その日の朝早く、朝食時になっても姿を表さない彼を探し、
空木の木の下に来た私は、
そこに冷たくなった五白の
躯をみつけた。
すでに人間で言えばかなりの老齢となっていた彼である。大往生、という言葉に相応しいだろう。
私もできるなら、人生の最期の時は彼のように気に入った花の下で眠るように逝きたいと、そんなことまで思う。
彼を抱き上げると、私は館へと入る。
今日の執務が終わったら、あの空木の木の下に彼を埋葬しよう。
季節が訪れるたび、淡雪を散らすそれは卯の花の墓標となるだろう。
季節が訪れるたび、私は彼を思い出すだろう。
館に入り、息を呑む。
そこに、闇の守護聖がいた。
何故か、いつもの幼さが、そこには感じられなかった。
ああ、彼は、闇の守護聖だったのだ、と。
改めてその時私は思った。
彼は私に言った。
「……これが、『死』?」
私は頷いた。
「五白は、死んだ。そう、これが死というもの。命あるものの
定」
彼は、私の腕の中に、眠るようにいる五白をそっと撫でた。恐らくは、その体の冷たさに驚いたであろう。
「五白は、そこにいるのに、もういない……。これが、『死』……」
泣きそうな声、なのに彼の表情は正直ぞっとするほど無表情であった。
そんな私の心を見透かしたように彼は続ける。
「あなたは、死が怖い?…… 闇が怖い ―― ?
闇の力が存在しなければ、五白は死なずに済んだ……?」
私は首を振る。
「闇の力が存在しなければ、五白は生まれては来なかった。それを忘れてはならぬ」
「あなたの、言う……言葉の意味が……わからない……」
彼は、小さく首を振った。私は彼に、こうとだけ言った。
いつか、そなたは光の守護聖と共に、そなた自身の答えを得る時が来るであろう。
と。
この少年に、もっと別に伝えるべき言葉があったかもしれない。
けれど、当時の私にはそれが精一杯であった。
今でも、後悔を禁じえない、苦い苦い想い出である ―― 。
◇◆◇◆◇
朝食を共に取る頃には、彼はもう、普段の様子に戻っていた。
もちろん、五白を失った悲しみが我らの心を支配してはいたのであるが。
連れ立って宮殿へ赴き、彼を執務室の前まで送る。
午後、五白の埋葬をしよう、そう言うと彼はこくん、と頷き
「ジュリアスも連れていくね……」
そう言って静かに執務室の奥へと消えていった。
彼のその後ろ姿を見て、私は感じたことがある。
あの時、私は次の言葉を言えばよかったのかもしれない。と。
―― 人が死を怖れるのは、それは『死』そのものでなく、それと共に訪れる別れである。
人は別れを悲しむが故に、それを怖れ、死を厭う。
だが、それは、『生きている』が故に背負う傷み。
共に有した時の、尊ければ尊いほどに背負う傷み。
旅にいずる死者の魂は、闇の力に抱かれて、何処までも安らかなのであるに違いない。
闇の司る『安らぎ』とはそういう意味だ。
だがこれは私の考えであり、私の答えである。
だからこれは、先ほどの言葉へと続く。
いつか、そなたは光の守護聖と共に、そなた自身の答えを得る時が来るであろう ――
今ならば、言えるかもしれない。そう思う。
だが、残念ながらその時、私はまだ、彼に私自身の考えを冷静に論じることができるほど大人ではなく、
そして闇の守護聖自身
物事には生きている人の数だけの理が存在し、自分自身の答えは自分自身で見出さなければ意味が無い、
という私の持論を理解させるには幼すぎたであろう。
結局その時、私は彼がいつかは、この時私が言いたかったことを理解出来る時が来る、そう信じるしかなかった。
執務を終え、館に戻った私は以外に淡々と五白の小さな体を空木の木の根元へと埋めた。
土を元通りにし、なにか、不可解な物足りなさを感じる。
そして、その理由に気づいた。
ああ、もう彼のにゃあ、といういつもの鳴き声を聞くことはないのか。
そう思いながら私は梨花の元に立ち、世界を見る。
不思議なもので悲しい時、この世は信じがたいほどに鮮烈な感慨を人に与えながら輝かんばかりに美しくなる。
脳裏に新しい詩が一瞬にして浮かんだ。
壯哉造化功 ―― 世界のなんと美しいことか
けれど、それ以上の言葉を私は紡ぐことができなかった。
そうだ。今はやめておくべくであろう。いつか機会があったらこの続きを詠めばいい。
そして、それはなるべくなら新しい生命の誕生を喜ぶ時が良い。
今はただ、この光も、風も、花の香もすべて五白の弔いに捧げよう。
私がそう思ったとき、ふたりの幼子が、春の日を浴びて向こうより駆けて来る。
その手に、この小さな墓に供えるのであろう、野の花の花束を持って。
息を切らしている彼らの頭を撫でてから、我らはゆっくりと墓の前に手を合わせる。
手を合わせながら、クラヴィスが呟いた。
「メイファン様、今朝はごめんなさい……。もう、大丈夫 ……」
いつもなら『?』と疑問符を出すジュリアスは黙って黙祷を続けていた。
意外に彼らは、私が思うより早く、彼らなりの答えを見つけたのかもしれない、そう感じる。
風が吹き、卯の花が今年もやわらかな緑の草の上に淡雪のように散った。
何を思ってかジュリアスはその花びらをかき集めはじめた。
何をしているの、というクラヴィスの問いに、彼は気まずそうに言う。
「天にいる五白にこれをやろうと …… 思っただけだ」
クラヴィスは黙ってこくんと頷くと、しゃがんで一緒に花を集め始める。
そして、ふたりはそれを蒼穹の天へと放り上げた。
風にあおられはらはらと、はらはらと、それはまるで。
「風花みたいだな」
「…… 風花 …… みたいだね ……」
それに答えるように、どこかでにゃぁ、と、五白の嬉しそうな声が聞こえたような、そんな気がした ――
自有五白猫 ―― 五白という猫 有りてより
鼠不侵我書 ―― 鼠 我が書を侵さず
今朝五白死 ―― 今朝 五白死せり
祭与飯与魚 ―― 祭りて 飯と魚を与う
昔爾齧一鼠 ―― 昔
爾 一鼠を齧み
銜鳴遶庭除 ―― 銜え鳴きて庭除を遶れり
欲使衆鼠驚 ―― 衆鼠をして驚かしめんと欲す
意将清我庵 ―― 意は将に我が庵を清めんとする
有勤勝鶏猪 ―― 勤 有ること鶏猪に勝る
世人重駆駕 ―― 世の人 駆駕を重んじ
謂不如馬驢 ―― 馬驢に如かずと謂う
已矣莫復論 ――
已んぬる
矣 復た論ずる
莫らん
爲爾聊欷歔 ―― 爾の為に
聊か
欷歔せん
(「祭猫」部分抜粋・梅堯臣)
五白、おまえが来てからというもの
鼠は私の書物をかじらぬようになった
そのおまえが今朝死んだ。
おまえが好きだった飯と魚をあげて弔おう。
昔、おまえが一匹の鼠をくわえ
鳴きながら庭を巡回していたことがあったな。
あれはああやって鼠を驚かし
私の庵から追い出そうとしていたのだな。
親馬鹿ならぬ、飼主馬鹿でもよい。
おまえは賢い猫だったと……そう思うている。
その働きは立派なもの。
世の中、何かと馬や驢馬を好み
それに勝るものはない、などという者もおるが ……
ああ、もう、理屈もなにもいらぬ。
おまえの為に、今はただ。唯。いささかの涙を流そう ――
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