ナンナは馬車に乗り込むなり、それまで被っていた笑顔の仮面を外し、大きな溜息を吐いた。リーフは微笑みながら労いの言葉をかけた。
「お疲れさま。カーテン閉めようか?」
「私がトラキアに行くなんて急に決まったことですから、多分大丈夫ですわ。もう少し外を見ていたいのです」
ナンナは馬車の窓から今朝見た丘の方を眺めた。
(本当は逆行するより追いかけたかった…)

 デルムッドは馬車が視界から消えてからもその場を離れようとはしなかった。それを見ていたアレスは見送りに出ていた他の者達を先に城内へ戻した。
「おい、デルムッド!」
大声と肩を揺すられたことで初めてデルムッドは自分が呼ばれているのに気付いた。
「…あ…アレス様…」
「あ…じゃないだろう。納得したんじゃないのか?」
 デルムッドは俯いた。
「わかっています。…ですが…」
「心配なのはわかるが、リーフがそんなに信用できないのか?」
「…初めてお目にかかった時からリーフ様には嫌われていたようです」
「そんなの当たり前だろうが!」
「え?」
「ナンナに身の上のことを無神経に話したんだろ」
「…ナンナがフィン殿のことを実の父親と思っていたとは知らなかったのです」
「それはまあいいとして、リーフが怒るのは理解できるんだろう」
「…そうですね…お怒りは当然のことかもしれません」
「お前に対する感情はともかく、リーフがナンナを傷つけるとは思わんが」
「…ですが…それをナンナが望んでいたら…」
 アレスは呆れてしばらく言葉が出なかった。一見仲睦まじく見えるこの兄妹の関係を初めて理解できた。そして二人の性格がよく似ていることも。
「ふん…それならそれでいいだろうが」
「そういう訳にはいきません!」
デルムッドは珍しく主人に向かって気色ばんだ。アレスは面白そうに口元を緩めた。
「何故だ?リーフならナンナに十分釣り合うだろう?あいつじゃあ不満なのか?」
「既に王妃がいらっしゃいます!…そんなのナンナが不憫ではありませんか…確かにリーフ様は…」
 リーフを認めるのが嫌なのかデルムッドは口籠った。アレスはからかうのを止め、真面目な口調で話し出した。
「…もし俺が剣を捧げるのならセリスじゃなくリーフだ」
思いもよらない話の展開にデルムッドは戸惑った。しかしアレスは無視して続ける。
「あいつの懐の深さはセリスにも太刀打ちできん。俺なんかとんでもないな。一番手間取ると思われてたトラキアとの融合をほぼ完成させ、ティニーと結婚までしたんだからな」
「それが何の関係が?」
「…フリージ家の当主、それもヴェルトマーの血を引いてる人間とレンスターの王子が結婚するなんて本人達が望んでも周りが認めるはずないだろうが。フリージ家は北トラキアを蹂躙し、アルヴィスはロプトへの生け贄にした。子供狩りが最も酷かったのはどこだ?」
「あ…」
「それもティニーはフリージ公爵の地位のまま結婚を許されている―これ以上は言わなくてもわかるな?…セリスも俺と同じ意見だってことだ」
「………」
「あのなあ…。俺が言いたいのはリーフをナンナの相手として認めろって言ってるんじゃなくて、ナンナのことはあいつに任せておけば何とかしてくれるだろうってことだ。…気に入らなくてもナンナの側にいたのはあいつの方が長いんだから」
 デルムッドは無言で再び馬車の消えた方向を見た。リーフが側にいる時は妹は心なしか安心しているように見える。馬車に乗り込んだ時、ナンナがほっとした表情を浮かべたのをデルムッドは見てしまったのだ。自分には決して見せないその表情が頭から離れない。自分もナンナを追い詰めた一人に過ぎない―ナンナにとって心許せる存在となれなかったことを改めて思い知らされた。
(…ナンナを信じるって決めたんだ。リーフ様にお任せするしかない)
それでも妹が帰ってこないのではないかという不安は消えることはなかった。

 ノディオン城が見えなくなった頃、ナンナは馬車のカーテンを引いた。そして悪戯っぽく笑った。
「ふふふ…後でこの馬車に私がいるってわかれば、皆いろいろ言うんでしょうね」
「ナンナ、楽しみにしてない?」
「だって何をしても言われてしまうんですもの」
「そうだね。だったら好きなことして言われる方がいいよね」
「でも…リーフ様には本当にご迷惑をかけてしまって」
「気にしないでって言ったろ。アレスとリーンにとばっちりがいくよりましだって」
「やっぱりそうなるのかしら…」
「心当たりがないとは言わせないよ」
「…リーフ様の意地悪…」
リーフとナンナは顔を見合わせて微笑んだ。
 ナンナの母ラケシスは兄であるエルトシャンと非常に仲が良かったらしく、実は愛し合っていたという噂が実しやかに流れていた。それが真実なのかどうか、答えられる人物は最早存在しない。父がないがしろにされているような気がして、その噂はたまらなく嫌だった。しかし、父とは血が繋がっていないと知った時、何故か安堵感を覚えた。だが、その思いは一瞬のうちに奈落に突き落とされ、もうどうでもよくなった時にアレスと出会った。アレスは伯父に生き写しらしく、母の気持ちが何となくわかったような気がした。彼も噂を知っていたようでラケシスの生き写しだというナンナに興味はあったらしい。何かにつけて行動を共にするようになった二人を周囲はエルトシャンとラケシスの再来かと囁き出した。結局二人は結ばれることはなかったが、ナンナがアグストリアに来たことでナンナとアレスの関係は常に取り沙汰されるようになった。アレスがリーンと結婚した現在では流石に下火となったが、それでも数多の求婚者がいるにも拘わらず、結婚しないナンナには好奇の視線がついて回っていた。
「でも…。だからってリーフ様やティニーにとばっちりが…」
「その方が安心だって言ったら怒るかな?」
 リーフは刹那真剣な表情を浮かべたが、巧みに悪戯っぽい表情に摺り替えた。
「僕もナンナのこと好きだったんだから…」
「リーフ様…」
「ナンナしか見てない時期もあった。だからナンナが誰を見てたか一番知ってる」
「…私には最後までわかりませんでした。あの人が何を見ていたのか…」
「最後?まだ見続けてるんだろ?」
「見えもしないのに…でも他には何も見えないの…いいえ、他のものは見たくない…」
 自嘲的な笑みを浮かべるナンナに気付かない振りをしてリーフは続けた。
「ナンナ…。本当はどうしたいわけ?」
「…正直言うとそれもわからないのです。会いたくてたまらないのに会うのが怖い…」
ナンナは手で顔を覆ってしまった。リーフは軽く溜息を吐いた。
「僕に対する言葉遣いが直らないのもそういうこと?」
「………」
「どっちにしろ、会わなきゃ何も始まらないし…」
(終わらない…)
顔を上げたナンナにはもう怯えた表情はなかった。
(怖いけど…会わなきゃ…)

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