自室に戻ったナンナはうきうきと出発の準備を始めた。クローゼットの中のドレスの数々をベッドに広げ、どれを持って行こうかと思案している。しばらく笑顔で考えていたが、やがて笑顔に影が落ちた。
(何を着てもあの人には関係ないわ…)
 ふとリーフとティニーの結婚式での光景がナンナの頭に浮かぶ。リーフの妹分であるためあまり華美に走ることはなかったが、それでも精一杯ドレスアップした。皆が口々に褒め称えるが、ナンナの耳には空虚に響く。一番見て欲しかった人は一瞬遠い目をして、頭を下げると背を向けて行ってしまった。
 自嘲的な笑みを浮かべながら、ナンナはドレスをクローゼットに押し込むと、ベットの下から古ぼけた小さなトランクを引っ張り出してきた。ノディオンに来てから一度も開けていない、自分付きのメイドにさえ触らせていない物である。ナンナは大きく息を吐いてからそのトランクを開いた。
「トラキアのにおいがする…」
 そして、中身を感慨深そうに確認していく。ナンナにとっては全てが大切な思い出の品である。当時は何度も生命の危機に襲われ、辛い思いをしたことの方が多かった。しかし今では最も幸せな時期だったと思わざるを得ない。思い出に引きずり込まれそうになるのをナンナは必死でこらえた。
「…向こうに行けばいくらでも思い出に浸れるというのに。本当に馬鹿ね。えっと、これだけあればあとは着替えと…」
 ナンナは自分で旅に必要なものを用意し、トランクに詰めた。そこへナンナ付きのメイドが部屋に入ってきた。
「ナンナ様、出発の準備をいたしましょうか?」
「もうすみました」
そう言ってナンナが指差したものを見たメイドは絶句した。妙齢の身分の高い女性の携行品にしては少なすぎる。
「それだけでございますか?」
 信じられないといった表情でナンナを見る。ナンナは笑顔で返答した。
「ええ。これだけです。公式に訪問する訳ではないのだからドレスも要りません」
凛とした表情のナンナにメイドは返す言葉を失った。

 翌朝、期待と不安で早く目覚めたナンナは自室の窓から外を眺めていた。明け始めた空に浮かぶ様々な色の雲を見ながら、自分の心のようだと遠くの丘へと視線を移す。その丘を見る度、ナンナの脳裏には馬に乗って去って行く人物の後ろ姿が浮かび上がる。あらゆる言葉を拒絶する背中。ナンナも口に出かけていた言葉を飲み込まざるを得なかった。いつものように涙が込み上げてくる。
「ナンナ、もう起きているかい?」
その声に慌てて涙を拭った。涙を見せたくない相手だったからだ。鏡を見て少し目が赤いだけなのを確認してから、扉を開けた。
「おはようございます。お兄様。何かご用ですか?」
「いや…」
 なかなか用件を言い出せないデルムッドに、ナンナは微笑を浮かべて部屋の中へ誘った。昨日はあれから一言も話していない。結婚早々辛そうな表情を浮かべてさせているのは義姉にも申し訳ない。そしてリーフとの約束でもあった。
『仲直りしないと連れて行かないよ。…前以上に仲良くなる必要はないけどね』
気乗りはしなかったが、自分でも亀裂をそのままにしておくことはしたくなかった。
 ナンナの部屋へ入ったデルムッドはその質素さに驚いた。前に一度入った時はデルムッドとナンナがノディオン城に正式に住むことになった頃で、ラケシスを知る使用人達がラケシスの好みに調度を整えていた。その好みは少し華美ではあったが、不快なものではなく、むしろ王女に相応しいものだった。それが今では何ということか。男の部屋といってもいいくらい―否、デルムッドの部屋より質素である。とはいっても、調度品の趣味はよく、決して貧相ではない。デルムッドは自分と妹の隔たりを改めて痛感した。呆然と部屋と見渡す兄を見たナンナは寂し気な微笑を浮かべ、
「この部屋、お気に召さないようですね」
「あ…いや…前に来た時とはあんまり違うから驚いただけだよ。前にあった家具はどうしたんだい?」
「私にはもったいないので、客間の方に移してもらいました」
「そうか…あの…昨日のことなんだけど…言い過ぎだった。すまない」
「謝るのは私にではなくてリーフ様の方にでしょう」
「それはそうなんだけど…」
「リーフ様にもちゃんと謝っていただけるのなら、もういいのです」
 にっこりと微笑むナンナにつられてデルムッドも笑顔を見せた。
「もちろんリーフ様には謝罪するよ。…でも…」
「私のこと心配して下さるのは本当に嬉しいの。でも、リーフ様は私にとっては家族も同然なんです」
「わかってるよ。リーフ様にも言われた。おっしゃる通りだ。だけど…その…」
「よくない噂が流れているのはわかっています。でも根も葉もないこと。リーフ様もそしてティニーも私のことを親身になって考えてくれてます。お兄様が考えてらっしゃるようなことはありえませんわ」
真剣な眼差しでじっと見つめられるとデルムッドはこれ以上言うことはできなかった。
「…もう何も言わないよ。気を付けて行っておいで。それから…ナンナが戻ってくるの楽しみに待ってるから」
「お兄様…。ありがとう」

 ナンナの部屋を出たデルムッドはその足でリーフの部屋へ向かった。時間を置くと素直に謝れなくなりそうだったからだ。とはいうものの、客人を起こすには早すぎる時間だった。扉の前でしばらく佇んでいたが、思い切って小さくノックした。返答がなければ出直そう。自分に逃げ道を作っていたはずなのに、期待は呆気無く外れた。
「どうぞ」
デルムッドはそのまま逃げてしまいたかったが、そんな子供染みた真似ができるはずもない。観念して扉を開けた。
「リーフ様、おはようございます。こんな早くにお邪魔して申し訳ありません」
「とっくに起きてたから構わないよ。で、用って何?」
「あの…」
 真剣に悩むデルムッドの表情を眺めていたリーフは大きな笑い声を上げた。
「ははは…もう、いいよ。ナンナと仲直りできたみたいだし、それでいいって」
「どうしてそれが…」
「君の顔見てたらわかるって。それにそうでもないと私のところになんか来ないだろ?」
「………」
「とりあえず、真面目な話…ナンナはちょっと疲れてる。理由はいろいろあるんだろうけど、その一つはここではラケシスでいなければいけないことなんだと思う」
「母上でいる…?」
 デルムッドはどきりとした。古い時代を知る者はすべてナンナをラケシスと生き写しと称えた。ナンナもその声に応えるかのように常に笑みを湛え、王女然とした振る舞いで周囲を魅了していた。求婚する男性も後を断たず、そして決して受けることはなかった。それがますますラケシスを彷佛とさせるようで、アグストリアの民から圧倒的な人気を得ていた。獅子王エルトシャンによく似たアレスと共に彼等がアグストリアの国民に受け入れられた要因の一つである。だからデルムッドはアレスとナンナに密かに嫉妬していた。羨ましいだけでそれが彼等の苦悩となっているとは思いもよらなかった。しかし、先程見たナンナの部屋。ラケシス色が一切排除されている。
(あの部屋だけがナンナの居場所なのか。俺はナンナのことを何一つわかってない…わかろうとしてなかったんだ)
 無言で俯くデルムッドを見てリーフは流石に気の毒そうな表情を浮かべた。
「別にそれが悪いことじゃないと思う。私も覚えてもいない父上の影をひたすら追った時期もある。未だに私に父を見る人は多いし…。だから民も何の力もない幼い私に希望を見てくれた。そのおかげで私は生き延びることができたし、トラキアの統一も果たすことができた。だけどナンナの場合、ちょっと重荷になってきているみたいだね。…理由はそれだけじゃないけど」
デルムッドは真剣に耳を傾けていたが、最後の言葉に頭を上げた。
「…他にもあるんですか?」
「それは誰も助けられないことだから秘密♪」
 リーフは悪戯っぽい笑みを浮かべ、立ち上がった。なおも聞きたそうな表情で見上げるデルムッドを残して部屋を出た。
「アレスと手合わせする約束してるんだ。朝食できたら呼んでくれる?」

←1  3→

別荘入口  ナンナの間  連絡先