なみだはみんな
そらにすててしまおう
そしたら
きれいなにじになる

にじのむこうに
あしたがある
だから
まえをむいてすすもう

うれしいなみだは
つちにかえそう
きっと
きれいなはながさくから

 囁くような歌声と頭をそっと撫でる手の温かさは紛れもなく夢なのだとナンナは思った。たとえ夢であったとしても、いくら求めても決して得られないものが今ここにある。このまま目を閉じていればずっと……。
 それは儚い願いでしかなかった。

 戸を叩く音で歌声は絶え、頭から温もりは消えた。
 その名残を惜しむ間もなく目を開け、身を起こそうとしたナンナは硬直した。
「……!」
 声も出せなくなったナンナに代わって、扉の向こうに返した声に驚いたのは同様だったようだ。飛び込むように部屋に入ってきた人物を見て、さらにナンナは息を呑んだ。
「アリオーン様……」
 その声に我に返ったのも同様で、ナンナは弾かれるように立ち上がり、アリオーンは気まずそうにベッドに近付く速度を緩めた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
 傷が痛むのか、ぎこちなく身を起こそうとするのをアリオーンは苦笑を浮かべて制した。
「まさかもう意識を取り戻しているとはな……」
「不都合がおありでしたら、まだいくらでも寝られますが?」
 声はいつものように穏やかなのに、今まで全く聞いたことのない棘のある言葉に狼狽えるナンナに、
「ナンナ様」
とだけ声をかけた。
 言外に退出を促しているのを察したが、この状況で従ってもいいものかナンナは二人の顔を交互に見つめる。交わした言葉ほどは不穏な雰囲気ではない。
「では……」
 意を汲むことにしたナンナは座っていた椅子をアリオーンに勧めたが、アリオーンはそれを受けなかった。
「いや、君が座っているといい。私の用はすぐに終わる」
「ですが……」
 その言葉を発したのが二人同時だったので、アリオーンは面白そうに口許を緩めた。
「必死で看病してやっと意識が戻ったのに追い出されるのは割に合わないだろう? それに聞かれては困る話ではないしな……こちらは」
 ナンナを労りつつも聞こえよがしに語ったアリオーンは、最後の言葉だけは強調するようにベッドの上を一瞥した。
「…………」
 挑発的な言葉に一瞬渋い表情に変わったが反論はなく、アリオーンからも再度促され、ナンナは扉の近くに椅子を移動させて腰を掛けた。

「あの話を持ち掛けてきたのはそちらだったはずだが?」
 窓際に立ったアリオーンは、外の風景に目をやりながら口を開いた。
(あの話……?)
 ナンナはその言葉に嫌な予感を感じたが、口を挟むのは自重した。ただ黙って二人の表情だけを追う。
「……違えるつもりなどありませんが」
「ではこの三年ですっかり腑抜けてしまったか?」
「そのようなことは……」
「ならばあれだけの手勢に手こずるはずはないだろう?」
 アリオーンは語気を強め、振り返るときっと見据えた。
「…………」
「腕が鈍っていないことは私が一番よく知っている。気付いていたのだろう? 私が何度も空から狙っていたことを……」
「全て気付いたとは限りませんが……」
「アリオーン様……?」
 この展開にはナンナも口を出さずにはいられなかった。
「国外ならば仇討ちも受けて立つと公爵はおっしゃったのだ」
「ええっ!」
「アリオーン様!」
 咎めるような声には耳も貸さず、アリオーンは続けた。
「国の外ならばもしものことがあっても何とでも説明がつく……と」
「お父様……」
 ナンナの視線を外すかのように、フィンは目を閉じて大きく息を吐いた。
「まあ、こんな話を持ち掛けるのも私の心が定まらぬせいだがな」
「アリオーン様……」
 僅かに弱まった口調にナンナとフィンはアリオーンを見つめた。
「その時は馬鹿げたことだと一蹴したくせに、結局私は国を飛び出さずにはいられなかった……それも何度もな……」
 再びアリオーンは窓の外に視線を向けた。
「思い知った……腹を括ったつもりが何の覚悟も決めていなかったのだと……」
 手をかけていた窓枠をぎゅっと握ってから、振り払うように後ろを向いたアリオーンからは悲壮感が消えていた。
「いずれにせよ、私が国を空けた時期と重なっては否応なく嫌疑がかかる。かといって人を雇って果たしたとしても意味がない。それに気付いたのが最近なのも情けない話だがな」
「…………」
「で、国内でそれもトラキア地方で万が一のことがあればどうなるかわからぬ公爵ではないはずだ」
「ですから……」
「グンニグルを持たぬとはいえ父を殺した公爵が?」
「……少しだけトラバント王のお気持ちが理解できたような気がします」
 どんな言い訳も通じないと悟ったフィンは溜め息を漏らすと、身を起こそうとした。咄嗟にナンナは駆け寄り手を貸す。
(熱い……)
 その身体の熱にナンナは悲鳴を上げそうになったが、背中に回された手がそれを押し止めた。
「お父様……」
「……公爵?」
「どうせなら誰かの気を晴らせればと……」
 目を伏せて呟いたフィンの言葉にアリオーンは思わず眉根を寄せた。
「ならば何故王の前に立った? いや……公爵の気は晴れたのかと聞いた方がいいか?」
「…………」
「今ならわかる……公爵が王に……リーフ王子に仇を討たせなかった理由が」
 それまでは現在の称号を使っていたアリオーンがあえて『リーフ王子』と呼んだことで、ナンナにもアリオーンの葛藤がおぼろげながら理解できた。
「ずっとリーフ様にはご両親の仇を討てとお育て申し上げておりました」
「しかし、その機会を得た時に公爵はそれを取り上げた」
「私がそうせずにはいられなかったとはお思いになりませんか?」
「つい最近まではな。今もそう思っている者は多いだろう」
「…………」
「王が自ら手にかけていれば、トラキア統一の道はさらに険しいものになったのは確かだ」
「……微かにでもその道が見えたからかもしれません。そうでなければせめてリーフ様の手で一矢をと願ったでしょう……」
「その道を閉ざそうとしたのは私だ。僅かにでも可能性があればそれに賭けたいとずっと望んでいたのに、それはまやかしなのだと自分に言い聞かせた。自ら切り拓かねば意味がないと……そんな力など私にはないというのに……」
「アリオーン様……」
「父は私の望みなど見通しておられただろう。だから最後の賭けに出る前に、私にトラキアを託してその道を残そうとなさった。だが私は……父上の覚悟を受け止めることができなかったのだ……。無意味に戦火を広げ、アルテナを傷付けた」
「今のアリオーン様は違います。あなたは為すべきことをなさっている」
 フィンの労るような声音にアリオーンはしばし目を閉じた。そしておもむろにベッドに近付くと、フィンの目を真正面から見つめた。
「公爵はどうなのだ?」
 その問いに、フィンは僅かに目を見開くと、視線を窓の外に向けた。
 思いも寄らないアリオーンの吐露に戸惑うばかりのナンナだったが、それが少しずつフィンの真情を引き出しているのに気付き、胸が締め付けられる思いがした。
(私はここにいていいのかしら……? でも、知りたい……)

←9 11→

別荘入口  ナンナの間  連絡先