エーヴェルの家でお茶を飲みながら会話を交わす三人を眺めつつ、ナンナは物思いに耽っていた。
(ここにリーフ様がいれば昔に帰ったようだわ。あの頃に戻れたら…戻りたい?)
「そう…ナンナ様をお迎えに来たのね」
エーヴェルの瞳に刹那影が差したのも、それを受けたフィンの返答に一瞬の間が空いたこともナンナには見えなかった。
「…そうだ。ナンナ様が訪ねたいところがあれば寄っても構わないとの仰せでした。ナンナ様、どこかお寄りになりたい場所がございますか?」
向けられた顔でやっと自分に話しかけているのだと気付き、慌てて返答する。
「寄りたいところはたくさんありますが、トラキアのアルテナ様にお会いしたいです…」
「トラキアですか…」
 フィンは困惑した表情を浮かべる。それにつられて表情が翳ったナンナを見て、エーヴェルが助け舟を出した。
「トラキアの状況はもうすっかり落ち着いて来ているわ。お連れしても大丈夫なのでは」
「それはわかっているが…」
一瞬苦渋の表情を見せ、しばらくナンナの顔を見ていたが、諦めたように頷いた。
「それではトラキア経由でレンスターに向かうことにいたしましょう。出発はいつになさいますか?到着はいつでも構わないとリーフ様はおっしゃっていましたが」
「でしたら明日にでも。もしこちらにご用事があるのならもう少し伸ばしても構いません」
「………。そうですか。では明日ということで」
 その返事はナンナに向けられたものではないと、その時はわからなかった。

 その夜は紫竜山からダグダ達も招き宴会が始まった。延々と酒盛りを繰り広げる男達を後目に、ナンナ達はエーヴェルの家に戻っていた。再びトランクに荷物を詰めるナンナにマリータが声をかけた。
「ナンナ様…もう少しこちらにいて下さると思っていたのに…」
「マリータ…ありがとう。でもこれ以上ここにいるとノディオンに戻れなくなりそうな気がするの…」
「ナンナ様…」
 マリータはしばらく無言でナンナの荷造りを眺めていた。相変わらず質素な持ち物に苦笑が浮かぶ。そしてノディオン城のナンナの部屋を思い出していた。青で統一された部屋―落ち着いた色ではあったが、落ち込めば立ち直れないであろう色。ナンナはその色をこよなく愛していた。しかしその色の衣装を纏うことは聖戦と呼ばれた戦争の後は全くなかった。
(あの部屋はきっと…あの方の代わり…。だけど…私は…)
 親友としてナンナの想いの深さをよく知り、ナンナの幸せを望んではいるが、複雑な心境だった。
「マリータ」
「…あ…もう準備は終わったのですね」
「ええ…明日は早いからもう寝ようと思っているんだけど…」
「そうですね。私も寝ます」
 マリータは結局ナンナにかける言葉を見つけられず、二人は床に就いた。

 早く寝ると言っていたものの、ナンナは不安からかなかなか寝つけなかった。会えた喜びはいつの間にか萎んでしまっていた。ようやく再会でき、共に旅をすることになったというのに、いざ二人っきりになればどうしたらいいのかわからない。トラキアへ来る途中の馬車の中でリーフに問われたことが今再びナンナに迫っている。
(会ってみたら何とかなると思ってたけど…。本当に私はどうしたいのかしら)
 思いを遂げたいのか、再び親子となりたいのか。…それとも完全に忘れたいのか…それはない。再会した時に発した『お父様…』という言葉、それがナンナの思いを表わしていた。どんな繋がりでもいい、彼との絆が欲しいのだ。血は繋がらぬとはいえ、親子であった―それだけが現在のナンナとフィンの繋がりである。その唯一の絆をナンナは失いたくなかった。想いを告げることはその絆すら断ち切ることになる。それがナンナを躊躇わせていた。
(ずっとお父様でいてくれたら、私は諦めていたのかもしれない…)
 父とは血が繋がらぬことを生き別れていた兄デルムッドから知らされた時、にわかには信じられなかった。兄とは父が違うと期待さえしていた。しかし、その後の父の言葉にナンナは絶望した。
「ナンナ様、今までの無礼の数々、心よりお詫びいたします」
 ナンナがいくら今まで同様娘として扱ってほしいと頼んでも、彼は決して頷かなかった。それならば…娘ではないならば、心に秘めた想いを告げてもよいのかと希望が湧いたが、それは呆気無く萎んだ。フィンにとってナンナは他国の王族でしかなくなったからだ。リーフを通じてしか自分と関わらなくなった彼にナンナは打ちのめされた。
 強固な繋がりが欲しくて、リーフと結婚してもよいとさえ思ったこともあった。リーフもナンナの気持ちを承知の上でプロポーズしてくれた。しかし、リーフに真剣に愛する存在が現れたことでその話は立ち消えになった。『主君の妻』という繋がりがいくら強固であっても…強固だからこそ、ナンナが求めている関係から最も遠いことを自覚していたこともある。

 ようやくうつらうつらしかかっていた頃、ナンナは物音で目が覚めた。隣のベッドで寝ているマリータを起こさぬようそっと部屋を抜け出すと、エーヴェルが外出しようとしていた。ナンナは躊躇うことなく後を追った。エーヴェルの向かった先はナンナの予想通り、宴会が行われていた広場だった。そしてそこには予想通り彼がいた。ナンナは広場の隅にある大木に身を隠した。
 広場には後片付けをしている彼以外の姿はなかった。エーヴェルは苦笑しながら彼に声をかけた。
「フィン…やっぱりこうなるのね。明日皆で片付けるからもういいわよ。お酒が強いのも良し悪しだわね」
「そうだな。皆を送ったりする羽目になるからな」
「ふふふ…どっちがお客さんかわからないわね。…まだ飲める?」
「そう言うと思って一本取ってある」
 フィンは穏やかに微笑み、酒瓶を足許から取り出した。イザーク産の高級酒である。
「こんな上等なお酒いいの?」
と言いながらエーヴェルはにこやかにフィンの隣に腰かけた。フィンは封を開け、グラスに注ぎ入れた。そして二人はグラスを軽く持ち上げ、一気に飲み干した。
「ふう…やっぱり美味しいわね」
「酒の味はあまりわからないが、これだけは旨いと思う」
 エーヴェルは声をたてて笑いながら、空いたグラスに酒を注ぐ。
「フィンもお酒が美味しいと思うようになったのね。…もう三年も経つのね…」
「…エーヴェル?」
 表情の曇ったエーヴェルをフィンは怪訝な顔で見つめた。エーヴェルは慌てて微笑んだ。
「…いいえ。何でもないわ。それよりフィン、旅はどうだったの?」
「各地の復興は順調で…いや、そういうことを聞きたいのではないか…。割り切れないことはいろいろあるが、過去のことだと思えるようになった。…全然割り切れてないな」
とフィンは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「それは仕方がないわ。でも少しは未来を見てみようって気になったんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、これからのこと考えてみた?」
「これからもリーフ様にお仕えしていくつもりだが…もし…」

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