美幻の徒然漢詩日記

風花に五白という猫を弔いたる日のこと
1・月の水晶



今日世話好きの地の守護聖と午後のお茶を飲んでいる時に、彼が「猫はいりませんか」と問うてきた。
飼っていた猫が子を産んで引き取り手を探しているらしい。
いつも頭に布を捲きつけているこのおっとりとした少年。
彼もどうやら聖地に慣れてきたようである。
そして地の守護聖が猫を飼うはしきたりではあるまいに、偶然は面白いものだと思い、私は笑った。
笑っている私を彼は不思議そうに見ていたが、暫らくすると
「あ〜、良くね、ねずみをとってくれるんですよ〜。
そして、首尾良く捕まえると嬉しそうに、そして自慢げに見せてくれるんです。
その姿が、なんとも微笑ましくて……」
彼の様子は本当に楽しそうだった。
「如何ですか?たしか、書物がねずみに齧られたと、以前おっしゃっていたでしょう。
それを思い出しまして」
そうなのだ。どうやら私の持っている書物はいたく鼠殿のお気に召すようで、
虫干しの最中にかじられた跡を見つけて唖然となることも少なくはない。
だからこそ、昔、彼 ―― 前任の地の守護聖・ラグランも私に猫を飼うことを勧めたのだろう。
さて、さて、どうしたものか。
正直私はその時、少年の好意を受けるかどうか迷ったのである。
猫は嫌いではない。いや好きなのだ。
そう、その昔私は一匹の猫を飼っていた。
名は、五白(ウーパイ)という ――

◇◆◇◆◇

「メイファン。仔猫はいらないか?」
穏やかな聖地でのある日、そう言ってきたのは同僚の地の守護聖・ラグランだった。
浅黒い肌に濃い金茶の髪、角度によっては黒にも灰にも見える鈍い青の瞳。燦燦と照る太陽の下にこそ似つかわしそうなこの青年は、本来のその外見に似合わずあまり外出を好まない。
いや、外が嫌いという訳ではないのだ。
ただ、彼は単に地の守護聖の宿命的な性質 ―― 所謂(いわゆる)『本の虫』だったのである。
尚、ここでいう「本来の外見」という但し書きは、 彼の掛けている如何にも学者然とした黒ぶちの眼鏡によって彼の印象がだいぶ異なる故である。
少し早めだったものの私とほぼ同い年、同時期に聖地を訪れたのその同僚は、 当時の聖地の中で唯一先達、後達を気にせず付き合える友人でもあった。
もっとも私には、歳は違えど幼い友人達もいたのだが。
「猫か。悪くはないが、何故突然そのようなことを?」
問い返す私に彼は癖である人差し指で眼鏡を直すしぐさをした。
この癖は、彼が何か言い難いことを言おうとしていたり、若しくは嘘を言おうとしていたり、さらには照れていたり。
兎に角そんな感情が動いたときに出る癖である。
「いや、別になんでもないのだけれど。ただ、飼っていた猫が仔猫を生んでね。
以前、鼠が本を齧って困るといっていただろう。それを思い出したんだ」
彼は再び眼鏡を直した。
「それは在り難いが。で、それだけであろうや?理由は」
どうやら彼は、自分の癖には気づいていないのだろう。
なぜそんなにしつこく聞くのかというように怪訝な表情をした。
そして次の言葉に私は逆に、彼に理由を問いただしたことを軽く後悔したのである。

「…… 気が、紛れるかと思った。もっとも、なんの相談も無くひとりでどんどこ突っ走った奴なんかに、心配なんか無用かもしれないけどな。馬鹿が」

彼は、先日の出来事を言っていたのだろう。
そう、この聖地におあす最も尊い方が(かんばせ)を露わにしたあの日、私が永遠に失ったであろうものを、 この友人は知っていたのだ。
眼鏡の分厚いレンズが光を反射して彼の表情は私には見えなかった。
そしてただ、憮然とした声で再び言う。
「で、猫はいるのか、要らないのか?」
持つべきものは良き友だと、その時私はそう思い、心の奥を熱くする何かを感じた。

「在り難く頂戴すると致そう。そうそう、あの幼子らにも分けてやってはどうだ。きっと喜ぶであろう故に」


執務室に入っていくと幼子が1人机の前に座り、神秘な輝きを見せる水晶球を覗いていた。
入って行った私に気づいたのであろう彼はこちらを向いて小さく言った。
「……こんにちは……」
薄暗い部屋。物音一つしない静寂。ただ蝋燭の炎がちらちらと部屋の中にゆれている。
この部屋の様子は、彼の前任者から少しも変わっていないと言うのにこの圧迫するような寂寥感は何なのだろう。
目の前の幼子のその紫の瞳はこの暗い部屋の中で何を見ているのだろう。
何とも言えぬ思いが過ぎった。
「何をしていた?少し部屋が暗くはないか、遮布(カーテン)を少し開けてもよいか」
幼子は答えた。
「水晶を……みていたの……。すると、いろんな風景がみえて……。まえみたいに、旅をしてるみたいだった……。自由に……」
『自由に』と呟いた幼子の言葉を聞いた瞬間に私を捕らえた憐憫の想いは筆舌に尽くし難い。
彼には故郷というものが無く、一族は、旅を好む民族だったと聞く。
故郷を何よりも愛しく思う私が先日、故郷(ふるさと)の曲を胡弓(こきゅう)にて奏した時、幼子自身から聞いたことだった。

そうか、ではそなたの故郷はこの宇宙ということぞ。
私の故郷も、先の闇の方の故郷も、ジュリアスの故郷も皆、皆そなたの故郷なのだな。

そう言った私に
―― じゃあ、ふるさとがたくさんだね
と。
微笑んだその顔は、どこまでもあどけなくそれだけに、守護聖と呼ぶには痛々しい幼子のものだった。
かつてこの幼子は大地を寝床として、そして天漢(ほしぞら)を宿の屋根として日々を生き、暮らしていたのだろう。
なにものにも囚われること無くその身は天翔ける飛龍の如くただ、ただ自由だったに違いない。
そう、この地に訪れるまでは。

「……メイファンさま……?」
物想いをしていた私を不審に思ったのだろう。
クラヴィスは心配そうに私の顔を覗きこむ。
「あ、ああ、すまぬ。水晶球が、まるで月のようだと、思うてな」
咄嗟に言った言葉は嘘ではなかった。
彼がここに訪れた時、唯一手にしていたその透明にきらめく水晶。
ほの暗い執務室で蝋燭の明かりを映し輝くそのさまは、天に在って冷たく冴える月のようであった。
彼はその言葉ににっこりと笑う。
「シラーンさまもね、同じことをいったんだよ。これをみて、『月のようにうつくしいね』って、誉めてくれたの……」
前任の闇の方にほめられてよほど嬉しかったのだろう。そう言う彼の頬が僅かに上気している。
「シラーンさま、どうしているかな……げんきかな……。知ってるの……。ジュリアスは何も言わないけど、きっとシラーンさまに会いたがってる……」
そう、先の闇の守護聖がこの地を去って、一番辛かったは、光の守護聖・ジュリアスであろうことを彼も知っているのだ。
目の前の幼子が、彼が去ったのは自分の所為、などと思わなければ良いが。
普段はお気楽な性格なのだが、どうもこの2人に対してはついつい甘さが出るのか老婆心に考えてしまうらしい。
「元気であろう。あの方のことだ。確かにもう会えぬかも知れぬ。だがその代わりそなたがジュリアスの良き友人となればよい」
言った私に幼子は、こくん、と素直に頷いた。
そして、次の瞬間、あっ、と小さく言うと慌てて私に尋ねる。

え〜と…… メイファンさまにおかれましては、今日はどのようなごようじですか? これでよかったかな……

悪いと思いつつ、思わず吹き出して笑ってしまった私にクラヴィスは恐る恐る尋ねる。
「……ちがった……?」
おおかた、ジュリアスに
『このような時は、こうしてお迎えするのだ。わかったなっクラヴィスっ!』
とでも言われていたのだろう。すっかり忘れていたところを、先程のジュリアスの話題で思い出したのだ。
私は笑いをかみ殺しながら答えるのが精一杯だった。
「違わぬ、違わぬ。それでよいのだ。よう、できたな」
そう言って彼の頭を撫でる。
クラヴィスは嬉しそうに、こくん、と頷いて微笑んだ。
「そうよの、闇の守護聖殿。此度の用件は『猫』ぞ」
「……ねこ……?……にゃあ、の、ねこ?」
「そう、猫。にゃあ、の、猫」
彼は不思議そうに私の目を覗き込む。私は続けた。
「地の守護聖宅にて、仔猫が生れた故に、私やそなたにくれると言う。今から見に行かぬか?」
クラヴィスは今度は勢いよく、こくん、と頷き目をきらきらと輝かせている。が、
ふと思い出したようにふるふる、と首をふる。
「どうした?」
尋ねる私に、彼はすでに執務室の外へと向かい小走りに駆けながら言った。
「ジュリアスもね、よんでくるの。だから、もう少し待ってください……」
ばたん、と扉の閉まる音が聞こえた。
無論、この後ジュリアスの執務室に寄る予定であったのだが、 彼のその行動がなんとなく嬉しく私は再び、くつくつと笑みを漏らしていた。
さてさて、人が見たら何と言おうの。まあ、それはさて置き。
隣の部屋から
『執務中だぞ』『何も猫が嫌いなどとは言っておらぬ』『今回だけだからなっ』等々。
そんな声が聞こえてくるであろうことを予想しつつ、私はゆっくりと部屋の遮布(カーテン)を開けた ――


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