空への架け橋

「レンスターに帰っておいで」
 レンスター…その言葉を聞くだけでナンナは泣きそうになる。そして後に続く暖かい言葉。しかし、それは望む相手が発したものではない。したがって、ナンナが頷くことはなかった。
「いいえ、リーフ様。私はレンスターを捨てたのです。ノディオンの再興のために。それに…今まで私を育んでくれた人々の恩を仇で返すようなことを言いました。帰れるはずがありません」
「だけどここにいて君は幸せなのか?」
「…どこにいても同じことです」
「そうかもしれない。でも…ここでじっとしていても何も始まらないじゃないか!」
思わず声が大きくなる。慌ててリーフは声を落とした。
「…もうすぐ帰って来る。だから…」
 ナンナは驚きのあまり目を見開いた。しばらく言葉が出てこない。
「…本当ですか?」
ナンナが詳しく話を聞こうと身を乗り出したが、妨害が入ってしまった。
「ナンナ、何をしている。もうすぐ式が始まるぞ。お前も準備してくれないと…」
 ナンナの兄のデルムッドだった。苦虫を噛んだような表情をしている。
「お兄様…ごめんなさい。すぐに準備して参ります。リーフ様、そのお話後ほどお願いできますか?」
リーフは笑顔で頷くと、ナンナはほっとした表情で駆け出していった。それを見送った後、デルムッドは渋い表情のままリーフに話しかけた。
「リーフ様。困ります。王妃がご一緒でないからといってこのようなことをされては」
 デルムッドの意図を察したリーフは、
「君なら私の気持ちをわかってもらえると思っていたが、残念だ。…君は今日からラクチェやラナとは話をしないということだな」
ときつい視線を向ける。デルムッドはぐっと言葉に詰まってしまった。リーフはそのまま言葉を続けた。
「君がナンナに話さないことがあるようにナンナにも君には話さないことがあってもおかしくないだろう?私も姉上に全てをお話しした訳ではないし、姉上もそうだ。私とナンナにしかわからないことだってたくさんある。面白くないのは理解できるが、それを妨害する権利は君にはないはずだ」
唇を噛んで俯くデルムッドを置いてリーフはその場を離れた。その前に止めを差すのを忘れずに。
「今日の主役なんだからもっと明るい顔した方がいいんじゃない?そんな顔してたら奥方になられる方も悲しまれることだろう」

 今日はアグストリア王国のノディオン公爵、デルムッドの結婚式が行われることになっていた。聖戦を戦い抜いた英雄という訳で、グランベル王を始め各国の王族が祝福のためにアグストリアに集結していた。リーフも本来はトラキア王妃兼フリージ公爵ティニーと共に来るべきなのだが、ティニーが出産間近のため、リーフ一人で来訪していたのだ。
 デルムッドの妻となるのはアグストリアの中流貴族の娘で、その父親は帝国の圧政の中でアグストリアの民を守り続けた人物だった。そのため国民からの信望も厚く、他国で育ったアレスとデルムッドを支えてくれる存在であった。二人の結婚は熱狂的に受け入れられた。国王アレスがリーンというブラギの血は引くものの踊り子と結婚したため、イザークで育ったデルムッドはせめてアグストリア出身の女性と…という世論を無視する訳にはいかなかったこともある。もちろん本人に好きな女性がいれば従兄でもある国王は強いることはなかったはずだ。周囲の思惑はあったものの、デルムッドとその相手の女性は地味ながら堅実に愛を育み、今日に至ったのだ。
 ナンナはもちろん兄の佳き日を心から祝福していた。しかし、仲睦まじい従兄夫婦や兄と婚約者を見ていると心の中を寒風が吹き荒ぶ。それは決して嫉妬ではない…ある意味嫉妬だろう。堂々と思いの丈を口にできる彼等とは違い、決して表に出すことは許されない―それがナンナを頑なにしていた。その頑固ささえナンナは決して表に出すことはなかった。
(そういうところは似てしまったわ…)
 式典の準備の喧噪の中で居場所を失ったナンナはひとり四阿でぼんやりと咲き乱れる花を眺めていた。そこへ声をかけてきたのがリーフだったのだ。ナンナは未だにリーフを兄のように慕っていた。兄以上に。一時は愛かと錯覚しそうになったこともあった。いや、思い込もうとしていたというのが正しいだろう。それでもリーフは常にナンナの気持ちを受け止めてくれた。最も頼れる人物の一人であった。もう一人には頼ることは決してできないのだから唯一の存在といってもいい。

 リーフから心を見透かすようなことを言われ、心はそれ以外のことしか考えられなくなった。兄の結婚式もその後の祝宴も舞踏会も心虚ろな状態でただそこにいるだけであった。しかし笑顔を絶やすことはなかった。アグストリアに来てナンナは自分を守るために―他人を拒絶するために―笑顔の鉄壁を作り上げた。その笑顔に惹かれ、何人もの男性がダンスを申し込んで来るのだが、ナンナは決して誰の手を取ることもなかった。しかし、ナンナの壁の中に入れる人物がいた。彼は優雅に手を差し伸べて、鷹揚に声をかけた。
「ナンナ。相手してくれるかい?」
「ええ。喜んで」
 ナンナはにっこり微笑んで、その手を取った。ナンナがダンスに加わったのを見た断られた男性陣は皆不満そうな表情を浮かべ、他の出席者達は訳知り顔で口々に自分の知っている噂を披露しあう。
「やはり、ナンナ様はリーフ王が…」
「いや、リーフ王の方が諦められないんだ」
 周囲の様子に気付いたナンナがすまなそうな表情でダンスを止めようとした。リーフはそれを制し、
「気にしなくていいよ。ティニーはナンナとなら踊ってもいいって許可してくれたんだ」
「許可ってリーフ様…」
思わず笑いが込み上げる。過去に一度ナンナのことを誤解したティニーの行動を思い出した。あの後でナンナとティニーは深い友情を抱くこととなり、リーフ自身もティニーをより一層深く愛するようになった。
 笑いの止まらないナンナを見たリーフは安堵した様子で、
「やっぱりナンナはその顔の方がいいよ。…さっきの話の続きだけど、きっと後ではできないだろうから、今しちゃおうか。邪魔はしたくてもできないみたいだし」
と言いながら視線を上座の方に向ける。その先には憮然とした表情のデルムッドがこちらを睨みつけていた。
「ごめんなさい。リーフ様」
「気にしなくっていいって言っただろ?」
 その後もリーフとナンナは周囲の注目を浴びながら踊り続けた。まるで絵画のような美しさが徐々に雑音を消していった。

 翌朝、リーフはアグストリア王から直々の呼び出しを受けた。用件はわかっていたが、素知らぬ顔でアレスとデルムッドの前に現れた。
「何かご用ですか?アレス王」
アレスは困惑した表情で答えた。
「わざわざ出向いてもらってすまない。実はナンナがトラキアへ遊びに行きたいと言い出したんだ…」
「そうでしたか。ナンナにとってトラキアはもう一つの故郷でもあります。たまには帰りたいと思うのも無理はないでしょう」
しれっと答えるリーフにデルムッドの怒りが爆発した。
「みんなあなたの差し金でしょう!リーフ様。あなたにはれっきとした王妃がおられるというのに、何を考えておられるのですか!」
 ティニーの怒りに慣れているリーフは動じたふうもなく、言葉を返した。
「ティニーとナンナのトラキア行きに何の関係があるんだい?」
「ティニー様がフリージにおられるからといって、出産間近の王妃をぞんざいに扱うなど許されることではありません」
「私がティニーをぞんざいにするわけないじゃないか」
噛み合うことのない口論を続ける二人をアレスは持て余していた。
(リーフはデルムッドの思ってるような奴じゃないが…下手に突っ込むとこっちがヤバいしな)
 その口論に幕を下ろしたのはナンナだった。
「お兄様、いい加減にして下さい!邪推するにもほどがあります!」
普段全く見せないその表情にデルムッドはもちろんアレスまでもが硬直してしまった。
「とにかく一度トラキアに帰らせていただきます。ちょうどいいのでリーフ様にお供させてもらいますから。いいですね!」
 ナンナの剣幕に二人とも頷くしかなかった。

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別荘入口  ナンナの間  連絡先