さまざまなスタイルがあるだろうが、あくまで「テキスト」が主体であることは確かだろう。しかし、「モノドラマ」あるいは「一人芝居」となると、あくまで演劇である。演劇の主体は、もちろん、役者であり、役者の肉体、そして役者の肉体が語る言葉である。生身の人間が舞台に立っている以上、それは、「朗読者」ではなくて、「役者=演じている人間」なのだ。その役者が「語り部」となって語る。しかも、役者は「語り部」を演じているのではなくて、手記を書いた体験者を演じるのだ。

 この一人芝居で、瀬田が語れば語るほど、「語り部」は姿を消し、くっきりと「江頭ふみ子」という人間が、そして、彼女を取り巻く様々な人間の姿が、浮かびあがってきた。江頭ふみ子という人が実際に目の前にいて、ぼくらに向かって語りかけてくる思いがした。それだけでも、十分に感動的だったけれど、瀬田がそこを突き抜けて、瀬田は「語り」の乗り物となっていった。そして小さな舞台に現出し、溢れたのは、江頭ふみ子という人の、悲しみ、怒り、恐れ、喜びなどの、本当は言葉にならない心の現実だった。言葉にならない、言葉にできない心の現実を、言葉によって表現する。なんという矛盾に満ちた、困難な作業だろう。それを成し遂げようと懸命に努力し、みごとに成し遂げた瀬田ひろ美さんに、心から敬意をはらいたい。そして、今回、素晴らしいギターの演奏で、芝居の背景をつくりあげてくださった、下梶谷雅人さんにも感謝したい。

 岸政彦は、ぼくらが作りあげていく「物語」の外側から、何かが覗き込んでいるのかもしれない、とも言っている。それはたぶん、今回瀬田が見事に表現したように、語れば語るほど立ち現れてくる、「言葉にならない心の現実」なのではなかろうか。ぼくらが「語る」のは、ちょうど、ろうけつ染めが色を染めることで模様が浮かびあがるように、「語り得ないもの」の模様をなんとかして捉えたいがためではなかろうか。

 「語り」の外側にも、「物語」の外側にも、「言葉」の外側にも、実は、無限のひろい時空が広がっているのだ。

2017.7.17 平和祈念展示資料館(新宿)14:00〜

 


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