14 歌の力

2017.1.6

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 昨年末の紅白は、いろいろと物議をかもしたが、まあ、いちいち目くじらたててもしょうがない。他にすることとてないから、酒飲みながら、文句は言いつつも、それでも最初から最後まで全部見てしまった。

 好きじゃなかった、というか嫌いだった松田聖子の透明に伸びる声に、デビュー当時の新鮮な驚き(あの時は可愛かったなあ)のことを思い出したり、大好きなperfumeが出てくれば、やっぱりいいなあと感嘆したり、宇多田ヒカルが妙に歌いにくそうなのに同情したり、まあいろいろあったなかで、びっくりして、ほとんど感動すらしたのが、意外にも氷川きよしだった。

 彼が歌った『白雲の城』を初めて聞いたとき、今時なんでこんな歌を歌うのかと疑問だった。そんなこと言い出したら、そもそも演歌なんて、そういう疑問なしには聞けないわけだが、それにしても、現代の世の中にあえてこの歌を問う意味が分からなかった。

 この歌はどう考えても、かの三橋美智也の『古城』の焼き直しである。ぼくは小学生の頃から、三橋美智也が大好きで、この『古城』など何度人前で歌ったかしれない。『古城』は昭和34年の歌だから、このときぼくは小学4年生。そのころから、ずっと歌ってきたのだ。中学に入っても歌いつづけ、教師になって最初の赴任高、都立忠生高校で演劇部の顧問を仰せつかったときも、夏の合宿で、発声練習だとかなんとか言って、歌を歌わせた挙げ句、オレにも歌わせろとばかりこの『古城』を得意になって歌い、演劇部の生徒たちにバックコーラスを無理矢理やらせたりもした。

 『白雲の城』も、歌詞の内容は似たりよったりだし、曲調もすごく似ている。作ったほうも、当然、新しい『古城』という意識があったに違いない。けれど、どうして、今更この歌を? の疑問は拭いきれなかったし、氷川きよしがどんなに頑張っても、あの三橋美智也の空のように澄んだ声が作り出す『古城』の世界にはとどくはずもなかった。

 ところが、今度の紅白で、驚くべき光景をみた。なんと、氷川きよしは、あの熊本城をバックに、能舞台のようなステージで歌ったのである。能舞台というのは、死者をこの世に呼び戻す場でもある。地震によって無残に破壊された熊本城をバックに、能舞台で、『白雲の城』を歌う。その制作者の意図がはっきりと分かったような気がした。そうした意図をはっきりと自覚した氷川の歌も、いつもとはまったくその様相を変えていた。いつものように、ただ、伸びのよい声で気持ちよく歌うというのではなく、少々大げさな言い方だが、地の底からわき出るような、魂に呼びかけるような歌い方、といったらいいかもしれない。ぼくは、その氷川の歌を聴きながら、「歌」というものの根源に触れたような気がしたのだ。

 その「歌」というのは、歌謡曲とかポップスとかいったものを遙かに超えて、古代歌謡、古代の和歌につながるものとしての「歌」だ。ぼくはそういう「歌」の歴史をきちんと学んだわけではないからもどかしいのだが、歌は確かに、個人の内面を歌うまえに、もっと深く呪術的な意味合いを帯びたものだったはずだ。死者を悼み、その魂を慰め、神を讃え、人間の苦悩を訴える。そうした、個人を越えた、人間の根源的な思いのあらわれとしての「歌」。その「歌」が、あの熊本城下の「能舞台」の上で歌われているような、そんな不思議な感覚にとらわれたのだった。

 ちっとも「現代的」ではない、言い古された言葉で作られた歌詞。飽きるほど聞いた凡庸なメロディ。でも、あの時、『白雲の城』は、まさに「現代の歌」となったのではなかったか。時間の地層の深みに流れる「歌」の根源に一瞬でも触れたのではなかったか。そんな思いを今でも拭いきれない。

 思えば一口に歌といっても、様々な歌がある。けれども、その表面的な多様性を超えたところに、歌のもつ根源的な力というものがきっとある。そんなことを考えながら、歌を歌い、歌を聴いていきたいものである。

 


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