夜明け前、私達は目覚めた。やはり緊張していたのだろう。彼の複雑な表情に微かな痛みを覚えながら、私は彼に言い放った。
「夕べのことは忘れろ。昼間の礼だ」
「ブリギッド様…」
彼の瞳が翳るのを無視して、私は彼の背を押した。
「見られると困るんだろう?早く行きな」
今の顔を見られたくなくてすぐに扉を閉めた。張り詰めた糸が切れたようにその場に座り込んでしまった。
 自分の馬鹿な行動と自覚した気持ちに泣くかと思ったが、涙は出てこなかった。そう、それが当たり前なのだ。父が死んでからは泣いたことなどなかった。それなのに何故彼の前では泣いてしまうんだろう…。

 しばらくは気まずいだろうと諦めていたが、夜が明けるとそんなことを吹き飛ばす事態が発生していた。シグルド様を謀反人とし、それを討伐するという名目でグランベルの大軍がアグストリアに進軍してきたのだ。衝撃と戸惑い…そして絶望がオーガヒルを包んだ。アグスティやマディノに残っていた人々もオーガヒルに逃げ込んできた。
 オーガヒルを拠点にするならしばらくはグランベルとも渡り合えるだろうが、そうはならないだろう。グランベルと戦うことなど彼らの頭にはないのだ。私もグランベルで生まれているのに、嘆き悲しむ彼らを…妹を他人事のように見つめていた。グランベルの人間でなくても、イザークのシャナン王子達は自分を匿ったせいではないかと己を責め、ヴェルダンのジャムカ王子はエーディンをさらったことで始まった戦争に責任を感じ、アグストリアのラケシス王女は最愛の兄を失ったばかりの上に、祖国をグランベルに蹂躙され、慟哭するばかりであった。
 冷静でいる罪悪感もあって、私は彼らのためにできることはないかと考え始めた。全員逃がすには船が足りない。…逃がす場所もない。シレジアという国の名が頭を過るが、すぐに打ち消す。シグルド様の仲間にはシレジア人もいるが、あの国が紛争の種を受け入れるとは思えない。そんなことを考えながら私は東の海を見つめた。朝日に照らされ、何かがきらりと光った。
「あれは…」
私はイチイバルを片手に駆け出した。それはもう身体の一部になっていた。
 オーガヒルで一番高いところに一気にかけ登り、イチイバルを引いた。そして、声が届くところまで来るのを待って、声を上げた。
「オーガヒルに何用だ!事と次第によっては、この聖弓イチイバルであなた達を打ち落とす!」
相手に緊張が走り、武器を持ち始めた。私も弦を引く手に力がこもる。しばらく睨み合っていたが、緊張感が頂点に達する前に指揮官と思しき天馬騎士が返答してきた。
「あなたはオーガヒルのブリギッド殿ですね。お噂はかねがね聞いております。私はシレジア天馬騎士団のマーニャと申します。王妃ラーナ様からの親書を携えてやって参りました。シグルド様にお取り次ぎ願いたい」
「…それでは…」
 ほっとする私にマーニャは笑顔で頷いた。私はすぐさま弓を下ろした。
「シグルド様にはすぐに連絡します。あなた達は早くペガサスの羽根を休ませてあげて下さい。弓を向けた無礼、心からお詫びいたします」
ペガサスを下ろす場所を指示していると、背後で金属音がした。振り返ると槍を持った彼が中に入ろうとしていた。私と目が合った彼はすぐに視線を外して、
「シグルド様には私から報告いたしますので、ブリギッド様はシレジアの方を…」
「わかった」
 私達は反対方向に向かって走った。私は心の底から安堵していた。私を見てくれていた。それだけで胸に温かいものが込み上げてくる。…一人じゃない。

* * *

 シグルド様の軍に加わっていた吟遊詩人はシレジアの王子だった。そのおかげでシグルド様達はシレジアに迎え入れられることとなった。それに私が加わることは考えていなかったが、妹の懇願により頷かざるを得なかった。オーガヒルに残る者のことを思うと気が重い。しかし、イチイバルを持つ人間が存在するのはグランベルにいる弟には都合が悪いだろう。私が残れば必要以上の攻撃を受けることになる。後ろ髪引かれる思いでオーガヒルを後にした。
 シレジアが与えてくれた城は想像以上に快適だった。私も新しい仲間とも馴染み、今までとは違う安らかな日々に時々逃亡者であることを忘れてしまいそうになる。
「姉御!」
「…ああ、デュー。どうしたの?」
「それはこっちの台詞だよ!さっきからぼんやりしてるけど大丈夫?」
 元盗賊のデューが妹と共に何かと世話を焼いてくれる。彼はオーガヒルの義賊に憧れていると言っていたが、本当は妹に淡い想いを抱いていたらしい。他にも妹を想う者は多いようだが、顔が似ているだけで中身は全く違う私に興味を示さない。ユングヴィの騎士、ミデェールだけはイチイバルの正統な後継者である私に忠義を尽くしてくれるが、やはり私の顔を見るのは辛そうだ。
 騎士といえば…真っ先に思い浮かべるのは彼のこと。主のキュアン王子の用事で忙しく立ち回る彼を一目見たいと、重い身体を引きずってここまで来たんだった…。あれ以来一言も言葉を交わしていない。
「あ・ね・ご!」
 耳元で大きな声を出され、我に返った。
「…ごめんなさい…。何かぼーっとしちゃって」
「具合でも悪いんじゃないの?顔もちょっと赤いよ」
デューはそう言って私の額に手を当てた。子供だと思っていたその手が苦労のせいか男っぽいのに戸惑ってすぐに離れた。悪いことをしたと後悔したが、デューはそれどころではないようだ。真っ青になっている。
「姉御、少し熱あるみたいだ。すぐに部屋に戻ろ。…立てる?」
 デューは私の手を引いて立ち上がらせようとした。私はこの段になっても彼をまだ見ていないと抵抗を試みるが、身体に力が入らず、引っ張り上げられた。しかし、デューでも私を支えることはできなかった。薄れゆく意識の中でずっと聞きたいと思っていた声が聞こえたような気がした。

* * *

 妹は深い溜め息を吐いて私を見つめている。
「…どうしてもお相手を教えて下さらないのね」
「だから…相手はわからないと言っているでしょう」
「でも…お姉様…」
妹は全く理解できないといった表情で今は夫となった隣のジャムカ王子を見た。妹に落胆させたことを申し訳ないと思いながらどこかで誇らしく思う自分がいる。
「エーディン…。あなたと私は全く別の世界にいたの。気さえ合えば誰とでも平気で肌を合わせていたわ。あなたと巡り合ってからはあなたが望む通りに自分を合わせてきた。もともと私がいるべき世界はそこなんだって。でも…一度身についたことはなかなか変えられない…」
 虚勢混じりに思っていたことを少し吐き出して気が楽になった。でも、妹の辛そうな顔を見ると胸が痛む。
「お姉様…。わかったわ。もう何も言いません。…でも、同じ時期に子供を授かるなんてやっぱり双子なのね…」
「………」
 頭を抱えたくなったが、そこが妹のいいところでもある。純真さ故に流すという発想すらない。そのおかげで私は…。
「こうとなったら、弓の稽古も当分お休みしないといけないわ。一緒に元気な子を産みましょう。そうそう、お姉様からもお礼を言ってね。ここまで運んでくれたのはフィンなのよ。すごく心配してくれてて今も外で待ってるの」
「…え…」

 次の相手は強力だった。私が何を言おうと納得しない。彼は身をもって知っているのだから。
「…どうしてですか!?」
「だからさっきから言ってる。あんたが父親だとは限らないって。わざわざ泥を被ろうって気が知れないよ」
「ブリギッド様!」
悲痛な目で見据えられ、胸がズキズキ痛む。その反面、彼の気持ちに喜んでいる自分に反吐が出そうになる。
 真面目だから責任を感じてるだけ。こんな私のために…。だから、引き下がるわけにはいかない。
「…一人の男と添い遂げるなんて私には無理なのさ。男に縋って生きてくつもりもないしね。寝たい時に寝たい相手と寝る…エーディンが何て言ったって変えるつもりはないよ。…また相手してくれるっていうなら歓迎するけど?」
「………」
 彼は力なく立ち上がると部屋を出ようとノブに手をかけた。立ち止まって振り返るものの、顔を上げないため表情が読めない。
「お身体お大事に…ブリギッド様…」
それだけ言い残して扉の向こうに彼は消えた。
「フィン…」
 ずっとこらえていた涙が一筋だけ零れて落ちた。

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