98年6月中旬


<6月11日・木>
○ 「音色」と「音程」についていくつかメールをもらったので、簡単に紹介を。

△ 学生時代の同級生でボクの所属していた合唱団では指揮者だった人物からは
「概ねそのとおりだと思う。音色は周波数の波形で決定され、さまざまな成分を含むほど充実した音に、成分が少ないと空虚な音になる。、成分比が単純なほど澄んだ音に、無茶苦茶だときたない音に聞こえる」(要約)と、いう内容のメールがあった。ご教示どうもありがとう。また「自分が弦楽器より合唱にある種の暖かみがあるのは、雑多な音があるからでは」とも書いてあった。

△ ほぼ正しいのでは、という賛同は、闘う(特に公務員と?)サイエンスライター森山和道さんからももらったのだが、森山さん曰く「音程と音色を混同はあるていどやむをえないのでは」とも書いておられました。個人的に「違う名前のついているものは、基本的に言い分ける理由がある」と考えれば、同じようなものと混同するのは考えにくいと思うのだが、まあ、「音色」と「音程」にそれほど細かいこだわりをもって接している人が少ないからのかもしれない。

△ また、疑問のメールも関西方面のこれまた学生時代の先輩から。こちらは「通る声」について。
 「通る声は僕の理解では共鳴させた声の事だと思っていた。声帯の振動だけで話す声が普通の声。共鳴腔で特定の周波数が共鳴を起したためにそれ以外の周波数成分が減ってしまったことによって音階が明確になるのではないか」(要約)
これについては、ボクの考えもかいて返信したのだが、ボクは共鳴で発生する周波数は音程以外の主に低い部分に発生するのではないかと想像している。それは、鳴る場所が声帯より「大きい」場所(胸とか頭蓋)だからだ。どちらにしろ減るのか増えるのかは大きく違う。ただ、いわゆる細い声と太い声では、細い声のほうが高く(というか、明るくというか、むなしくというか)聞こえることから考えると、低い周波数が加わっているのではないか、と、やはりこだわりたくなる部分もある。
さて、このへん詳しく説明してくれる人はいないのだろうか。

◇というわけで、平凡社百科事典を調べてみる。ここでは音色(おんしょく)ではな、ねいろ、なのだが。「この中で,音色は音波の波形に関係するもので,音の大きさや高さに比べて複雑な属性である。定常的で周期性のある音の場合には,音色は主としてその音を構成する各部分音の周波数と音圧とによって規定されることになるが,実際の音のように絶えず時間変動をする場合には,こうした変動性状そのものが音色をきめる要因になる」
うーん、網羅的ではあるが、決め手にかける解説ではある。さすが百科事典。


<6月12日・金>
◇ 「待てど暮らせど、来ぬ人を」と、思わず夢二になってしまいそうな週末。めんどうくさくなって、さっさと帰宅し、酒を飲みくらす。そのほかは、記憶になし。そういえば、たしか「渋谷でチュ」をつい見てしまって、寒い気持ちになる。


<6月13日・土>
◇ 休日であるが仕事で、「レッツ・コンバイン」……ではなくて「LET’S 豪徳寺」(by 庄司陽子・映画版は三田寛子主演)。その後に、新宿で仕事関係の買い出しとCDなどを衝動買いして、紀伊国屋書店の地下で、はやめの夕食にカレー。このカレー店、蛭子能和氏の色紙が2枚も飾られているのだが、どちらもあのキャラが「ウ、ウマイ」といっているので、あまり信用ができないムード(笑い)。食べてみると決してそんなことはなく、美味というか、ちゃんと主張のあるカレーで好感を持った。

○ 帰宅して、ゴロゴロしていると、めずらしく会社の同僚と仕事関係者からカラオケのお誘い。久しぶりのカラオケだったので、1も2もなく参加。日曜日の仕事が気になるが、とりあえず午前3時半すぎまで歌う。久しぶりだったので、古い歌(買い物ブギ)から新しい(といっても1年ぐらい前までのもの。最近はカラオケ用に歌を覚えるヒマがない)。珍しい歌をいくつか聞いたというと、風船少女テンプルちゃんの歌とか、どろろの歌とか、つぼいノリオの金太の大冒険……ではなくその女性版とか(こちらは、金太の冒険が放送可になった今日も、絶対に放送不可能ではないか?)。面白かったので、後ろ髪を引かれるようにして帰った。

△ 「タイムクエイク」(カート・ヴォネガット、早川書房)を読み始める。面白くて、グイグイと読んでしまうが、それは決して物語のオモシロさとも違う。強いて言うなら、ヴォネガットの自意識のありかたとでもいうべきだろうか?


<6月14日・日>
◇ 昼から仕事。そのあと、新宿で買い物をした後帰宅。そして、PG、昼寝。それから、ちょっくら在宅勤務して、サッカーにそなえる。

○ サッカーは、健闘というべきではないだろうか? ただ、攻撃面で必勝パターンを持たないという弱さが出たということか。疲れているせいか、ハーフタイムの間にちょっと眠ってしまう。試合を見終わった後に、さっさと眠って、明日の仕事に備える。緊張している。


<6月15日・月>
◇ 仕事で疲れた。飲んだくれる。


<6月16日・火>
◇ 仕事をしていたはずである。池袋で一杯やって深夜に帰宅。ああ、西荻窪へ出かけた。


<6月17日・水>
◇ 仕事の一日。明け方になると、もう意識がはっきりしないので、書こうと思ったことをどんどん忘れていく。とりあえずどうでもいいヒマネタである、現在読んでいる本の話題でも書くか。

○ 最近つらつらと読んで面白いのが「われわれはどんな時代を生きているか」(蓮實重彦、山内昌之 講談社 660円)。なんだか難しくてわかんないようなことばかりなのだが、ところどころ心に引っかかるタームがあって楽しい。差異と差別とかは、オタク論に敷衍したらどうなるか、という妄想を刺激してくれた。結果、それは敷衍不可能なのだけれど。それに「ムービーウオーズ」(仙頭武則、日本経済新聞社 1500円)どんな状況だって、やはり闘ってモノを作っている人間は強い、という事実を突きつける本。これを読んで、自分の身を振り替えられない人は、職業人としてはあまり信用できないかも知れない。

○ 「タイムクエイク」「日本・現代・美術」は、ヒマをみて少しずつ読み進めている。「タイムクエイク」はまとまった時間が在れば一気に読めそうな気配が漂っているが、なかなか週末も忙しかったりするからなあ……。読売新聞の記者に「読書家で頭が下がります」とまで書かれた人は、いったいどんなライフサイクルで本を読んでいるのだろうか、大いに謎である。一度時間の使い方でも公開してくれないだろうか。 それとも、それをすると会社的にまずいことでもあるのだろうか(邪推星人)。

○ テレビで「ハッピー・マニア」のスポットを見る。超ヤバそうな雰囲気である。やはり完成度では「ジェリー・イン・ザ・メリィゴーラウンド」には勝てないだろう。ヤレヤレ。   


<6月18日・木>
◇ 仕事をしてさっさと帰宅。明日が山場であるが、なんとかメドがついた感じで一安心……していいのか?

○ 話題を呼んでいるらしい「ふざけるな専業主婦」を読んだわけではないだろうが、某掲示板で、「なぜ女性が社会と接するといった話題の時に(ひらたくいえば女性の社会進出、だ)、企業など経済行為になどにかかわるものを”社会”の窓口ととらえ、地域社会に触れるケースが少ないのだろうか」(大意・要約)という意見があったので考えてみた。

 これはつまり無意識に”社会”と呼んでいるものが何か、という問いを含んでいる。そして、結論から言うと、現代人は自己実現が可能な場こそを”社会”と呼びたいと考えているのではないか。

 社会が巨大な集団である以上、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトという2点から考えることができるだろう。
  平凡社百科事典には 「近隣関係,親縁関係,また伝統的志向性(習慣等)に規定される町村,価値合理的志向性(共通信仰等)をもつ精神的共同体といったゲマインシャフト的典型があるのに対し,選択意思は目的合理的志向性に規定された企業というゲゼルシャフト的典型をもつ」とある。この二つは対になる概念ではなく、一つの集団の中に二つの要素が混在していることも多くある。ただ分かりやすく分類するのであれば、ここにも書かれているように企業はゲゼルシャフト的な要素が多く、地域社会はゲマインシャフトの要素が支配的である。

 自己実現というのは、その場で自分が自分らしく生きている状態と言い換えることができる。ただ何をもって自分らしいというかは非常に難しい。条件をあげてみると、自分の自由意志が保証されているということ、まず自分のアクションに対して明確なリアクションがあること、そのリアクションに自分を含め周囲が納得できること、などが最低の条件になるだろう。

 企業というのは、さきにも引用したように「目的合理的志向性」によって規定されている。個人はその企業の目的の代行者として、アクションを起こし、利益に代表される明確なリアクションを得ている。それは個人のエゴが企業サイズに大きくなる快感をともなっている。そういう意味では、企業はその本質からして、もっとも手軽な「自己実現」の場として機能している、といえるだろう。就職の時の選択基準の一つに「自分を生かしてくれる会社」があるということも、これを裏付けている。
 もっとも企業内においてどこまで本人の自由意志があるのか、という反論はあるかもしれない。これについては、社員のそれはカッコつきの自由意志なのだが、それがさきほどいった「手軽な自己実現の場」「会社の目的を代行する」ということにかかってくる。会社員とは、つまり、会社の代理人となるために個人の自由意志の一部を会社に預けている、ということになる。そして、会社の目的が明確に定まっているからこそ、自由意志をどのように発揮するかも明確であり、余計に迷う必要はないのだ。もちろん、彼は奴隷ではないので、そのほとんどの自由意志は手元に残っており、なにしろ会社をやめる権利というのははっきりとあるのである。
 
 これが、地域社会=ゲマインシャフトとなると、ここを「やめる」権利というのは基本的にありえない。の世捨て人になって自給自足を一人だけするという極端な状況以外はありえないだろうが、これはみんながこの方法を選択できない(みんなが世を捨てたら、こんどは世捨て人のいる”外部”が世になる)以上、無視してもいいだろう。つまり、地域社会よりは企業社会の方がその性質において自由意志を発揮しやすく、リアクションも明確であるため、自己実現の場として便利なのである。
 
 こうして自己実現が得られる時、そのリアクションの向こう側に人は社会を感じるのである。自らはアクションを起こしたことでその社会と一線を画し、しかも、社会からのリアクションを受け取ることで社会の一部であることを確認する。そのプロセスを通じて、抽象的な「社会」というものを実感するのである。

 ここまで書いてきた要素が、地域社会にはないものであるというのは説明するまでもないことだろう。地域社会において、自己実現を味わおうと思ったら、小さなゲゼルシャフトを立ち上げなければならない。が、それはその小ささと、それ故に各人が地域社会のルールを持ち込まざるがいけないために、組織の目的のために合理的に規定するということは難しいだろう。
 例えば、地域で組織されたママさんバレーの組織を考える。このチームが「スポーツを楽しむ」という目的のために組織されたゲゼルシャフトなら、その目的の不明確さゆえに自己実現のうまみは減ってしまうだろう。自分が楽しめたかどうかは、客観的な水準ではかれないからである。また「試合に勝つ」とした場合は、全体の意思統一が難しい。地域社会の中で暮らすときのさまざまな意志が、そのままチームの中に持ち込まれることになるからだ。
 これがもし、より激しく勝利を求めてバレーチームを編成するなら、身の回りの地域社会だけでは結局不可能で、より広い範囲から人をあつめることになるだろう。こうなると、もはや地域社会に根ざしたままの自己実現とはいえなくなるのは自明である。

 現代人の我々は、自己実現の気持ちよさを知ってしまった。だからこそ、前近代的なゲマインシャフトの要素の多い部分では満足できないのである。それが幸せか不幸かは別にして。


<6月19日・金>
◇ まいどこことながら仕事で徹夜。20日朝、築地の寿司屋で軽く食べて飲んで帰宅。まだある仕事が心残りではあるが、一仕事終えた開放感のほうが強い。


<6月20日・土>
◇ というわけで、昼間はちょっくら仮眠して、夕方からカラオケに。最近歌っていなかった曲(B'zとかね)の「虫干し」をする。そういえば、ブライガーの挿入歌「ABAYO FLYBYE」が入っていたのでそれに驚いて10数年ぶりに歌う。やるなセガカラ。それから、帰宅して夕食、日本−クロアチア戦。しかし、昨晩徹夜の影響で、なんと前半で沈没。ガーン。

○ 午前2時過ぎに起きた後、「ジェリー・イン・ザ・メリィゴーラウンド」を見て、それからシコシコと仕事に取りかかる。「ジェリー」は原作と違ったエピソードに突入、ラストの締めくくりだな。もっと手早く終わるかと思ったが、なんだかんだと時間をとられてしまい、結局翌朝10時前ぐらいまでかかる。力つきて寝る。


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