華雪洞
余力がありましたら「月さえも眠る夜」シリーズ全般。
そして、「風花に五白という猫を弔いたる日のこと」
を頭の隅に置いてお読みくださいm(_ _)m
by 佳月
夢の守護聖の館の裏庭でで行われるその宴はすでに恒例のようになっていて、梨花が舞えばその姿を愛で、藤が香ればその馨を愛でる。そんな習慣が仲間達の中で生まれつつありました。 その日その庭に咲く花は終わりを迎えつつある卯の花と、これから盛りを迎えつつある白い山紫陽花で、この山紫陽花は雨に打たれて淡い紅に色を変えるんだよ、と、緑の守護聖は私に教えてくれました。 今寝台の脇に挿されている一輪の白い紫陽花は、帰り際に夢の守護聖が 暗いから そう言って片目を瞑った彼に礼を言い、闇にぼんやり浮かぶ丸い花を受け取りました。 ぼんやりと眺めつつ、次第に重くなる瞼。 うとうとと、私は恋人の腕に抱かれて、穏やかでいてそして春の花の香りのように甘い眠りに落ちようとしながらも、ふと幼い頃の思い出をなぜか思い出している自分に気づきました。 それは私がまだ幼稚園にあがるかどうかの歳の頃のことです。 飼っていた猫が青い紫陽花の咲く庭で梅雨に濡れて冷たくなっていた日の記憶でした。 今思えば両親も祖父母も健在だったあの頃、私がはじめて出会い、経験した「死」であったろうと思います。 何故なのでしょうか。 たった今私の体を包み込んでいる、その それだけにどうしてこの時になってそんなことを思い出したのだろうと不思議に思いつつ、それは決して不安や悲しみから思い出した記憶などではなく、今幸せであると思っているからこそ……だからこそ、ようやっと向き合うことができるようになったのであろうという事実を静かに受け入れてもいました。 飼い猫が死んだ日、父や母が側にいたという記憶はありません。 ただ親戚のお兄さんでしょうか、今となっては顔さえもはっきりと思い出せないのですが、背の高い優しい人が私が眠りにつくまで抱いていてくれたという、そのことだけが思い起こされます。 不思議なのは想い出の中のその人が何故か今隣に眠るあなた自身に似ていたような。 そんな考えが不意に浮かび、夢と現のあいまをいきつ戻りつしながら、私は脳裏で苦笑しました。 外界の人間と生きる時間を異にする私達の特質を思えば、何かの拍子に起こりうることかもしれません。 ただ、それはありえない。はっきりとそう思った一番の理由は、思い出の中の人が、私を知っていたからでした。 彼は間違いなく私の名を呼んだのです。私が名を告げる前に。 だから私はこの人を知らないけれどきっと親戚のお兄さんなのだろう…私はそう思ったのですから。 なによりどう転んでもただの一般庶民だった私が、当時あなたと知り合う道理があるわけがありません。 その人があなたに似ていると思ったのは、きっとその時私を抱き上げてくれた手のぬくもりを、今まさに抱いていてくれるあなたから伝わる体温と重ねあわせただけなのでしょう。 しばらく取りとめもなくそんなことを考えていたのですが眠気も手伝い、あやふやな記憶に伴いあふれいでる思考の洪水にいい加減終止符を打つと、私は軽く寝返りを打ち、そっとあなたの胸に寄り添いました。 脳裏には白い山紫陽花が淡く浮かび上がります。それは本当に 気づけば私は長く続く路の中に一人立っているようでした。 夢であることがわかっている夢を見ているのだと、私はぼんやりと思い、辺りを見回すと、そこには誰一人として影はなく、ただ相変わらず、山紫陽花の白く丸い花が一つぽつんと、雪洞のように淡く青白い炎を上げて揺らめいているばかりです。 そうかと思うと不意にそれはそこかしこにひとつ、ふたつ、みっつ、と数を増し、あっという間に辺りを埋め尽くすほどに咲き乱れました。 山紫陽花の青白い炎はそっと手を伸ばして触れようと思うと幻のように透けて崩れ、また私が離れるとちらちらと、ちらちらと、焔をあげて燃え始めるのです。 少しだけむきになって、私はその紫陽花を手に取ろうと花雪洞の咲き乱れる空間へと路を逸れて分け入ってゆきました。 するとちょうど目の前に一際大きく 私は静かに近づくとそっと手を伸ばしてみました。 はたしてその花は今までの花とは違い、消えることなくそこにあるではありませんか。 子供のような気持ちでうきうきと、私はその花弁に触れたのです。そして ―― 見覚えのある風景。そこはつい先ほどまで宴の開かれていた夢の館の裏庭です。 けれど微かに感じる違和感は、確実に異なる木々の大きさや咲く花の種類、 そして目の前にいる幼い黒髪の少年のせいでしょう。 ああ、私はまだ夢のなかにいるのだ、と知りつつも、その光景は圧倒的な質感を持って私に現実なのだと思わせようとしているようでした。 6歳ほどの、その幼い黒髪の少年。 それが誰であるのか私にわからない筈がありません。 確かに根拠はありませんが、それは自惚れでなく確信でした。 あなたはだあれ、と、その紫水晶の瞳が私に向かい問うていました。 どうやら今も昔も、無表情といわれがちなあなたの表情の中で、その神秘的な紫の瞳が一番おしゃべりであるところは変わらないのね、と、そう思い私はこみ上げる笑みを押さえるのに必死でした。 この状況に私は特に不安も疑問も感じませんでした。ただ気になったのは目の前の少年の表情です。 その哀しそうな表情に、彼の私に対する誰何を無視し逆に彼に問いました。 何故、哀しそうな顔をしているの? (……何を泣いている……?) 五白が死んだの……その卯の花の下に、今は眠っているんだよ……。 (みーが冷たくなって、その紫陽花の下にいたの……。呼んでも、動かないの……) 五白? (……みー……?) 猫。黒に……白いぶちのある猫……。 (ねこちゃん……。ずっと、友達だったの。) そう。お友達だったのね。 (……そうか……。) 私の言葉に、彼はこくん、と小さく頷きました。 彼が言い指した卯の花は、すでに終わりを迎えようとしているようです。 メイファンさまは、「さだめ」だといったよ……。 (なぜみーは動かないの?) 五白がいなくなったことも、卯の花が散ることも…… (この雨が止んでも、もう、ずっと動かないの?) でも、わからない。いつか答えがみつかるといわれたけれど、でも、……わかならい。 (どうして?どうして?どうして……?わからない。) 彼の疑問に私はどうこたえたらいいのかを考えました。 昔、私が庭先で冷たくなったねこのみーを見つけた時のように、彼はこれから「死」が何であるかを知ってゆくのでしょう。 そしておそらくそれは彼が司る力故に、私のそれよりも一層重く彼の上にあり続けるのでしょう。 だから私は彼をそっと抱き上げて、たとえこれが夢であったとしても私に伝えられるだけのことを伝えよう、そう思いました。 いつか名も知らぬ青年が泣いている私にしてくれたように…… (……いつか見知らぬ女性が、五白の墓を前にした私にしてくれたように……) 見渡せばあたりには 散りかけた卯の花。 咲き始めた紫陽花。 青い若葉の梨木。 まだ蕾のみえない百日紅。 たとえば春が過ぎて花が散っても木々にはやわらかな若葉が育ち、 強い陽射しの中で咲く花はこれからがいよいよ盛りとなるでしょう。 ―― 散る花を惜しむばかりに、それらを見失うのは本末転倒ではないかしら? そして私は幼子に言ったのです。 花はね、ただ散るのでなくまた咲くために散るのよ。 (生きている限り、出会いと同じ数だけ別れがあるもの……) 散る花を惜しむことは悪いことではないわ。でも、だからこそこれから咲く別の花もみてあげましょう。 (……別れを惜しむばかりに、大切な別の何かを見失わぬことだ……) 季節が巡って、またその花が咲いたら今度こそ、 (再び大切なものを見つけたその時に……) 散るからこそ美しいその花を、心に焼きつけておきましょう。ね? (共にあるその瞬間を……後悔せぬように生きれば良い……) と。 私に抱えられたまま少年は私の目を真っ直ぐに覗きこみ、暫らく黙っていましたが、やがてこくんと頷き、微かに微笑みました。 彼に微笑を返し、私は続けます。 それに、あなたにはきっと側にいてくれるお友達もいるはずよ。 (おまえには、いつも側に優しい両親がいるのだろう……?) うん。でも、それなら……花が散るのと同じように、いつかは友達ではなくなってしまう? (うん。でも、……それなら、パパとママともいつか別れなければいけないの?) お友達のこと、好き? (……家族が、好きか?) うん。……しょっちゅう怒られるけど……でも仲良しだよ……。……たぶん。 (うん!たまに怒られるけど、パパも、ママも大好き!) それなら、大丈夫。あなたが好きでいる限り、何処にいてもきっとあなた達は仲良しよ。…たぶん。 (……それならば、案ずるな……。たとえ遠く離れても、何も、変わりはしまい……) 優しい風が吹いて、私と少年の髪を揺らし通り過ぎていきました。 穏やかな陽射し。安心したのでしょうか、腕の中で少年が小さく欠伸をしました。 疲れてしまったのね。こうしているから、安心しておやすみなさい―――クラヴィス…… (……眠るがいい……なにも、案ずるな……―――アンジェリーク……) 少年は静かに寝息を立てはじめました。 何の警戒心も抱かれないでいる自分をちょっぴり嬉しく思いながら、私は彼の額にそっとくちづけします。 遠い、遠い未来に、私達はきっともう一度逢えるでしょう。 散ってもまためぐり来る季節に開く花と同じに―― どのくらいそうしていたでしょうか。 ふと気配を感じて振り向くとひとりの青年がそこに立っていました。 彼は私をみて驚くでもなく穏やかな笑みさえ浮かべてこう言います。 おや、珍しいお客ぞ。夢に迷うたか。 (あ〜っ。いたいた。やっぱ、夢に迷っちゃってたのね。) 春の終わり、夏の始まり。咲く花々は人を夢に惑わすと聞くがそのせいか。 (あの庭に咲く花って、ちょっとヘンな力持ってたりするのよ。酔っててうっかりあげちゃったんだけど。) 良く眠っているようよの。その幼子はよほどそなたが気に入ったとみゆる。 (あら、良く眠ってるわね。うふふ☆ 安心した顔しちゃって。アンタが誰か、わかってるのかな。) 幼子をこちらへ……そなたも、そろそろ帰らねばなるまい。 (あそこのソファに寝かせてきなよ。連れて帰りたいくらいカワイイけど、帰ったら本物がいるしねゥ) 少し、いえかなりな名残惜しさを感じつつも確かにこのままいるわけにもいかないので、 私はその青年に促されるまま幼子を預けました。 でもどうやって帰ればいいのかしら。そんなことを考えていると、青年が幼子を抱えながら空いた左手でぱちんと扇を鳴らしました。 目の前に来た時と同じ青白い炎をあげる花野が広がります。 そして青年はまるで舞を舞うかのようにゆっくりと扇で雪洞の野の中ほどを指し示し、その瞬間、波が引いてゆくように路が表れたのです。 迷わぬように、これを持ってゆくがよい。 (帰り方は……アンタのことだからわかってるか。先に行くけど、迷わないようにね〜。) そう言って彼は傍らでゆらめいている山紫陽花を手折ると私に渡してくれました。 私の手の中で、その雪洞は淡い紅を帯びた光を放っています。 では、 (じゃ、 私はもう一度青年の腕の中でねむる幼子の額にくちづけると、青年に会釈し花野の中の路へと足を踏み入れてゆきました―― 起こしてしまったか…? すまなそうに囁くあなたに私は小さく首を振ると、素敵な夢を見終った所だったのよ。そう応えました。 少しだけ、不思議そうにあなたは私を見ていましたが、ふ、といつもの笑みを浮かべ言います。 そうか……。私も夢を見ていた…。雨の降る中……幼いおまえが、猫が死んだと……泣いていた。 そして思い出した……昔私にも似たような経験があったことを……。 そこまで言ってあなたはふいに、まじまじと私の顔を覗きこみました。 やはりあなたの瞳は、あなたのなかでいちばんおしゃべりなようです。 何を考えているのか手を取るようにわかるのですから。 きっとあなたはこう思っているに違いありません。 幼い頃、散りかけた卯の花の側で話をした女性が……私に似ている、と。 そしてあなたは私に尋ねました。 ……おまえは……どんな夢をみたのだ? 素直でないあなたにもう一度、素敵な夢よ。とだけ答え、くすりと笑ってあなたにくちづけました。 あなたが返してくれる、幾つものくちづけを感じながらふと寝台の横に生けてある紫陽花がが目に入ります。 なのに今そこにある花は、明らかに三輪。 ひとつは―― 細かい理屈を抜きに考えれば ――あの夢の中で迷わぬように、と青年から渡された花に違いありません。 そしてもう一輪。 その青い青い紫陽花の色。 私が育った家の庭に毎年咲く花と同じ色の……。 唐突に胸を締めつける懐かしさについ涙ぐむ私を、少し慌てたようにあなたがやさしく抱きしめてくれました。 あなたは何も聞きません。 ただ、まるで私が幼い子供にでもなったように、そっと抱きしめながら……額に微かにわかる程度のくちづけを落としました。 夢であり、夢でない不思議な出来事。きっとあなたも同じような夢を見たに違い有りません。 この紫陽花が、日の光に霞む朝になったら、私の不思議な想い出と共に、この夢の話をしましょう。 そう。その時に話しましょう。 昔、幼い私を抱き上げてくれたのは誰だったのか。 昔、幼いあなたを抱き上げたのは誰だったのか。 (おまけに、幼いあなたに、青い瞳で、金色の髪のお友達のことを尋ねた時のコメントも、しっかり覚えているので覚悟しておいてもらいましょう。) でも今は……もう少し、あなたの腕の中で甘えていたいから……。 もう少し、このままいたいから……。 まだ明けやらぬ夜の闇の中、あなたの髪をこの指に絡めて、再び私達はくちづけを交わしました―― ◇ Web拍手をする ◇ ◇ 「あとがき」へ ◇ ◇ 「青籃さん画『腕』」へ ◇ ◇ 茶霧さま作「腕で夢をはぐくむ」へ ◇ ◇ 「彩雲の本棚」へ ◇ ◇ 「『腕』・一枚の絵から(目次)」へ ◇ |