98年6月上旬


<6月1日・月>
◇ 打ち合わせだなんだかんだで遅く帰宅し、「ナスカ」を見逃す。いや、別になんの未練もないのだけれど。


<6月2日・火>
◇ いろいろ仕事をした……はずである。


<6月3日・水>
◇ 夕食で軽く飲んだ後、仕事中にうたたねしてしまう。目が覚めて再度仕事をしていると、今度は吐き気が……。とりあえず、ボロボロの体調でなんとか最低限仕事をこなし、木曜日昼前に帰宅する。


<6月4日・木>
◇ というわけで、社会人になっていらい初めての病欠ということで、風邪薬と胃薬を飲んでぐっすり眠る。夜には概ね元気になる。寝床で「踏みはずす美術史」(森村泰昌、講談社 680円)を読む。体験的美術論といった内容で、これはけっこう村上隆氏の「Project Koko」について考える参考になった。

○ そういえば、最近学生時代の同級生が結婚するという話をよく聞く。名簿をみてみると、女性も男性もともに独身の方が少数派になっている。イベントとしての結婚式は面白そうだけれど、そのあと続く日常にオレは耐えられるだろうか? 


<6月5日・金>
○ 夕方から新宿にでかける予定が、昨日の病欠などもあって予定が山積みで不可能に。残念。

△ 会社に置いてあった、個人的な資料にコーヒーか何かがこぼされていた。紙が水に弱い奴だから、ページとページがくっついちゃってさあ大変。犯人が自首しても、きっと怒りのやり場にこまるだろうから、ここで怒りのガスヌキをしておく。むきー!

○ 最近、ちょっと書評を含む作品に対するなんらかのコメントについて、いろいろ考える機会が多いので、個人的に自分の書評とか映画評について考えをまとめておこうと思う。

 ボクの中では、一連のコメントは以下のような順序で並んでいる。

 感想→レビュー→批評→評論

 この→が右へいくほど、とらえなければならない要素が増えていくはずである。これは、右へいくほど”高級”といっているわけではないのでご注意を。
 感想とレビューにはあまり説明はいらないと思うのだけれど、感想はそのまんま、見た後に「おもしろかったねー」というアレである。で、これに因果関係と、相対的評価が加わるとレビューになる。本や映画か買うに値するかどうか、という情報がメーンのコメントは、ボクの中ではレビューという分類になる。だから、レビューの腕の見せ所は、
「何故面白いかを想定する読者にうまく説明する「似たようなジャンル作品を詳しく知っているので、当該作品のレヴェルをきっちりと位置づけする」
という2点になるわけである。
 この2点は、お互いに補いあっているから、おもしろさをうまく説明できるテクに長けているなら、少々当該作品とほかの同様の作品の関係について、ピントをはずしていても、読者にとって十分適切な情報をあたえることができるだろう。レビューの基本要素を簡単にいうと「伏線の張り方がうまいので、後半のサスペンスが盛り上がる。導入部分は過去の作品Aを思わせるが、それは監督の○によるのだろう」という感じになるはずである。
 付け加えると、世の中の書評と映画評といわれているものの多くは、 ボクの分類ではレビューということになる。

 で、批評になると、ここではレビューと違い、作品が面白いかどうか(カネを払うに値するかどうか)については2番目になる。ここでは、作品の特徴を分析するのが最大の目的なのである。当然ながら、ここではレビューで求められている知識は、前提として必要である。そこに、別の切り口を設定して、作品の個性を浮き立たせるのが批評だろう。ここでは、映画や小説を見る・読むという行為を、自動的な状態から、意識的な状態へと切り替えることが必要になる。批評を読むということは、その文章を書いた人間の目となって、作品を鑑賞しなおすという」ことなのだ。そこでは、作品を直接見たときとは別の異化効果があるはずである。こうなると、レビュー的に面白い映画と、批評的に面白い映画が食い違ってくるのも十分あり得る。

 余談だが、映画批評では通常文芸批評の延長上のテクニックが駆使されたものが多いが、「銃器の取り扱い方」だって批評のテーマになるはずである。ただ、これがただの説明にならないようにするのは難しいだろうけれど。

 評論になると、さらにとらえる範囲は広がる。、話題の本質は、作品を中心にしながらも、そこから抽出された抽象論へと写っていく。だからテーマは「『三毛猫ホームズ』にみる大林宣彦の女性観」という形になるはずだ。ここでは、『三毛猫ホームズ』という作品は、バックグラウンドにさがり、そこに描かれた女性像が主体となる。すると、同時に古今のさまざまな女性像が同時にこの評論の対象たりえるのだ。
これがもし、批評であれば女性像をキーワードに作品の方が見直されていることになる。
 
 個人的には、一番読んでいて好きなのは批評だ。その理由は、他人の目で作品に接することで、知らなかったような発見ができるからだ。インターネットをはじめた当初は、もうちょっと映画とか本で批評を掲載したサイトが多いかという期待もあったのだが、実情はあまりそうでもなかったような印象を持っている。面白いレビューページがあるのは認めるのだが、なにせ、こちらの求めるものが実用情報でないので、あまり琴線にはふれないのだった。きっとボクが発見していないところで、面白いサイトもあるとは思うのだが……。 


<6月6日・土>
◇ 「ラヂオの時間」を見る。新人にしては頑張った。もう何作か見てみないと、この間が「独特の持ち味の原石」なのか、単に洗練されていないだけなのかは断言できない。個人的には、三谷幸喜脚本、周防正行監督という作品が見たい。それが、日本映画最高の娯楽映画のスタッフだと思うからだ。三谷脚本のドライなところが、周防演出に広がりを、周防演出の丁寧さが三谷脚本のキャラクターを生かすだろう。どこかカネを出さないかなあ。

○ 前後不覚に寝倒して、またまた「ブレンパワード」を録画し損ねる。ガーン。

△ ここ2カ月ぐらい書き忘れていたので、今日は書いておく。PG。


<6月7日・日>
◇ 某掲示板でいろいろ発言した。ボクが最後の発言を書いてからしばらくして、掲示板が閉鎖されてしまった。ふーん。

○ 「CURE」を見る。日本流サイコサスペンスの傑作というのは、この作品に関する紋切り型の表現だが、ほんとうにその言葉ではとらえきれないものが多い作品だ。やはり日本映画は、ハリウッド流オープンエンターテインメント(バカからもカネをむしり取って、しかも恨まれないという究極の娯楽形態)ではなくて、こういう内省的な方向への完成度を目指した方が傑作が生まれている。
これは、結局「イド」と「エゴ」の話なのだと思う。そして、人を癒しうるのは「エゴ」ではなく「イド」である、と……。(これはネタバレか?)。それは痛切な物語である。
が、ボクの中のイドというのはあまりこの映画の描写と呼応しなかったようで、そういう意味では、ボクは直感・感性ではなくて、論理でこの映画に関心(感動ではない)した。

△ PG×2。


<6月8日・月>
◇ あまり更新しないと、生死不明に思われるので、むりやり更新。

○ 以前もかいたかっこわるいオタク像論について、いろいろ考えるが、面倒くさいのでやめる。


<6月9日・火>
○ 吉祥寺で仕事。その仕事であった方は、きれいなほうの吉祥寺を「マンハッタン」、井の頭公園側から丸井方面の裏びれたほうを「サウスブロンクス」とシャレていっていた。ちなみにボクにとっての吉祥寺像は、サウスブロンクス側である。こちら側は、「孤独のグルメ」に登場した回転寿司があることからもわかるように、どこかハードボイルドの味がする。

◇ 遅くに帰宅した後、先日からずっと気になっていた「kokoちゃん論」を書き上げる。いままでずっと、自分の中でスッキリしなかったのだが、これを書いたことで胸を張って「Kokoちゃん」派を名乗れると思うとすがすがしい思いである。

○ そんなことをしていると、深夜映画「透明人間」(チェビー・チェイス主演・吹き替えは富山敬・の近作)が終わり、もう朝である。


<6月10日・水>
○ 大森望さんのページからリンクを辿って、我孫子武丸さんのページへ。このあたり「本好きなら」注目している論争が進行中のようだが、それはさておき、我孫子さんの日記のなかで気になる箇所があったので、そこを素材に、個人的な考えを書いてみる。

△ 気になったのは「ごったに日記5月29日付け」の以下の箇所。

「そういえばカラオケを打ち込んでいる人達は「絶対音感」の持ち主らしいが、各社音色に差が出てしまうのはなぜなのだろうか? 絶対音感のレベルの差か、それとも使用音源の性能か。」

 まず、事実関係でいうと「カラオケを打ち込んでいる人たち」という表現はちょっと疑問。『絶対音感』をくまなく調べたわけではないけれど、絶対音感を持っている具体例は1人だけだったような気がする。少なくとも、打ち込みをやる人が全員「絶対音感」を持っているという記述はなかったはずだ。
 別に揚げ足をとろうというわけではないのだが、なぜこんな細かいことから気にしているかというと、この文章ではほぼ同じニュアンスで「音程」と「音色」が使われているからだ。打ち込みの人に関する記述は、その論理の入り口の部分なので、ちょっと気になっただけである。

 さて、ボクも音響学について調べたこともないのだが、持っている知識をパッチワークして考えてみる。
 通常の楽器の音などは、複雑な周波数が一つになって全体の「音」になっている。「音程」は、このなかのもっとも音量の大きいもの、あるいは全体の音を決定している基準となる音の周波数の高さであると推察される。
 例えば、笛のリードの部分がふるえると、単一の周波数が純度の高い状態ででてくるだろう。この音がなることで共鳴体(楽器全体)がふるえ、倍音などそのほかの周波数が発生する。こうして生まれた周波数の総体が「笛の音」になる。この原理は、ピアノでも人間の歌声でも同じはずだ。
 で、音色というのは、その全体の周波数の成分の割合(これが波形、という奴か?)によって決まるのだろう。むかし科学番組でみたことがあるが、いわゆる「通る声」と「通常の声」では音程は同じでも、「通る声」のほうが低音の周波数を多く含んでいるという。 そもそも、同じ音程でも、笛とピアノでは音色がちがうではないか。この事実は、音色=成分の割合(波形)を裏付けはしないか?

 で、音源の問題に移る。通常カラオケに使われている音源はさまざまな楽器の音色をサンプリングしたものを内蔵している。このサンプリングの性能が音源の性能の差につながっているに違いない。例えば、同じピアノの音源でも、全体の波形(周波数の成分)をそのままに音程だけ変えていくと、高音部や低音部ではリアルなピアノの音に聞こえなくなる。高音部なら高音部用の波形のサンプリングが必要になるわけである。
 また、それ以前にサンプリングできる範囲のデータ量の差が各社の音源ごとにあるはずである。音程付近の波形しかサンプリングできないようであれば、音は自然とウスくなるはずである。一時期ではヤマハの音源をつかっているDAMはやはり圧倒的に音色がよかったが、これは電子楽器用のサンプリングのノウハウが反映していたからなのではないかと推察される。

 つまり、カラオケの音色の差とは、音源に使われている技術の反映であるとボクは考える。で、それはどんな人が打ち込んだって関係なく存在しているものである。そもそも打ち込みはMIDIかそれに準じるデータ形式のはずだから、あらかじめ定められた「ド」は「ド」であって、微妙な周波数の上下などは打ち込めないはずだ。音程が違って聞こえるときは、移調してあるか、音色のせいかどちらかであって、打ち込み担当者の能力とはあまり関係ないように思う。

◇ 以上、「ごったに日記」を肴にさせていただく恰好で、音色と音程について考えてみた。私より詳しい方が、この推測を読んで不満に思われたら、メールをいただけたらありがたい。


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