「これからミーズに向かいます」
 フィアナ村を出たフィンはそれだけ言うと後は口を開くことはなかった。ナンナも気まずさに耐えながら、馬を並べていた。そして時折フィンの表情を窺う。全く感情の読めない表情。ナンナの頭の中は様々な思いが渦巻き、なかなか考えがまとまらない。
(…どうしたらいいの?)
 最愛の人が側にいるというのに、ナンナの心は重かった。フィンとエーヴェルの関係を知ったことも一因ではある。しかし、エーヴェルの気持ちは何となく理解できても、フィンの気持ちが全くわからない。その方が大きな要因であることにやっと気が付いた。エーヴェルを愛していたのかどうか、ラケシスのことは?そしてナンナにどんな感情を抱いているのか。父親であった頃には疑う余地のなかったフィンのナンナへの愛情。父親の役目から解放された後の態度…。その落差に戸惑いながらもナンナの想いは変わらなかった。
(本当のあなたを知りたい…。今が本当の姿かも知れない。でも、昔のあなたがまやかしだとも思えない。…それに最初から辛い恋だったのよ。今さら何を怯えているの)
 再びフィンを見つめたナンナの瞳に最早暗い影はなかった。
(今は…今だけはあなたを見つめていたい…)

 ミーズに到着したナンナとフィンは城主カリオンの出迎えを受けた。
「ナンナ様、フィン殿、お久しぶりです。ようこそいらっしゃいました」
「カリオンも元気そうですね」
「おかげさまで…ちょうどいい時に来られました。今日はエダが定期連絡でこちらに来ているのですよ」
「えっ!エダが?」
「ナンナ様!」
 エダが姿を見せるとナンナは顔を綻ばせた。
「エダ!久しぶり!」
「お久しぶりです。さあ、奥でゆっくりお話ししましょう」
そう言うと、エダはナンナを引っ張って奥の部屋へ連れて行った。それを見送ったフィンがカリオンに話しかけた。
「ナンナ様はアルテナ様にお会いしたいとのことだが、南の状況は?」
 フィンの言葉の意味を理解したカリオンは渋い表情で答えた。
「…全く安全とは言い切れません。どんな世界にも反体制派というのは存在するのですね。リーフ様のご治世がいくら公明正大であっても」
「北でも自分の思うようにならぬからと言って逆恨みしている者もいるようだ。…それはどこでも同じだな」
「…そうですね。念のために護衛を付けましょうか?」
「それなら私は外れた方がいいか…」
「ですが、ナンナ様はフィン様とは別の意味で…」
 フィンは苦渋に満ちた表情を浮かべた。ふとこのまま引き返した方がいいのではないかとの思いが頭を過るが、帰国してアルテナに挨拶もしないということになれば、また新たな問題になりかねない。せっかくまとまりつつある国にいらぬ波風を立たせたくはなかった。何より、けりをつけてしまいたいという思いが強い。ナンナを巻き込んでしまってもいいのか。それだけが気がかりであったが、ナンナの希望は最大限叶えるようにとの命を受けている。フィンは自分に言い聞かせるように呟いた。
「…そうか…そうだな…。やはり同行しよう。私もご挨拶せねばならない。護衛は遠慮した方がいいだろう。目立たぬ方が行動しやすいからな」
 カリオンもフィンの考えに同意した。ナンナのトラキア訪問自体が公になっていない以上、仰々しいことはかえって逆効果となるだろう。
「お二人の腕なら余程のことがない限り問題ないと思います。エダを通じてトラキアとは定期的に連絡を取れるように手配しておきます」
「助かる」

 その夜、ナンナはカリオンやエダと談笑しながらも、心はそこにはなかった。食事を済ませると早々に部屋に引きこもったフィンのことがどうしても気になる。時々笑顔が曇るナンナに、カリオンが声をかけた。
「ナンナ様、フィン殿のことがご心配なら様子を見て参りましょうか?」
「いいえ…あの方もせっかく旅からお帰りになったというのに、私のせいで…。きっとお疲れなのでしょう」
「そうかもしれませんね」
「お飲物のお代わりは?」
「ありがとう…エダ。少し風に当たってくるから後でいただくわ」
心配そうな二人の視線を背に受けながら、ナンナはテラスに出た。
 思っていた以上に冷たい夜風に身を震わせ、苦笑しつつナンナは夜空を見上げた。満天の星はトラキアの冷涼で清冽な空気のおかげで一層光を増している。
「最初にここに来た時は親子だったのに…いいえ…あの時には…もう…」
そう呟くとテラスから身を乗り出してマンスターの方を眺めた。遠くに微かな光の瞬きが見える。
『お前にもしものことがあればあの方に何と言って詫びればいいのか…』
 囚われている間ひたすら父を待ち焦がれていたのに、彼の口から出たのは母のこと…実の親子であっても、そうでなければなおさら当然のことだ。ナンナはその物言いが少し気にかかっただけで、それ以上に心が寒くなるのに愕然とした。
(母にも嫉妬している…)
 元々父は自分からは母の話をしたことがなかった。ナンナがねだってやっと、
「美しく凛として人を惹き付ける魅力を持った方だ…」
とだけ口にする。ずっと物足りないと思っていたが、両親を失ったリーフを気遣うようになっていつしか母の話はしなくなっていた。しかし、レンスターに身を寄せていた時期もあってラケシスの逸話は幾つか残っている。それは父の言葉よりも雄弁に母の姿を浮かび上がらせる。ずっとその姿を引きずって生きてきたが、幼い時には誇りであったものが成長するにつれて重荷にしかならなかった。
 彼が母のことを口にしないことでどれだけ救われていたか―アグストリアに戻った今、やっと自覚した。それが彼を愛する理由なのかどうかはわからないが。もしそうなのだとしたら、彼にはかなり迷惑な理由となるだろう。母のことを話せと言われても彼にはその引き出しがなかっただけなのだから。
(…本当にそうなのかしら…)
 引き出しがないだけなのか、それとも固く閉ざしているのか…。
「ナンナ様」
 声と共に背後から毛布を掛けられた。ナンナは慌てて笑顔を作って振り返る。
「エダ…」
「なかなか戻っていらっしゃらないから…。すっかりお身体が冷えてしまって…早く中に入りましょう」
 手すりに置いていた手がいつの間にかかじかんでしまっていたことに気付き、ナンナは息を吹きかけながら、
(この指のように…)
と願わずにはいられなかった。

 『荒涼』という印象しかなかったトラキアは様変わりしていた。各地で開拓が始まり、少しずつではあるが、豊かな大地へと変貌を遂げつつあった。『融和』を肌で感じながら、自分自身はそれとはあまりにもかけ離れていることにナンナは胸を痛め、旅を続けていた。旅の道連れは必要なことしか話さず、ナンナのことを見ようともしない。護衛という任務だけが存在理由だと言わんがばかりの態度。時折エダが顔を見せることにほっとする自分が間違いなくいる。と同時に湧き出す、彼を独占しているという喜びを持て余していた。
(ずっと側にいられるのなら…このままでも構わない。でも、あの人の気持ちを無視してるわ。それに…これ以上は耐えられないかもしれない)
 この状況を変えるには自らが動くしかないとわかっているのに、結果が恐ろしくて身動きが取れないまま、時間だけが過ぎてゆく。これでは千載一遇のチャンスを与えてくれたリーフにも申し訳が立たない。
『本当はどうしたいの?』
 答えはトラキアにあると…一縷の望みを賭けて旅を続けていた。しかし、目的地トラキア城への道は断たれることとなった。

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