美幻の徒然漢詩日記

風花に五白という猫を弔いたる日のこと
2・卯の花の香



大方の予想通り、隣の執務室にいた幼子は
『執務中だぞ』『何も猫が嫌いなどとは言っておらぬ』『今回だけだからなっ』等々。
そんなことをいいながら、それでもふたり連れ立ってやってきた。
私と目があうと、彼は少しだけ気まずそうな表情をしたあと、いつものように礼儀正しい挨拶をする。
その一瞬の『気まずそうな顔』というのが、恐らくは
『猫が見たくて執務を放り出すとは、まるでコドモのようではないかっ』という、彼の中の葛藤のせいだろう。
それがありありと見て取れるあたりが、なんとも、可愛らしい。
もっとも、私がそんなことを考えていると知れば彼は烈火の如く怒るであろうから、これは秘密にしておこう。
一方、クラヴィスの方はどうやら居ても立ってもいられぬようで、
「……はやくいこう」
と、目を輝かせながら私の袖を引っ張った。
彼は、元来活発な性質の持ち主なのかも知れない。ふと、そんなことを思う。
「急がずとも、猫は逃げぬよ」
「……足があるから逃げるかも……」
彼の、言われてみればもっともな返答に私は苦笑しつつ、ふたりをつれてラグランの元へと向かった。
外へ出ると、あたたかな風が、ねっとりとした甘い花の香りを含み、我らの元を通りすぎた。
どこかで、卯の花が咲いているのだろう。
私の館の庭の空木(うつぎ)の潅木も確か、白い淡雪のような花を咲かせていたな、と思い起こす。
森の奥で鳴く不如帰の声。それは、過ぎ行く春、そして訪れる夏の知らせ。
常春の聖地、とはいえ多少の季節の移り変わりのようなものがある。
だからこそ、花は咲き、散り、また巡り花をつけるのであろう。その理を、あの方もご存知のはず。
何故か、それが私にはとても嬉しかった。
ただでさえ心が踊るような、晴天である。
そんな中で降って沸いたこの外出が嬉しいらしく、ふたりの幼子は飛んだりはねたりしゃがんだり、と落ち着きがない。
「そのように騒いで転んでも知らぬぞ」
託児所の保父のようよの……私は苦笑しながらも、楽しんでいる自分に気づいていた。

そうこうして歩いていくうち、ラグランの館にたどり着く。
玄関の前で声をかけると庭の方から、こっちだ、という声が聞こえた。
縁側に腰掛け、本を読んでいた彼は目も上げずに ―― 読んでいる本が終わるまで、彼のまともな対応は期待できない。
「それ」
と、足元の箱を指差した。
中には親猫らしい白猫と、3匹の子猫が、実に気持ちよさそうに眠っている。
ふたりの幼子はうわあ、と喚声をあげて箱を覗き込み、猫をその手に抱いた。
しばらく喜んでいるふたりの姿を眺めていたが、さて、私ももらう猫を選ぼう、と思ったときである。
クラヴィスが呟いた。
「……にてるね……」
ジュリアスはうむ。と頷くと
「確かに」
と同意している。
彼らの意見が一致するという極珍しい事態は如何にして起こったのであろう。
好奇心に駆られて彼らの視線の先を確認する。
彼らの視線は、現在クラヴィスが手に抱いている猫 と、私の顔の間を行き来していた。
その猫は ―― 黒猫だが、四本の脚の先と額の真中の計五箇所がぽつりと白い。
(余談だが、このときの私の服装は黒を基調とした故郷の服で、袖元と足元からはゆったりとした白い布が出ており
更に言えば、忘れている方も多いかと思われるが、私は生まれつき左前髪のひと房が白い。
…… 断じて、白髪ではない。あくまでも生まれつきである)
なんともはや。彼らは、その猫が私に似ている、そう言っていたのであった。
「決まりだな」
いつの間に、本を読みおえたのだろう。ラグランが横にたって、にやにやと笑っている。
「そなた、はじめからそうおもって私に声をかけたな?」
ラグランはクラヴィスの手から猫を摘み上げると私に持たせる。
「なに、そで振り合うも他生の縁。さ。おまえら、そうしていると他人にはみえない」
私の手の中で、猫がなあ、と鳴く。
その言葉に幼子らが楽しそうに笑う。
「何を訳のわからぬ喩えを」
この男は昔から『縁』という言葉を好んで使う。
「何か問題でもあるというのか? はじめから、どれにしろ猫はもらうつもりで来たのだろう」
「そなたにからかわれるために来たわけでないことは、確かと思うが」
私は、不機嫌を装おうと努力したが、それは無理なようであった。
何故なら、私自身、手の中でぬくぬくとしている彼が、妙に他人には思えなくなってしまったからである。
クラヴィスが楽しそうに尋ねる。
「…… きまり?」
ジュリアスも言う。
「決定ですか?」
ラグランがもう一度言う。
「決まりだな」
私はため息をわざとらしくついてから微笑み、言った。
「名は ―― そうよの、『五白(ウーパイ)』としよう」
五白が嬉しそうに、なあ、と鳴いた。
花弁アイコン
彼 ―― 五白のそれからの我が家での活躍は目覚しいものがあった。
彼が来てから虫干しのたびに、書物がかじられていることを嘆く必要はなくなり、ジュリアスやクラヴィスに食べさせようと取っておいたせっかくの菓子にいつの間にやら歯形がついていることもなくなった。
彼の好物は米の飯に魚。周囲には不評な私の手料理も文句なく食べてくれる。
彼のお気に入りの場所は庭の空木(うつぎ)の潅木の下であった。
私は梨花の下で詩を詠み、彼はその脇の空木(うつぎ)の下でにゃあ、と鳴く。
それが、我らの日課なのだ。
幼子達は、五白と遊びにしばしば館を訪れる。
遊んでもらっているのは五白なのか、子供達なのか、はたまた私なのか。
「五白は卯の花が好きなのだな。いつもここで眠ってる」
「うん、メイファン様がいつも梨の木の下にいるのと同じだね」
そういった彼らの会話に、私はいつも苦笑する。
彼らはは無邪気に会話を続けていた。目を覚ました五白も加わっている。

「……梨の花も、卯の花も、白くて雪ににてるね……」
「私は『雪』というものを見たことがない」
「にゃあ」
「じゃあ、今度みせてあげる……ほんものでないけど……水晶で……」
「そうか。たのしみだ」
「にゃあ」

少年達は微笑み、聖地では見ることのない雪の名を挙げていく

粉雪(こなゆき)根雪(ねゆき)細雪(ささめゆき)
吹雪(ふぶき)風花(かざはな)名残雪(なごりゆき)

私はそれらを花に喩えて呟く

水木(みずき)木蓮(もくれん)花橘(はなたちばな)
梨花に桜花(おうか)に、雪柳 ――

あたりには
透き通る春の日
やわらかな緑の草
淡雪の如く散る卯の花
その上に
遊びつかれて眠る幼子と猫
幸せな、その眠り

素直に、猫を飼ってよかったと私は感じていた。
だからこそ、ただでさえ猫と人とに流れる時間が違うこと、そして更に普通の人とは我らに流れる時間が違うこと、 それによって遠くない未来に訪れるであろう別れを。
私は忘れていたわけではないのだ。
断じて。


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