3 不二家の2階

2016.10.8

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 横浜のかつての繁華街、伊勢佐木町のはずれの、さびれかかった商店街にあったペンキ職人の家に育ったから、親には申し訳ないが、うまいものを食って育ったという記憶がない。朝食、昼食はもちろん、夕食も慌ただしくて、母と祖母が極端に折り合いが悪かったから、妻と母のめんどくさいいがみ合いに耐えられない父は、口もきかずにそそくさと急いで食べてしまうと、あっという間に事務所へ行って、帳簿をつけて、その後、ちかくのフグちり屋へ飲みに行ってしまうのだった。フグちり屋といっても、居酒屋で、毎日フグちりを食っていたわけではないだろうが、とにかく9時ごろから11頃まで、そこで飲んでいた。それが父にとっては唯一の心安まる時間だったのかもしれない。しかし、ぼくにとっては、夕食は心安まる時間ではたぶんなくて、それで「ああうまい」とか「ああ楽しい」とか思って食事をした記憶がないのだろう。

 となると「頼みの綱」は外食だが、たまに、祖母だったか母だったかが、伊勢佐木町のデパート(松屋と野沢屋が並んでいた)に連れて行ってくれて、そこの「お好み食堂」で、カツ丼を食べるのが最高の贅沢だった。だから今でも、何が好きかと聞かれれば、躊躇なく「カツ丼!」って答える。

 それより上というと、鰻丼があったが、これは一度だけ何かのお祝いだとかいって、父母が伊勢佐木町の有名な鰻屋に連れて行ってくれたことがあった。しかし、そのとき、悲しいことに鰻の小骨が喉にささってしまって、何日もとれず、痛い思いをした。それで、鰻丼はちっともいい思い出にならなかった。その店にはその後二度と行ったことはない。(ただし、鰻丼は好きだ。)

 さらにそれより上というと、ちょうど松屋と野沢屋が並んで建っているその正面に、不二家があった。あのペコちゃんで有名な不二家である。この不二家は、1910年に、横浜の元町に洋菓子店として創業。日本で初の「ショートケーキ」を販売したのはこの不二家である。そして1922年に伊勢佐木町にレストラン1号店を開店したのだ。そのレストランが、デパートの前にあったのである。

 「お好み食堂」でカツ丼を食べた後、どうかすると、その不二家レストランで、パフェなどを食べるという恵まれた日もたまにはあった。不二家に入って、そのまま進めば1階のレストランで、主にケーキだのアイスだのデザート系を供する、今でいえばパーラーみたいなところだったが、2階もあった。2階に行くには、入り口を入ってすぐ左にある右へゆるやかにカーブした階段をのぼるのであった。確か、その階段の踊り場みたいなところに、サンプルメニューが飾られたケースがあり、そこには、なにやらハイカラな、食べたこともない高級そうな料理が並んでいた。ぼくは、それをチラッと横目で見あげながら、パフェを食べに1階のパーラーへと入っていくのだったが、ああ、2階ではどんなものを食べているのだろう、一度入ってみないなあと、そのたびに切なく思ったものである。

 当時、つまり幼稚園から小学生まで、いや中学生になっても、「憧れ」という概念をもっとも実感的に具体化できたのは、「不二家の2階」だった。「憧れ」は、実現しないことによって、永遠のものとなる。ぼくは、いまだに「不二家の2階」に行ったことはない。今もあるのかどうかすら確かめてはいない。今、もしその「2階」があったら、そこで最高級のメニューを頼むことぐらい「へでもない」が、幻滅するに決まっていることをする気はさらさらない。

 かくして「不二家の2階」は、ぼくの中で永遠の「憧れのレストラン」となったわけだが、それとは逆に、最初の衝撃が、通うに連れてだんだんと弱まり、やがて無残にも崩壊していったレストランもある。それがデニーズだ。そのお話は、また次回。

 


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