19 空疎な言葉と豊かな沈黙───『紙屋悦子の青春』スターダス21養成所研究科修了公演を観る

2017.3.11

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 戦争末期に、次々と特攻で多くの若者が命を落とした。この芝居はそのことをテーマにしながら、特攻に赴く者、それを見送る者、それぞれの悲しみと怒りは、深く潜行し、言葉にならない。ただ、ごく普通の「会話」がかわされ、ときに言い出しかね、ときに沈黙する。

 「『演劇』は『答え』を出さない。ただ、不断に問い続けることを求める。その覚悟があるものが、おそらく唯一、俳優に向いている。」と原田さんは言う。だとすれば、この芝居に出演した若者は、みな、たぶん、俳優に向いている。演出家原田さんの意図は、おそらく半分以上実現していたと思う。スターダス21養成所の研究科終了公演だから、まだまだ俳優としての技量は未熟である。それでも、原田さんの意図を実現しようと懸命になっていた。「半分以上実現した」のはその結果だ。

 ぼくは、いわゆる「特攻もの」は苦手だ。嫌いだといってもいい。それは原田さんが言うように、どうしても「自己犠牲の礼賛」になってしまうからだ。しかし、それ以上に、「行って参ります」と特攻志願者(?)が言うセリフをまともに聞けないからだ。もちろん、彼らにそう言わしめた「者」への怒りの故にだ。彼らが「純粋」(あるいは、そのように見える)であればあるほど、彼らが「お国のために」と真剣(あるいは、そのように見える)であればあるほど、ぼくの怒りは増幅される。

 今回も「明石」がそうしたセリフを言うが、そこには余計なヒロイズムも悲惨さも無念さもなく、ただ「行って参ります」という「言葉」だけがあった。それに対して「悦子」もまた、しずかに頭をたれて「一言」を言う(どういう言葉だったか正確に覚えていないが)だけだ。「言葉」は発せられたが、問題はその「言葉」ではなく、その「言葉」の周囲に無限に広がる「沈黙」だ。「沈黙」は「無」ではない。かぎりなく深い意味を込めた「沈黙」だ。原田さんの言葉を借りるなら、「不断の問い」という形での「意志」だといってもいいだろう。

 この1時間20分ほどの芝居を見ながら、ぼくの頭の片隅に、昨今の稲田防衛大臣の「空疎な言葉」が、梅雨空の雲のように広がり、得体の知れない嫌な「音」を響かせていた。「教育勅語の精神を取り戻すのが教育だ」といった「言葉」は、「空疎」なという形容をすら拒む「言葉ではない音」だ。その「音」の周囲に広がる不気味な「過剰な言葉」。それは、この芝居にあふれる「深い沈黙」の対極にあるものだ。

 先日のキンダースペース公演『河童』の打ち上げのときに、原田さんは最後の挨拶で、世の中はこんなですけど、でも、ぼくらはこんなバカなことをやるしかないんです、頑張りましょう! というようなことを言った。「こんなバカなこと」とは、言うまでもなく「演劇」という行為だ。「言葉ではない言葉」が巷に充満し、「本当の言葉」あるいは「沈黙」を窒息させようとしているのが今の時代だ。その中で、演劇は、「空疎な言葉」ではなくて、「深い沈黙」で、「鋭い問いかけ」で、その状況に立ち向かわねばならないのだ。


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