フィンの言葉を遮るように、エーヴェルは言葉を挟んだ。
「私はちょっと過去に戻ろうと思っているの」
「…まさか!?」
驚愕の表情を浮かべるフィンに、エーヴェルは無言で頷いた。
「あなたとは逆ね。実はあなたが旅立ったすぐ後くらいから記憶が戻り始めて…。でもエーヴェルとしてちゃんとあなたにお別れが言いたかった。あなたは旅立つ前に私に会いに来てくれたもの。完全に記憶が戻った時、エーヴェルだったことを忘れてしまうかもしれない…。だからあなたが帰ってくるまでは身体を明け渡す訳にはいかなかった。三年間、ずっとせめぎ合いだったわ。でも消えてしまうかもしれないって覚悟をするには十分な時間だった…。本当はあなたの誠意を勘違いしたかった。あなたの誠意に甘えていたかった…」
そこまで一気に言うとエーヴェルはフィンの胸に顔を埋めた。フィンは彼女の肩をそっと抱いた。
「…そうか…よかったというべきだろうな」
「愛なんていらないって言ったけど、あなたは私に誠意をくれた。あなたの誠意に包まれてると…本当に居心地がよくて、ずっとしがみついていたいと思うわ…。でも、私はもう一人の私と彼女が愛した人や子供達に全然誠意を見せてないって思い知らされる…」
エーヴェルは身体を起こしてフィンを真直ぐに見つめた。
「…だから、私はもう一人の私と折り合いをつけてみようと思ったの」
「エーヴェル…」
「それに…さっきは身体を明け渡してないって言ったけど、本当はもう私の身体ではないわ…」
「………。エーヴェルには本当に感謝している。私の命を救ってくれた上に、リーフ様やナンナ様の母親代わりとして私の至らぬところを補ってくれた。お二人が心健やかに成長されたのはエーヴェル…あなたのおかげだ」
「それはこちらも同じ。マリータにとってあなたは理想の父親でした。家族ごっこかもしれないけど、私はとても幸せだったわ…。ありがとう、フィン」
エーヴェルは笑顔でそう言うと、再びグラスを手に取り、言葉を継いだ。
「今度会う時にはエーヴェルの欠片もないかもしれない。でも…それでもあなたの戦友であることには変わりがないわよね?」
「ああ」
フィンは頷き、グラスを取った。
「さよなら…エーヴェル…」
「さよなら…フィン…。それでは…私達の友情に…乾杯」
 グラスの乾いた音が静まり返った広場に響き渡る。その澄んだ音がナンナを我に返らせた。
「あ…私…」
悔恨の情に胸が潰れそうになりながらも、ナンナは音をたてぬよう、そっとその場を離れた。

 ナンナは一目散にエーヴェルの家に戻り、ベッドに潜り込んだ。毛布を頭まですっぽりかぶり、きつく目を閉じた。しかし、いくら目を閉じても耳を塞いでも、広場で見た光景が、会話が頭から離れない。
(エーヴェルは本当に愛しているんだわ…)
 二人の関係を初めて知ったナンナは衝撃を受けていた。ナンナが子供だったこともあるが、二人は全くそんな素振りを見せなかったからだ。エーヴェルはナンナにとって最も尊敬できる女性である。本当の母となってほしいと一時は真剣に考えていた。鈍い胸の痛みと共に。それは実の母ラケシスに対する引け目だと思っていた。しかし、違うことに間もなく気付いた。父を…奪われたくない…それは娘としての感情ではないということが。
 以来、ナンナは許されぬ想いを抱き続けてきた。後に許されぬ訳でもないとわかっても、歓喜は一瞬のうちに吹き飛んだ。それでも手放すことのできない想い…。だからこそエーヴェルとフィンの関係に気付かなかった…気付こうとしなかったのかもしれない。
(もしかしたら…エーヴェルは…私の気持ちを知っていたのかしら…)
 ナンナはハッとした。思い当たる節が幾つもあった。昔もそして今現在も。ナンナの目に涙が浮かんだ。
(全然…敵わないじゃない…)
そのまま枕に顔を埋め、声を上げずに泣いた。

 マリータはその様子を辛そうに見つめていた。
(ナンナ様…。とうとう知ってしまわれたのね…)
 初めてマリータがエーヴェルとフィンの関係を知ったのは三年前のことだった。ナンナの気持ちを既に知っていたので、手放しで喜ぶ訳にはいかなかったが、それでも嬉しかった。自分に厳しい養母がやっと幸せを得る…それも父親だったらと望み続けた人と。しかし、二人は何も変わることはなかった。フィンはそのまま旅に出て音沙汰はなく、エーヴェルも平然と日々の生活を送っていた。
 マリータは物足りない思いとナンナへの気兼ねを持て余した。思い立って、剣の修行の途中でノディオンに立ち寄ったマリータは、ナンナのフィンへの想いが冷めるどころか、思い詰めるという状況になっていることに衝撃を受けた。
(おじさまには、はっきりしていただかないと…どうにもならないわ)
 それがナンナを悲しませることになっても。今のままではナンナは自分の殻に閉じ籠るだけだ。でも自分にはどうすることもできない…。無力感に打ちひしがれながら、マリータは母と親友―二人の大切な存在の幸福だけを願っていた。

 翌朝、旅支度を整えたナンナは、見送りの村人達と笑顔で歓談していた。
(ナンナ様…このまま送り出して大丈夫かしら?)
ナンナがそういう笑顔を浮かべる時は辛い時だと知っているマリータは心配そうに見つめていた。そして、ナンナの同行者に視線を向けると、彼と視線が合った。フィンの視線の先にあったものを見て少し安堵したものの、その眼差しの奥の感情が見えず、不安になる。
「おじさま…」
 穏やかな微笑を浮かべ近付いてきたフィンに、マリータは声をかけた。
「マリータ、ナンナ様が世話になったな。それから…エーヴェルのことよろしく頼む…」
「…え?」
今まで聞いたことのない台詞にマリータはいいようのない不安を覚えた。確かめるのが何故か恐くて言葉が出ない。そんなマリータを後目にフィンはナンナの許へ移動し、膝をついた。
「ナンナ様、ご用意がお済みでしたらそろそろ出発いたしたいのですが」
「…わかりました。準備はできています」
 ナンナは瞳を一瞬曇らせたが、すぐに笑顔を引き戻した。
「皆さん、お元気で。またお会いしましょう」
「ナンナ様。お元気で!」
 村人達は口々に餞の言葉を送った。エーヴェルは頃合を見計らい、ナンナの前に進み出て、手を取って話しかける。
「ナンナ様、お気を付けて。いつでもいらして下さいね。…お待ちしておりますから」
手をぎゅっと握り締められ、ナンナは反射的にエーヴェルの顔を見た。笑顔だが、その瞳には強い決意と寂しさが見て取れた。
「エーヴェル…」
 エーヴェルは慈愛に満ちた目でナンナを見つめた後、フィンにも声をかけた。
「…フィン。ナンナ様のことよろしくお願いします。…あなたもお元気で」
「ああ。…エーヴェルも」
フィンは刹那エーヴェルの目を見た。ほんの一瞬のことだったが、絡み合った視線が言葉は不要だといっているようで、ナンナは胸を締め付けられるような思いがした。
「ナンナ様。参りましょうか」
「…はい」
 ナンナは逃げてしまいたいという衝動を必死で押さえながら、馬に跨がった。

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