Kokoちゃんは20年後に評価を受ける!? 


 例えば、マンガ史を例に取ってみる。杉浦茂と田川水泡どちらが先の時代かいえる人は何人いるだろうか。ちょっとマンガが好きな人でもなかなか答えるのに苦労するだろう。正解は……。この時代的な差について今のボクらにとっては不感症といっていい。この視点を延長していけば、住倉良樹氏のいうとおり、将来には「AKIRA」と「ドラゴンヘッド」は同列に論じられることも全く想像可能なことだ。実は、村上隆の「PROJECT Koko」を考えるときに、これと同様の時代による視線の変化を抜いて考えるわけにはいかないとボクは思っている。

 「PROJECT Koko」は1/1フィギュアのプロジェクトである。このプロジェクトのネガ、あるいはポジと呼ばれるべき作品が2つある。1つは同じく村上隆による「HIROPONちゃん」であり、もう一つはやはり海洋堂1/1の「綾波レイ」フィギュアだ。

 「HIROPONちゃん」の個性は正に岡田斗司夫氏が言っていることに尽きる。バブル期に映像部門を設けた不動産屋が、適当なスタッフを集めてアニメを作った時のヒロイン、というのが彼の評価だ。これは、つまり、架空の不動産屋(あるいは適当なスタッフ)が「これならアニメファンに受ける」と思って作り出した記号性に満ちているというわけだ。それは例えば、ロリータフェイスと巨乳であったり、現実にありえないような髪型である。そうしたジャンク・アニメ的要素を覗くと、この作品が、アートである自己主張をしているとするなら、ほとばしる母乳を縄跳びするというポーズにこそそれがあるのだろう。少なくとも、アニメを見慣れた目にはそう見える。そのアートの主張さえ覗いてしまえば、基本的に、「HIROPONちゃん」とは、アニメファンのセクシャリティのグロテスクな鏡像という顔を持っているわけだ。それを今の日本人の感性に関する批評性と呼ぶことも可能だろう。

 一方、1/1綾波レイというのは物語を背負った存在である。別に綾波レイに限ったことではなく、美少女フィギュアという存在は、多くの場合バックグラウンドたるべき物語を持っている。それはゲームであったり、アニメだったりする。通常のフィギュアが、実物より小さいという理由で、現実とその物語の間に一つの線を引いてると考えるなら、1/1フィギュアはその一線を超えてしまった存在といえるだろう。それ故”彼女”の存在は、「われわれ」を混乱させるのである。混乱という言葉が上品すぎるなら、「気持ち悪い」と積極的に言い換えてもいいかもしれない。「Kokoちゃん」は同じ1/1でありながら、この気持ち悪さに勝てるのであろうか。答えはNOである。リアルとノンリアルが対等に競り合うためには、物語の有無が大きな要因となるからである。そして、「Kokoちゃん」は、物語を持たぬが故に、この気持ち悪さが薄く(さすがに1/1スケールのアニメ的美女には、それなりの気持ち悪さはあるが)、フィギュア関係者などにHIROPONちゃんほどのインパクトも持ち得ていないということなのだろう。そして、気持ち悪さというのは、先に書いた「批評性」と も通底している。気持ち悪さが薄ければ、その批評性も少なくなるのである。

 だが、まず考えてみよう。この物語という奴の賞味期限を。20年後に「エヴァンゲリオン」という物語が今と等しいインパクトを持ち得ているとは考えにくい。エヴァほと自分で正直であるが故に、インパクトたりえた物語もないと同時代人の一人として思うのだが、ボクは20年後にこの物語が今ほどの影響力を持ち得るかというと、それを保証する自信はない。物語は、うたかたのようにうまれ消えていくもものだ。だからこそ思うのだ。「アキラ」と「ドラゴンヘッド」のように、さらに想像力を巡らしていけば杉浦茂と田川抱水のように、綾波というキャラクターの持つオーラは時間を経るごとに減じていくのではないかと。

 「Kokoちゃん」とは、’80年代から’90年代にかけての、アニメ的美少女の典型像をつくろうとした。それはつまり抽象的偶像(アイドル)である。そのアイドル性の正しさ=抽象性、それ故に現在は、周囲のさまざまな物語を持つ具象に紛れてしまっているのだ。だが、時が経ったとき、あらゆる物語が過去の物語として「」に入れられる時がきたとしたら、その物語のなさ故に「Kokoちゃん」は「アート」として、その真価を発揮するだろう。「HIROPONちゃん」のそのグロテスクなイメージもその時代には、曲解されこそすれ、現在のストレートな評価を維持するのは難しいだろう。そういう意味では、「Kokoちゃん」は、現在のフィギュアシーンからある種の距離を持っているからこそ、時代を越えることではじめてそのイコン性を発揮する「オブジェ」といえるのではないだろうか。
 
 「来たるべき未来」において、「Kokoちゃん」が可愛いと評されるかどうかは分からない。ただ、’80年代から’90年代にかけ、ある層の人気を博した典型例として、つまり時代の肖像として再生するのは想像にかたくない。あらゆる物語が意味を失った時、この時代のすべてのキャラクターたちは同じ地平に立つことになる。その時、最初から物語をもっておらず、アートとして作られた「Kokoちゃん」はそれ故に他のキャラクターたちよりも、その象徴として機能しうるはずである。

 森村泰昌は岡村太郎の「太陽の塔」と「大阪万博」について「踏みはずす美術史」の中で、要約すると以下のように語っている。「万博とは時代の祭りであった」「だが、太陽の塔はそうした時代の祭りを目指していたものではなかった。それが目指していたものは『悠久』であった」。それと同様にである。HIROPONちゃん」が、その異形性故に時代と寝る「同時代のネガティヴな女神」だとするなら、「Kokoちゃん」は、その無個性ともいえる正統性を持つからこそ「悠久と向かい合うことができる現代の女神像」といわれるべきであろう。「太陽の塔」が、万博のあの時代を背景にしながら「悠久」を目指したのであれば、「Kokoちゃん」は、今まさにある「オタク的文化」の盛り上がりと普及(つまり、’97年とはオタク万・博の年であったともいえるだろう!)を背景にしながら、「悠久」を目指しているのである。
(98/06/10)