70 「深刻な状態」 

2012.5.12


 大丈夫よ、大丈夫。………。え? ………。そんなことないってば。………。え? ………。だから、大丈夫だってば。ちょっと、ヨーゾー君と変わるわね。そう言って、家内が受話器を持ってきた。妹からの電話。(ちなみに、家族内では、ぼくはヨーゾー君と呼ばれている。)

 妹の話によると、コンタクトを変えようと思って某メガネ店に行ったところ、眼科で眼圧をはかられた。そうしたら、数値が高いというので、視野検査をされた。何だかよくわかんなかったんだけど、バーコードみたいな線が見えるかとかいう検査で、なんだかよく分からない検査だったんだけど、結果が出て、そしたら、視野が欠けていて、これは深刻な状態ですって先生に言われたのよ。もう、目が見えなくなっちゃうのかなあ。点字ならった方がいいかなあ、どうしよう、なんて半分叫んでいる。まだ、検査を終えたばかりで、外から携帯で連絡してきているようだった。

 眼圧が高いと、それが原因で視野が欠けることがあるけど、まあどのくらい欠けているのかも分からないんだし、もし欠けているとしても、急に見えなくなっちゃうとかいうことじゃないから、あわてなくていいよ。かなり欠けているとしても、全部見えなくなるまでには、相当時間もかかるから、まあ、見えなくなるより、死ぬ方が先かもよ。おまえもいい歳なんだし。とにかく、オレが通っている眼科に行って、もう一度、視野検査をしてもらった方がいいよ、なんてなだめたのだが、その医者の言った「深刻な状態」という言葉が気になった。

 万事大げさな妹のことだから、笑ってすませてもいいようなものだが、ただやはり「深刻」という一言は気になる。それにぼくだって、30年以上も前に眼圧が高いと診断されたときは、視野検査もしていないうちから、もう失明するんだという絶望感に襲われ、眠れないほどうろたえた記憶がある。その時はさすがに点字を習おうとまでは思わなかったが、失明したときのために音楽の趣味をきわめておこうなんて思って、それでクラシックのCDをやたら買い込んだような気がする。だから、眼圧が高いどころではなく、視野が欠けていて「深刻な状態」だなんて医者に言われたひには、ぼくだったら前途をすっかり悲観して、かつてドザエモンで有名だった大岡川に身を投げてしまうかもしれない。だから、妹のうろたえる気持ちもよくわかるのだ。ぼくも妹も、人並みはずれて度が過ぎた心配性で、似たもの同士なのだ。

 それから、ずっとそのことが気になっていた。今すぐに失明するわけではないとしても、今「深刻な状態」なら、いずれは失明に至るかもしれない。目の見えないバアサンになって、かつての新潟の瞽女のように三味線かかえてヨロヨロと門付けして歩く妹の晩年の姿が、時折ぼくの脳裏をよぎり、さすがに哀われを感じざるをえないのだった。

 数日後、妹から電話があった。その電話のある前に、家内が、「あれから電話があって話したんだけど、視野検査がいいかげんだったんじゃないのかしら。だって、あの子、ひどい近眼なのにコンタクトをはずして検査したから、最初から何にも見えなかったらしいわよ。」なんて言うので、そんないいかげんな検査があるのかなあ、もしそうならヒドイよねえ、なんて話していたのだが、電話によると、何と、まさにそのヒドイ検査だったのだった。

 「だって、その検査した子ってさあ、まだ新米のアルバイトでね、マニュアルどおりのことしか言わないんだもん。最初に、真ん中の黒いところを見てくださいって言うんだけど、コンタクトはずしてるから、ぼんやりしていてよく見えないし、もう左目のときなんか、ぜんぜん何がなんだか分からないから適当にボタンを押してたのよ。」「何だよそれ、それじゃ、まるっきり視野検査にならないじゃないか。」「だって、しょうがないでしょ。見えないんだもん。」「で、先生は、その結果を見たっていうのか?」「そうなのよ。先生は、この機械は使いにくいのよねえなんて言ってたけど、でも、眼圧がこれで、視野がこれだけ欠損しているとしたら、深刻な状態です、って言うんだもの。」

 言うかあ、普通、そんなこと。視野検査の機械が、使いにくくて、しかもそれをほとんど素人が使って出たデータをもとに、「欠損しているとしたら」ってなんて、どうして言えるのか。そんなデータなんてハナから信用できないではないか。その信用できないデータをもとに「もしこれが本当なら」っていう前提をつけたにしても、「深刻な状態です」って患者に言うものだろうか。言っていいものだろうか。

 患者というのは、妹やぼくほどではないにしても、多少なりとも不安を感じているものなのだ。だから、「この機械は使いにくいし、まして検査をしたのが新米のペーペーですから、このデータは信用できません。ただ眼圧は、いくらペーペーが計っても結構正確なもので、あなたの眼圧が高いことはおそらく確かですから、もっとちゃんとした機械を持っていて、しかもペーペーじゃない看護師のいるちゃんとした眼科にいらして視野検査をもういちどやってみてください。」ぐらいの言い方をするべきなのだ。それが、常識をわきまえた医者というものだろう。

 結局、妹は、ぼくのかかりつけの眼科に行って、視野検査をしたけれど、まったく異常がなかった。ただ、眼圧はやはり高いので、もう少し様子をみて、目薬を使うかどうかを検討しましょうということになったという。電話を切って、まずはよかったと安心したものの、やはりしばらくは、その「深刻な状態です」って言った医者のことが腹立たしくてならなかった。まったく「深刻な状態」なのは、その医者である。


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