23 「目が合う」ということ

2017.5.10

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  「目が合う」ということが、ときどき不思議に感じられることがある。人間の身体の中でもとりわけ小さいのが目で、その小さい目が見つめる先は、非常に限られた一点であるはずだ。それなのに、電車の中などで、ふと前に座っている人と目が合ってしまうのは何故なのだろう。

 縦横に広がっている視界の中に、同じ視界をもっている相手がいたとして、その両者の一点が、ピタッと、あるいはカチッと「合う」のは、どうしてだろう。

 何を言っているんだ、オマエは、という人は、例えば、ピッチングマシンを2台、向かい合わせに置いて、同時にボールを発射させたとして、その二つのボールが、空中でぶつかるかどうかを考えてみてほしい。ピッチングマシンから、ごく限られた方向へ投げ出された二つのボールでさえ、それが空中でぶつかる可能性はごく低い。それなのに、人間の目は、ということだ。

 それでも、自分も相手を見て、相手も自分を見ているんだから、目が合うのは当たり前じゃないかと言うのなら、まあ仕方がない。しかし、ぼくには、どうも当たり前じゃないと思える、ということなのだ。

 現代人は、目を合わせなくなっているのではないか、あるいはそれを恐れているのではないか、と鷲田清一が言っている。(『じぶん・この不思議な存在』講談社現代新書・1996)テレビやら、ポスターやらで、一方的に投げかけられてくる「視線」に慣れてしまっていて、きちんとその「視線」を受け止めることができなくなっているのではないかというのだ。

 確かに、現代人でなくとも、相手がヤクザだったりしたら、「目が合う」のはコワい。「おんどりゃ、なに、がんつけとるんじゃい!」とか言われてぶん殴られないとも限らない。けれども、電車の中で、ごく普通の見える人とも、目が合うと、すぐにそらしてしまう。「じっと見つめる」なんてことはできない。そんなことしたら、カタギの人でも、「なんですか?」ってむっとした顔をするに決まってる。

 もし、「じっと見つめる」としたら、「その席、ゆずってくれない?」とか、「ズボンのチャック開いてますよ。」とか、何か切実に相手に訴えかける場合だろう。そのように切実な訴えをもって、人を見るとき、その人の顔は、ほんとの意味で「顔」となるのだと鷲田さんは言うのだ。そして、彼は言う。「そういうだれかへの訴えとしての〈顔〉が、今とても貧しくなっているように感じられる。」と。

 渋谷の交差点で、ほとんどの人はそういう「顔」を持たない。だれかへ訴えかけようとはしない。たとえそういう「顔」があっても、「目をそらして」しまう。無数の関わりを拒否した人間が行き交うのが現代の交差点だ。

 しかしまた、だからこそ、現代は、都会は、快適なんだともいえる。すれ違う人がみんな自分に何かを「訴えかけて」きた日にはおちおち歩いてもいられない。うっとうしくてしょうがない。

 でも、再び考える。やっぱり、「目と目が合う」というのは、大げさにいえば「奇跡的な出来事」なのではないか。その「出来事」がはらんでいる奇跡性、なんて言い方は変だが、つまりは重大性に、ぼくらは思わずたじろいでしまう。面と向かって会話をしていても、なるべく目と目は合わないようにしてしまう。「目は口ほどにものを言う」から、そこに相手の本心があるかもしれない。それを見るのがコワいから、言葉でごまかそうとして、必死になって話題を探す。沈黙はコワい。沈黙のなかで「見つめられる」のはコワい。それが、たぶん、ぼくらの日常だ。

 カスヤの森現代美術館で、宮崎郁子さんの人形の写真を撮っていたとき、ふと、この人形の「カメラ目線」を撮れないかと思い、顔にズームしてその「視線の行方」を追いかけてみた。けれども、どの角度から撮っても、けっしてその視線が「カメラ目線」になることはなかった。そうか、人形は、少なくとも宮崎さんの作る人形は、どこかを「見ている」のではないんだと思って、ハッとした。

 「目が合った」とき、実は、すでに人間と人間の「こころの交流」が起きたのだということだ。目の奥には、「こころ」がある。拒否するにせよ、受け入れるにせよ、そこになんらかの「交流」が一瞬生じたことに間違いはない。だから、人間の「こころ」を持たない人形とは、どうしても「目が合わない」のだ。方向としてはピッタリ一致しても、ぼくらが目を合わせるときに感じる何かが欠如している。その「何か」こそ、実は、言葉にならない人間の「こころ」なのではなかろうか。

 人間の「こころ」を持たない人形は、それでも、何かを「見ている」ように見える。けれども、近づいて視線を合わせようとすると、ぼくらから逃げていく。それでは、人形は何を見ているのだろか。あえて言えば、それは「自分の内面を見ている」ということになるだろう。

 能面が持つあの不思議な表情も、結局、能面も、「おのれの内面を見つめている」ところから来るのではなかろうか。自分を見つめる「顔」をぼくらが見るとき、必然的に、ぼくらも自分のこころの中を見つめることになる。そんな気がする。

 


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