「もう私など……」
 数分の沈黙の後にやっと紡がれた言葉はアリオーンによって妨げられた。
「だから『誰かの気を晴らせて』消えようとしたのか? 確かにトラキア最後の王を殺した公爵の存在は新トラキア王国にとっては棘のようなものだ。だが、それを抜いたからといって全てが上手くいくとお思いか? 対立の根深さを民は思い知ることになる」
「私に人柱になれ……と?」
「固よりそのつもりであれば……な」
 フィンは微苦笑を浮かべてアリオーンを見つめた。それが肯定の意を示していることは明らかで、アリオーンもつられて苦笑したがすぐに真顔に戻る。
「トラキア山の根雪を溶かすほどに困難だ。だが……」
「為さねばなりません」
「そうだ。そのために公爵には見守っていただきたい。王もアルテナも……いやこの国にはまだあなたが必要なのだ……フィン殿」
「怨讐の鎖を断ち切る……と?」
 僅かにフィンの声が震えているのに気付いたナンナは咄嗟に身を浮かせた。そんなナンナには構わずにアリオーンは大きく頷いた。
「それを次代に託して己が感情に任せるなど……そこまで堕ちたくはない」
「アリオーン様……」

「すっかり長居してしまったな。それにつまらぬ話に付き合わせてすまなかった」
「いいえ……」
 ナンナは頭を振って、退室するアリオーンの後についた。
「少し無理させてしまったかもしれん」
「……」
 あの熱が掌に甦る。早く戻らねばと気もそぞろになっているところにアリオーンの言葉が続く。
「まあ、回復してからでは話にならないような気がするが……」
「そうかもしれません……」
 思わず肯定してしまったナンナに小さく喉を鳴らすと、アリオーンは歩き始めた。数歩進んだところで、思い出したかのように立ち止まると振り返らずに付け加えた。
「公爵もだが、君にも休息は必要だ。皆心配している」
「……はい、ありがとうございます」
 その背中に深く頭を下げるのに呼応するかのようにアリオーンは軽く手を挙げた。その意を汲んだナンナはもう一度お辞儀をしてから部屋に戻った。

「お父様……!」
 二の句を呑み込んだナンナはベッド上で崩れるように意識を失っていたフィンの許に駆け寄ると、触れるまでもなく身体から発せられる熱に出しかけた手を引っ込めた。
 医者を呼ぼうと部屋を飛び出したところに、アルテナを先頭に数名の集団と出くわした。
「ナンナ!」
「アルテナ様……」
 アルテナはナンナを抱きとめて通路を空けると、引き連れていた者達を部屋に入らせた。
「アリオーンから聞いたわ。本当にごめんなさいね……」
「いいえ……いいえ……!!」
 ナンナは激しく頭を振った。
「ナンナ……?」
「……安心……したんだと思います……初めて……」
「……そう……」
 高熱に浮かされながらも綻んでいた口許は今まで見たどの微笑みよりも幸せそうだとナンナは思った。落ち着きを取り戻したナンナはアルテナから身を離すと、部屋を覗き込む。すでにフィンはベッドにきちんと寝かされており、呼吸も穏やかなものに変わっていた。
「容態はどうなの?」
 ナンナの後に続いたアルテナは部屋に入り、医師達に問いかけた。
「熱も直に下がるでしょう。あとはしっかりと養生なさることです」
 医師の返答に安心したアルテナは笑顔でナンナを手招きした。
「ありがとうございます」
 ナンナは医師に礼を言うと、アルテナに導かれてフィンの枕許に立った。
「お父様……」

「ナンナ」
 ナンナを見守っていたアルテナが静かに声をかけた。そして近付くとナンナの肩を抱く。
「あなたもお休みなさい。隣に部屋を用意してあるわ」
「でも……」
 後ろ髪を引かれるように再びベッドの上を見つめるナンナに、アルテナはあえて明るい声で諭す。
「あなたにまで倒れられたら私、リーフとティニーに恨まれてしまうわ」
「アルテナ様……」
「それにフィンにだって叱られてしまうわ。『どうして止めて下さらなかったのですか』って……」
 少し声を低くしたアルテナの真似ともつかない口調にナンナの頬もわずかに緩む。
「わかりました。お言葉に甘えて休ませていただきます」
「ええ……フィンが目を覚ましたらちゃんと知らせるから安心して」
 アルテナは大きく頷くと、ナンナの背に手をかけながら、
「後のことはお願いね」
と医師達に声をかけた。
「かしこまりました」
「よろしくお願いします……」
 部屋に残った者達に深々と頭を下げながら、ナンナはアルテナに導かれるように退出した。

 ナンナは与えられた部屋で久しぶりにきちんとした食事を摂った。本当は早くベッドで休みたかったのだが、看病中は出された食事にほとんど手をつけなかったため、アルテナ自らが見張りと称してナンナの食事を見守っていた。
「彼等は大丈夫だから……安心して」
 ほぼ食べ終えた頃にアルテナは呟くように話しかけた。
「アルテナ様? ……!!」
 言葉の意味を悟ったナンナは、息を呑んでアルテナを見つめた。ナンナの視線にアルテナは寂しげに微笑んだ。
「……リーフがトラキアの王であるということを未だに認めたくない者が少なからず存在するわ。南にも……北にもね」
 アルテナは冷めた紅茶を酒のように呷ると続けた。
「それはどの国も同じなのでしょうけど」
 ナンナは兄と従兄の会話を思い出して頷いた。
「リーフは復興と融和に心を砕いているし、民も応じてくれている。……なのに」
 アルテナは手をきつく組むと、絞り出すように続けた。
「私にだってまだ心の整理ができないことがあるから……」
「アルテナ様……」
「みんなもそうなんだと思う。これまでの戦いの中で受けた心の傷が簡単に消える訳ない……それでもみんな少しずつ歩み寄ろうとしているの。だから私はそれを妨げる者を許さない……キュアンとトラバントの娘として」
 アルテナは俯いていた顔を上げた。
「因果だとしても納得したくないことだってある。アリオーンもずっと葛藤していたわ。もしも父上を手にかけたのがリーフだったら……きっと兄上は国を出ていたでしょうね」
 アルテナが夫を兄と呼んだことで、ナンナはこの地を訪れた理由を思い出した。
「アルテナ様……先ほど……」
 しかし、口にしたのはアリオーンとフィンの会話だった。

「そう……」
 ナンナの話を聞き終えたアルテナは目を閉じ、大きく息を吐いた。
「アリオーンはもう大丈夫……」
 心底ほっとしたような表情を浮かべるのをナンナも同じ気持ちで見つめていた。
「ナンナ、教えてくれてありがとう。あとはフィンね……」
「……はい」
「大丈夫。きっとすぐに良くなるわ。……いけない。休んでって言ったのに話し込んでしまって」
 アルテナはさっと腰を上げると、食器を持って部屋から出て行った。
「本当にごめんなさい。ゆっくり休んでね」

 

アルテナを見送ったナンナはベッドに入ったが、なかなか寝付けなかった。
「心の整理……私の心……お父様の心……」
 アルテナに語ったフィンとアリオーンの会話を再度思い出す。ぎこちなく紡ぎ出された言葉は紛れもない真情だった。それに至るまでの葛藤はどれほどのものだったのだろうかと思うとナンナの胸は痛んだ。
「それでもお二人は向き合われた……。私も……」
 脳裏に浮かぶのは、安心しきったフィンの寝顔だった。ナンナは誘われるように意識を手放した。

ひとことどうぞ。

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