ルテキアを抜けてグルティアへ向かう途中、ナンナとフィンは前夜の雨でぬかるむ山道を進んでいた。馬が足を取られないように少しでもよい状態の場所を探すため先を行くフィンの背中をナンナはずっと見つめていた。
 幼い時は躊躇なくしがみついていた大きな大きな背中。今では少し小さく見えるが、その距離は遥かに遠くなった。
(手を伸ばせば届くのに…え?)
 本当に手の届きそうなところにその背中はあった。先行していたはずのフィンはいつの間にか馬を止めて、前方を見つめていたのだ。ナンナは慌てて手綱を引き、方向転換した。そして、フィンの視線を追う。
「あれは…」
 一人の若い女がぬかるんだ道を幼い子供の手を引いて登っていた。何度も足を滑らせる子供。ナンナは思わず馬を走らせた。
「大丈夫?」
子供に微笑みかけると、強ばっていた子供の顔が綻んだ。ナンナは馬から滑り降り、母親と思しき女に話しかけた。
「こんな道では大変ですね…。どちらまで行かれるのですか?」
「グルティアまではもう少しだと無理して登って来てしまいました。下の方はあまり雨もひどくありませんでしたので…実家の父が病気だと聞いたものですから」
「そうだったのですか…よかったら馬に乗って行きませんか?」
「本当ですか!?厚かましいですが子供だけでも乗せていただければ…」
 頭を何度も下げて感謝する女を制しながら、ナンナはフィンの許可を受けていなかったことに気付き、気まずそうに振り返った。
「あ…」
 フィンの瞳に一瞬浮かんだ慈愛に満ちた光。それはすぐに消え去ってしまったが、ナンナは言葉を失った。
「ナンナ様はその子と一緒に。あなたはこちらに」
フィンはナンナを後目に女が馬に乗るのを手伝った。ナンナは、そんな姿にすら嫉妬を覚えることに腹立たしく思ったが、子供の不思議そうな顔が視線に入り、慌てて子供を愛馬に乗せ、自分も飛び乗った。

 フィンは母親を馬に乗せ、自らは手綱を引いて歩いていたため、少し時間はかかったが、ようやくグルティア領内に差しかかろうとしていた。道の状態も改善し、もう少しで緩やかな下り坂になる。ナンナが緊張を解いた―その時であった。
 びゅん。
 一陣の風がナンナの目の前を通り抜け、大きな金属音が耳を劈く。そして一拍置いた後に子供の泣き声。
「えーん。こわいよお…」
訳がわからず咄嗟に子供の頭を撫でながら、ナンナは音のした方を向いて愕然とした。手槍が山道に転がっていたのだ。
「え…」
「ナンナ様!」
 狼狽するばかりのナンナに大きな影が覆い被さる。いつの間にか馬に乗ったフィンがナンナの前に飛び出し、次の風を受け止めた。
「ナンナ様!は…早くお逃げ下さい!」
「でも…」
 やっと状況を理解したナンナは久しぶりに大地の剣を抜こうとした。
「この人達を巻き添えにする気ですか?…早く…行け!ナンナ!!」
「は…はい!」
有無を言わさぬフィンの背中にナンナは馬を走らせ、少し離れた場所で怯えていた母親を拾うと山道を駆け降りた。一度だけ振り向いた時に見た光景が夢であるようにと祈りながら。

 ナンナは麓の村の近くの森に辿り着くと、親子を馬から降ろした。
「ここまで来ればもう大丈夫なはずです。お気をつけて…」
「おねえちゃん、もどるの?」
心配そうな表情の子供の問いかけに、ナンナは必死で笑顔を作りながら答える。
「ええ…あの方はとても強いから心配していないわ」
「あの…」
 それまでずっと震えていた母親が躊躇いがちに話しかけてきた。
「はい?」
「あ…あの…」
なかなか言葉が出て来ない母親に内心苛立ちながら、
「私、もう行きますね」
とナンナは手綱を引こうとした。
「…申し訳ありません!私は…何という恐ろしいことを!」
 堰を切ったように泣き出した母親が途切れ途切れに語った言葉にナンナは目の前が真っ暗になった。

(お願い…持ち堪えていて…)
 祈るような気持ちでナンナは来た道を全速力で引き返していた。
「ごめんね…もう少しだけ我慢してね」
馬を労うように首を撫でながら、頭の中では母親から聞いた言葉が反芻し、目に焼き付いてしまったあの光景がナンナの心を締め付ける。
 フィンを覆う幾重もの黒い影、彼に向かって投げ付けられる何本もの槍―竜騎士崩れの盗賊だと思っていたが、それがフィンを狙う刺客だったとは…。歴戦の勇者であるフィンとナンナには正攻法では敵わないため、あの母親に金を渡し、ぬかるんだ峠に降ろしたのだ。ナンナが必ず親子に救いの手を差し伸べるのを見越して緊張が途切れる辺りで待ち伏せ、攻撃した。唯一の救いといえば、母親は本当に病気の父親を見舞いにグルティアに向かっていて、利用されただけだということ…。本当なら親子も一緒に殺されていただろう。
(せめて、もう少し私が反応できていれば…)
 ナンナは三年あまりの平和にすっかり慣れ、危機感が錆び付いていたことを呪った。腕には自信がある。それが油断につながり、一番大切な人を危険な目に遭わせてしまった。唇を噛み締め、泣き出しそうになる自分を抑え、必死に前だけを見る。
(どうか…無事で…)

「やめて!!」
 やっとのことでフィンの許に戻ったナンナは疲れ切っている馬から飛び降り、大地の剣を鞘から抜いて絶叫した。取り逃がした獲物がのこのこと舞い戻ってきたことを嘲笑いながら敵は一気にナンナに襲いかかった。もう一人の獲物はいつでもとどめをさせる状態なのに一向に仕留められない―その苛立ちの矛先がナンナに向いたのだ。
「ナンナ様…何故戻って来られたのです!?」
(ああ…まだ大丈夫…)
その声に怒りが滲んでいることにナンナは少し安堵した。
「あの人達とは安全な場所で別れました!…一緒に行って下さるのではないのですか?」
 そう答えるとナンナはブランクをものともせず、竜騎士達に斬りつけた。その気迫に押されるかのように敵は後退する。が、後ろには切れかかっていた意識の糸を手繰り寄せたフィンの勇者の槍が待ち受けていた。槍の一振りで二、三人が竜から落とされる。それにとどめを差しながらナンナはフィンの側に駆け寄った。近くで見ると傷の状態は想像以上に深刻だった。しかし、回復の杖に持ち変える余裕はない。
「敵も焦っています…今は持ち堪えることだけをお考え下さい」
 ナンナの焦りを見透かすようにフィンは声をかけた。すると嘘のようにナンナの心は落ち着いていった。必死で攻撃を躱しつつ、隙を見て攻撃に転じる。果てしなく続くかと思われた槍の雨は少しずつ弱まっていった。
 残る竜騎士は五、六人。自分達の不利を悟った敵は竜の翼を羽ばたかせ、飛び去ろうとした。遮るように一際大きな竜が飛び込んできた。
「アリオーン様…」
その言葉はナンナだけのものではなかった。
 その竜を見た敵はかなり動揺していた。その隙に竜騎士達に周囲を取り囲まれ、進退窮まった。後がないと悟った敵の一人がアリオーンに向かって抗議の声を上げた。
「この者はトラバント様の仇ではありませんか!…何故北の人間に諂うのですか!?」

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