八木重吉ノート(3)

 

 


第3章 『秋の瞳』の背景──御影時代の「詩」と「信仰」

 前章「哀しみの源泉」で、八木重吉の抱えていた「哀しみ」の原因をいろいろ考えてみた。ぼくのひとつの観点は、重吉の「哀しみ」は彼の信仰と密接な関係があるということだった。彼の信仰は彼の「哀しみ」の源泉のひとつであり、決してその「哀しみ」を慰める手段ではなかったのだ、というのが一つの結論だった。御影時代の八木重吉にとって、キリストは「慰める者」ではなく「裁く者」であったし、その前に恐れおののかなければならない存在だった。そして常に重吉に向かって、全てを捨てて自分についてくるように命じる存在だった。それが出来ないことで重吉は苦しみ抜いたのだった。その苦しみは彼の「哀しみ」をますます底無しのものにしていったのである。
  もうひとつの観点は、重吉の「哀しみ」の原因に、世俗的な挫折感があるということだった。その一つに教師の仕事に対する絶望と嫌悪があった。そんなに望んで就いた仕事ではなかったようだが、この職業への違和がいかに深刻であったかは既に述べた通りである。教職は彼の天職ではなかった。重吉は彼なりに、教職の深い意義を見出そうと努めたが、結局彼にとって教職は家族を養う手段以上のものとはならなかったのである。そういう重吉を更に苦しめていたのは、名声への熱い思いであった。

まっくらな座敷に ふとゐることがある
ふところ手して かんがへる そのことは
えらくなりたいといふ 慾望である、にがい慾望である、
だが──遂に それは 途方もなく 大きく なってしまふ、

『わたしといふものが すきとほってしまって、
こうおもひたいとおもへば ただちにそうおもへ、
まるで 花が咲く瞬間のようなこころが常住となれ!』
これが わたしの ねがひとなってくる、こころおどるねがひである、
                   『大和行』

「むなしきは名」と、さとらしめたまへ、神よ、
何の名ぞ? 何の名ぞ!
あらゆる名は むなしい名ではないか?
「私」でなかったら 誰れになりたいといふのか?
   (後略)
                   『不死鳥』

かりに今宵は聖者をまねて
地に名をのこしゆける人みなを
「名」にしたがへるがゆえにくさしてはみたけれど
ああ われも 心いたきまで「人の栄」をあへぐ
                   『幼き怒り』

 「えらくなりたいといふ慾望」が、若い八木重吉の心にうごめいていたとしても、少しも不思議なことではない。むしろ若者として、当然の欲望であったろう。しかし、重吉はその欲望を「苦い慾望」という。それは、重吉にとって「名」は否定さるべきものであったからに他ならない。この世での名声を求めることの虚しさは、イエスの繰り返し説いたことであったし、イエスの言葉に忠実であろうとした重吉は、「えらくなりたいといふ慾望」に罪悪に近いものを感じたであろう。その上「えらくなること」の現実的な不可能性も一方で重吉は感じざるをえなかった。重吉が求めていたのは詩人としての名声であったが、一冊の詩集も出版することができない貧しさが、彼を苦しめていた。その苦しみの中で、重吉は誰の目に触れることもない「小詩集」をせっせと編み続けていたのである。表紙を自分でデザインして、リボンで綴じて、といった詩集作りに重吉が満足していたわけではなかろう。いつか一冊の詩集を出版して、詩人としての名声を勝ちとることを夢見ていたはずだ。しかし、その夢はなかなか実現せず、重吉は焦燥にさいなまれる。そして、また一方では、そういう自分のありかたを「苦い」ものとして感じさせる彼の信仰があったわけである。そして、もしかしたら、かれはその信仰に、自分の夢の挫折の正当化を求めていたのかも知れない。「『むなしきは名』とさとらしめたまへ、神よ」という祈りは、己がその「名」を獲得できないという絶望感の中にあるかぎり、自己正当化の匂いを拭いきれない。「聖者をまねて地に名をのこしゆける人みなを『名』にしたがへるがゆえにくさす」という行為に至っては、「ひがみ」以外の何物でもなかろう。名に従った人をその故にくさすのは、決して聖者のすることではあるまい。そうした疑似聖者の行為によっては、逆に「心いたきまで『人の栄』をあへぐ」自分を発見せざるをえないのも、むしろ当然といえるだろう。
 「名声欲」は、それが、そのためには全てを犠牲にしても顧みない、というようなものであれば、「罪」でもあろう。しかし、それほど極端なものでなければ、むしろ人生を活気づけるものであろうし、特に芸術家にとっては、不可欠のエネルギー源であるとも言えよう。名声を求めることと、真の芸術を求めることとは、多くの場合芸術家の中では微妙な形で共存しているのであろうから、ひたすら名声を否定しようとするのは、あまりにも極端な純粋主義であろう。しかし、八木重吉の心を支配していたのは、いつもこの種の「極端な純粋主義」だったのだ。そしてこの「極端な純粋主義」は、重吉の芸術活動そのものをも、常に内側から批判し、告発してやまなかった。
 普通は、重吉にとって「詩」と「信仰」は幸福な一致をしているように受け取られているが、御影時代の重吉にとっては、その二者は常に厳しい緊張関係を強いられているのである。八木重吉の信仰生活あるいは求道生活は、決して家庭生活とは相入れなかったし、詩を書くこととも相入れなかった。それは、彼の信仰が「全てを捨てること」をあくまで要求したからだった。しかし、重吉は、「詩」も「家庭」も捨てることができなかった。そればかりか、その相入れない三者を強引に自分の生活の場で、共存させようとしたのだ。そこにこそ、八木重吉の苦しみがあり、生の実相があったのだ。そうでなければ、「この虹をみる わたしと ちさい妻/やすやすと この虹を讃めうる/わたしら二人 きょうのさいわいのおおいさ」と書いたすぐ後で、「かなしみは しずかに たまってくる/しみじみと そして なみなみなと/たまりたまってくる わたしの かなしみは/ひそかに だがつよく 透きとおってゆく」と書かねばならぬ理由がどこにあろうか。「ちさい妻」と「虹をみる」ことで十分自足していたなら、八木重吉の「詩」はなかった。どんなに家庭が幸福でも、重吉は、そこに「天国」を見ることはなかった。そこが「天国」でない以上、虚しいのだ。どんなに、妻がかわいくても、美しくても、妻ほ「天使」ではなかった。「天使」でない以上、妻はやはり重吉にとって十分満足すべき者ではないのだ。それが当時の重吉の心理的構図だった。

   私の幻滅

なにゆえに
わたしは妻に幻滅をかんじるか、
わたしの妻もにんげんであって
はなをかみ べんじょへゆき
天使そのものではなかったゆえに、
なにゆえにわたしはこの世をいかるか
にんげんがみな 小さき神でないゆえに、
なにゆえに わが児をうつか
「子供は天使」でなかったから、
やはり私の子、人間の子であったから、
なにゆえにみづからをいきどほるか、
こうありたいと ねごうても
わたしみづからがそうなってはくれぬゆえ、
           大正十三年『寂寥三味』

 

妻よ
わたしがあなたをほめないのは
せんぱくな家庭であるよりは
悲しき家であれとねがうからです
完いものをあへぎもとめるわたしのひとみには
どんなものでも不完全にみえるのです
まことの天上のひとでないなら
わたしはもはやその足元にひざまづかないのです

妻よ
わたしはあなたにきびしいとおもふか、
だが、妻よ、
わたしはわたしみづからにたいして
その何倍きびしい人間であるだろう、
わたしはたえず
するどい剣をみづからのたましひにかざしてゐる
妻よ
わたしがあなたを一言叱るときは、
わたしの胸はきりきりと痛みころげてゐるのだよ、
          大正十三年『純情を慕ひて』

 それにしても、自分の妻が、便所へも行くただの人間だったということで「幻滅」するとは何という「純粋主義」だろう。「にんげんがみな小さき神でないゆえに」「この世をいかる」とは、何と傲慢な態度だろう。イエスでさえ、人間が人間でしかないからと言って怒ったことは一度もないではないか。重吉はいみじくも自分自身で語っているように、「完いものをあへぎもとめるわたしのひとみには/どんなものでも不完全にみえる」のだ。それは重吉の「業」のようなものだ。そしてそういう重吉が本当に心の底から願っていたのは「わたしといふものが すきとほってしまって、/こうおもひたいとおもへば ただちにそうおもへ、/まるで 花が咲く瞬間のようなこころが常住となる」という境地に至ることだった。それこそ「完い境地」であったはずだ。そこでは、キリスト(神)と、重吉が常に一対一で向き合っている。そのキリストの前で、自分の全てが「すきとおってしまう」こと。これが重吉の願いだった。他者への傲慢とも見える態度も、あまりにも狂気じみた純粋志向も、みなこの願いの熾烈さの反映と見るべきなのかもしれない。こうした願いを胸に、重吉の信仰はますますその純粋主義・厳格主義の度合いを強めてゆく。

 八木は一心に詩作に打ち込む一方、きびしい真剣な求道をつづけていた。あるときなど、いきなり私にむかって「お前は罪ふかい、舌を噛んで死んでしまえ」とつきつめた顔をしていうことがあり、そのときは私もただ茫然とするばかりであった。


吉野登美子『琴はしずかに』

 重吉の信仰の純粋主義・厳格主義は、こんな所まで来ていたのだ。自分の最愛の妻をさえ「罪深い者」として断罪せざるを得ない信仰の厳しさ。「妻」に天使をあくまで求める純粋志向である。

あらゆるものをすて
十字架を負ひてわれにしたがへ、と
ああ なんといふきびしい仰せでせう、
しかし わたしは あなたにひきつけられてなりません
ただひとり ただしい方のようにおもへてなりません、
ささやかではありますが
わたくしには捨てきれぬものがあります、
わたしは妻と子をやしなわねばなりません
みづからの弱いからだをころしたなら
わたしにのこされたものも死ぬかもしれません、
われらをささへんがために
こころにもないなりわひに追われてをります、
あのころ、──そうです、
もっともっと胸のおもひもやわらかなころです、
あのころはもっとしたしくあなたを仰ぎ得ましたのに、
だのに、だのに、あなたのことをかんがへて
もういくねんになるかしれませんが
わたしは泪もながし得ぬみじめな者になってしまいました、
ゆけばゆくほど胸いたむみちです、
あなたのお歌はだんだんきびしくなってまゐります、
わたしは ともすると
とりつく島のないぜつぼうにもだへます、
ああなんといふ 罪のふかさでせう
ひとつのよいことをしようとおもへば
二つのあしきおもひが掩ひかぶさってきます、
その二つをふせごうとおもへば
四つのむなしきおもひがうまれてきます、
しょせん じっとこうしてゐるほどのことさへも
根限りのつとめからさへでてはきません、
捨つることもできないのです、
といふて、捨てたにしたところが
捨てたそのものに未練がのこるわたしでせう、
そしてほんとうに捨てるといふことは
この命をさへ捨てねばなりますまい、
命を捨つるものは生くべし、と
あなたはあきらかに仰せられます、
けわしいみちです、
わたしのようなものにはゆきがたいたかさです、
なんぢの信なんぢをすくへり、と、
あなたはあきらかにこうも仰せられます、
ああ、ゆこう、
ほとんど死をみつめてゆくようなおもひではあるが
あゆんでみよう あゆんでみよう
死ぬるその日まで あゆんでゆこう
わたしにはなしとげがたいみちである、
しかしいちばんひきつけられるみちである、
ねうちのないことはあきらかである
ただ死のようなひとつのねがひがあって
ささやかではあるが
そのねがひの芽がわたしをこのみちへすひよせてゆく、
                  大正十三年『幼き歩み』

 この詩を読んでいると、重吉の唯一の願いが何であったか、本当によくわかる。白分の中からあらゆる欲望と執着と罪を拭い去り、自分自身を透明にすること、そしてイユスに従うこと、これだけを、重吉は真剣に求めたのだと言える。重吉は妻子を捨てられないという悩みを繰り返し歌っているが、それ以上に深刻だったのは、彼の心の「あしきおもい」だったろう。そうした「罪深さ」がある以上、イエスの道は「なしとげがたい道」である。登美子夫人への罵倒は、勿論重吉自身にたいするそれでもあったわけだ。そこに、重吉の深い絶望がある。その絶望と重吉の信仰は常に隣り合わせとなっている。「自分にはなし難い道だが、歩んでゆこう」というのが、重吉の信仰のありかただ。救いは約束されていない。いやむしろほとんど絶望的に見える。それでもあゆんでゆこうというところに、重吉は真実の信仰の姿を見たのだ。
 そうした信仰を生きようとしていた重吉にとって、詩は、重吉の短歌がまず登美子への愛の過程で生まれてきたのと同様に、求道の過程で、信仰の要請のあまりの厳しさの中での慰めとして生まれてきたように見える。

詩は、私の酒にすぎない。
私は、「詩」を飲んでゐたい
酔いがさめると、白ちゃけた世界がみえてくるぞ!
「神」への片恋がくるしくて
私は終日「詩」に溺れてゐる。
「神」への初恋も、
この臆病なわたしの心が邪魔になる。
             大正十二年『痴寂なる手』

 これほど重吉が「詩」と「神」と「自分」との関係を明快に語っている詩句は珍しい。八木重吉が専ら「キリスト教詩人」として、紹介もされ、読まれもしてきたことへの反動で、近年は「キリスト教詩人」という枠を外して重吉の詩を考えようという動きがあるが、八木重吉からキリスト教を除いてしまったら、一体何が残るというのだろう。八木重吉にとっては、何よりもまず「神への恋」が優先して存在した。それがすんなり成就してしまえば、彼は決して詩人になどならなかっただろう。その「神への恋」が成就しないゆえに、「詩」の中で、のたうちまわった。「詩」に溺れ、「詩人としての名声」に胸こがし、みずからの「詩」に絶望したのだ。

キリストをみつめてゐる
わたしは ふとも おそろしくさへなる
空が おそろしくなるときのように、
わたしは そのとき
はっと キーツをかんがへます、
おそろしかった空に しづかな虹がわいたように、
              大正十三年『不死鳥』

 「キーツ」とは、もちろん重吉が愛してやまなかった詩人だが、ここにも、重吉における「詩」と「神・キリスト」の関係が描かれている。キリストはあまりに厳しく恐ろしい、しかし、キーツは虹のように優しい。重吉も、信仰の恐ろしさにうちふるえた時は、キーツに、つまり「詩」に一時逃れ場を求めたのだと言える。しかし、もちろん、詩を書くことが「あしきこと」に思えて悩むこともあったのだ。

あるときは
うたをつくるのさへ悪であるとおもふ
こんな詩などつくらなければ
ほんとにわたしのせけん的のよくぼうはなくなる
そうしたら一挙にわたしのこころはきれいになってしまうかもしれぬ
だがまたかんがえてみれば
たったひとつの手すさびでありほこりでもある
かなしみでありよろこびである
詩をつくることをすててしまふなら
あまりにすきだらけのうつろすぎるわたしのせかいだもの
ここにこうして不覚の子は
歯をくひしばって泣くまいとしてうたをうたう
             大正十四年『ものおちついた冬のまち』

 新しい境地が開けていた大正十四年になっても、なお重吉はこのように歌わねばならなかった。まして、詩と信仰が、必ずしも幸福な一致をしていたわけではない大正十二から十三年にかけての時期、重吉が激しく揺れ動く自らの心を数多く歌ったのも当然としなければならない。そして、それらの詩が『秋の瞳』の主要な部分を形成しているのである。

 


第4章 『秋の瞳』の世界──絶望と憧憬の間で


 八木重吉の詩集『秋の瞳』は、大正十四年八月一日に刊行された。重吉が生前に刊行した唯一の詩集である。作品数は百十七篇。八木重吉全集編注によれば、収められた詩の初稿制作時期は、ほぼ次のようになっている。
 大正十年=二篇。十一年=十五篇。十二年=七十一篇。十三年=九篇。原稿が失われ年代不詳のもの=二十篇。
 さらに編注は「なかで、十二年後半から集中的に選ばれているのが特徴で、十二年八月編から十二月編までの半年間の詩群中から詩集全体の四割に及ぶ四十六篇の詩が選ばれている。」と述べている。更に言えば、大正十二年の作品が、全体の約六割を占めているということになる。
 この大正十二年という年は、八木重吉にとってどういう年だったか。重吉は前年の大正十一年の七月に結婚し、その後本格的に詩を書きはじめている。そしてこの大正十二年になると、詩を自編した手製の小詩集を作り始める。これは相当の熱心さでやっていて、何とこの年に作られた小詩集は二十五冊にものぼるのである。そして、五月二十六日には長女桃子が誕生している。
 この大正十二年の作品を中心とした『秋の瞳』は、重吉の死後刊行された『貧しき信徒』とは、画然と違った世界を展開している。田中清光も既に指摘しているように、重吉の詩は、大正十三年六月十八日に書かれた「鞠とぶりきの独楽」あたりから、はっきりと新しい展開を示しているのである。大正十一年の夏ごろから本格的に詩を書きはじめた八木重吉が、わずか二年の間に、急速に一種の詩的成熟に達して行く様は、まさに驚異といってもいいほどだが、それはまたいずれ考えるとして、ここでは『秋の瞳』の詩について考察していきたい。
 『秋の瞳』を通読してみると、意外なことに、「キリスト」という言葉も「神」という言葉も、「信仰」という言葉も出てこない。「耶蘇」という言葉が一回、「人の子」という言葉(これはキリストを指す言葉である)が一回出てくるだけである。『秩の瞳』の背景になっている小詩集にはこれらの言葉はふんだんに出てくるのだから、重吉が『秋の瞳』を編集した時に、意識的に避けたと思われるのである。
 重吉にとって、信仰こそ第一義の問題だったが、『秋の瞳』の主要テーマは決して信仰そのものの内容ではない。そうではなくて「信仰」を核心として成り立っている重吉の生活の中での、重吉の気分や心の状態が主要なモチーフとなっているのである。その意味で、『秋の瞳』の詩はみな叙情詩であると言える。その叙情詩の核心にあるのは、重吉の信仰であるが、その叙情は、いつも信仰と同じ方向を向いているとは限らない。信仰を支点として様々な揺れを示しているのである。

   息を殺せ

息を ころせ
いきを ころせ
あかんぼが 空を みる
ああ 空を みる

 このように異様な緊張感で詩集は始まり、

   柳も かるく

やなぎも かるく
春も かるく
赤い 山車には 赤い児がついて
青い 山車には 青い児がついて
柳もかるく
はるもかるく
けふの まつりは 花のようだ

 で軽快に終わる。そして、その間は、「おもく沈む心」と「飛翔する心」とが、何度も何度も交代しながら表れる、というのが基本的な構造である。それは、まさに、絶望と憧憬の間を揺れ動いた若き八木重吉の心そのままと言っていい。

   哀しみの 火矢

はつあきの よるを つらぬく
かなしみの 火矢こそするどく
わづかに 銀色にひらめいてつんざいてゆく
それにいくらのせようと あせつたとて
この わたしのおもたいこころだもの
ああ どうして
そんな うれしいことが できるだらうか

 「銀色にひらめいてつんざいてゆくかなしみの火矢」とは、神への憧憬を言っているのだろうが、その火矢には、「わたしのおもたいこころ」は乗らない、という。この「おもたいこころ」というのは、『秋の瞳』詩篇の中に何度か出てきている。

   黎明

れいめいは さんざめいて
やなぎのえだが さらさらりと なびくとき
あれほどにおもたい わたしの ここらでさへ
なんとはなしに さらさらとながされてゆく

 

   春も晩く

春も おそく
どこともないが
大空に 水が わくのか

水が ながれるのか
なんとはなく
まともにはみられぬ こころだ

大空に わくのは
おもたい水なのか

 いずれも、単純な言葉で書かれていながら、難解な詩である。「あれほどおもたいわたしのこころでさへ」という表現は、その心の「おもたさ」を前提にしてしまっていて、何故、またどのように「おもたい」のかについては説明がない。
 「なんとはなくまともにはみられぬこころ」も同様だが、ずれにしても、重吉の厳格な信仰によってますます先鋭化していった罪の意識、というものをその「おもたさ」の内実と考えることができよう。「大空」に「わいてくる重たい水」というのは、恐らく重吉の心に生まれてくる「あしきおもい」である。

   鉛と ちようちよ

鉛のなかを
ちようちよが とんでゆく
        

   (鉛とちようちよ)初稿

鉛のなかを ちようちよがとんでゆくとしたら
それはまるでわたしのこころ
             『大和行』

 

   沼と風

おもたい
沼ですよ
しづかな
かぜ ですよ

 「鉛とちようちよ」も、決定稿で読むと極めて難解だが、初稿を見ると、その表現意図がよくわかる。「鉛」がまさに重吉の「おもたいこころ」の比喩なのだ。その中をかろやかに飛んでいる「ちようちよ」は、彼の憧憬であろう。重吉は鉛のように重たい心を何とか振り捨てて、蝶のように軽やかに天上へ舞い上がりたいのだ。しかし、それができない。「沼と風」もほぼ同じ構図であることがわかる。
 しかしながら、「おもたいこころ」が、重吉の「罪の意識」「あしきこころ」を意味していると言っても、その「罪の意識」の内実はなかなかつかみにくいものがある。

   人を殺さば

ぐさり! と
やつてみたし
人を ころさば
こころよかん

 この詩は何かと論議の的となった詩である。郷原宏は、八木重吉の詩は「そこにキリストのみを見ようとする人々には決して見えないものを示していたはずだ。それは人間八木重吉の人間的な、あまりにも人間的な実存の深さである。」として、この詩をあげ、更に次のように解説する。

 私はここに八木重吉の不信をあげつらおうというのではない。また、ある解説者のように「浄福をのみ願う心にも、絶望の時はこうした邪悪の心がわいた」などと、わけしり顔にいってみたいわけでもない。私はただ、八木重吉の信仰がこのような実存の上に成立していたことに、読者の注意を喚起しておきたいだけである。この詩はおそらく人間不信の表明ではない。信仰の弱さを告白した詩でもない。むしろ作者の信仰心の烈しさを示す作品である。もし八木重吉が中途半端な信仰心の持主であれば、彼はこうした危険な詩を書かなかったに違いない。神をみる眼をもたない者に、このような心の動きが見えるはずはないからである。しかし、そうかといってこれを、「大胆に自己を告白した勇気ある作品」(『日本伝道詩集』解説)などと持ち上げるのは馬鹿げている。この程度の「勇気」なら、およそ物を書こうとする人間ならだれでも持ち合わせているはずで、そのこと自体にたいした意味があるわけではない。そうではなく、問題はまさに八木重吉が「水や草は いい方方である」という底なしの善意と、「人をころさば/こころよからん」という邪悪の心とを二つながらに持っており、しかもそのいずれをも否定しきれなかったという生の二重性にこそあったはずである。いいかえれば八木重吉は、詩的な仮構のむこう側へ身を投げることができなかったと同じように、宗教的な仮構をも一気に飛びこすことができなかった。彼はただ黙って耐えるしかなかった。その沈黙の深さだけが、かろうじて彼のなかの神に見合うと信じられたのである。

 この詩が重吉の実存の深さを示すと言うのは、どうみても過大評価としか思えないが、多くの示唆を含んだ意見である。確かに重吉に「敬虔なクリスチャン」しか見ようとしない読者であれば、この詩にとまどい、苦しい弁明をしてみたり、かえって持ち上げたりもするだろう。又逆に、「敬虔なクリスチャン・八木重吉」に縁遠さを感じていた読者は、そこに重吉の「人間らしさ」を見つけて安堵するだろう。しかし、問題は郷原も言うように、「生の二重性」にこそあるのだ。重吉のように「こころのきれいさ」を異常なまでに求めれば、当然自分の中の「汚さ」には並外れて敏感になるわけで、こういう詩が「信仰の烈しさ」を示すものだという郷原の意見は正鵠を射ているといえよう。
 しかし「(底なしの善意と邪悪の心の)いずれをも否定しきれなかったという生の二重性」と郷原は言うが、この言い方は八木重吉を善と悪の二元論者に仕立ててしまう恐れがある。重吉はことさら「悪」の問題に興味があったわけではない。「人間の罪」を形而上学的に突き詰めて考えていたわけでもない。重吉の中にあるのは、善と悪との劇的な対立の図式ではなく、絶対的な善としての神(キリスト)に対する、まるで無力な自分の「片恋」の図式である。その無力さの要因として自分の心の邪悪さが出てくるに過ぎない。「いずれをも否定しきれなかった」のではなくて、「底なしの善意を求めたが、そうはいかなかった」ということだろう。そしてそれは、普通なら当然と受けとめられる人間の現実なのだが、重吉はその「純粋主義」故に苦しんだ。そして「片恋」は、絶望の度合を深めながら、ますます烈しく燃え上がっていったのだ。その烈しい「片恋」故に、かなしみと、怒りと、そして抑えきれない憧憬とが詩に詠まれることになる。『秋の瞳』の詩が、信仰のモチーフに貫かれながらも、あくまでも叙情詩であるというのはこういうことである。そして、この叙情の延長線上で、重吉の信仰は類稀なる深みに達していくことになる。
 つまり重吉においては、神への接近も、あくまで「自分の透明化」を通して、直接に神に接したいという方向性で貫かれており、それゆえ「感じる」ことが何よりも重視されることになる。神に向かっての暗黒の航海の中で、「感受性」こそ、八木重吉が頼りにしていた唯一つの光だったのだ。自分を純粋化していけば、自分の「感受性」で、神を感じとることができるというふうに重吉は考えていたに違いない。その確信は『貧しき信徒』に至って、明確に表現されているのだが、『秋の瞳』では、そうした確信に辿り着くまでの心の彷徨が描かれているのである。
 郷原宏の意見の中で、もうもう一つ問題なのは、「(重吉は)宗教的な仮構をも一気に飛びこすことができなかった。彼はただ黙って耐えるしかなかった。その沈黙の深さだけが、かろうじて彼のなかの神に見合うと信じられたのである。」という所である。「宗教的な仮構を一気に飛びこすことができなかった」ということは、重吉がキリストをあるいは神を単純には信じることができなかった、ということだろう。信じようとしても、邪悪な心を否定できず、ただ沈黙するしかなかったのだ、ということだろう。そこに郷原は重吉の実存の深さと、近代人の自我を見て、重吉を高く評価するわけである。単純な「信者」は、単純に何の疑いもなくキリストを信じ、自分もキリストのようになれたと安心してしまうが、重吉はそんな単純な「信者」ではなかった、と郷原は言いたいのであろう。そこには、「神」も「キリスト」も「宗教的仮構」だとする郷原の基本的な認識が前提となっている。
 しかしながら、重吉は「神」や「キリスト」が「仮構」だと認識していたわけではあるまい。信じられなかったわけでもあるまい。信じていた。信じていたからこそ、苦しんだのだ。信じられないから黙って耐えていたのではない。「沈黙の深さだけが、かろうじて彼のなかの神にみあうと信じられた」というのは、誤解も甚だしいといわざるを得ない。重吉は、神もキリストも信じていた。その要請に懸命に応えようとした。しかし、それはあまりにも困難な道であった。その困難に、時として絶望し、時として勇気を奮い起こし、そして時としてそれを軽々と越え、そうした日々の営みから詩が生まれてきた。それだけのことだ。

   心よ

ほのかにも いろづいてゆく こころ
われながら あいらしいこころよ
ながれ ゆくものよ
さあ それならば ゆくがいい
「役立たぬもの」にあくがれて はてしなく
まぼろしを 追うて かぎりなく
こころときめいて かけりゆけよ

 例えば、この詩を郷原は次のように解説している。

 この詩は、多くの解説者たちが言うようにキリストへの愛をうたったものなどではなく、むしろキリストへの絶望を──といって言葉がきつすぎるなら、キリストによってもついに癒されることのない孤独な心の発見を示すものでなければならない。なぜなら、ここで八木重吉は、キリストが「つかれたる心」にとって「役立たぬもの」であることを知りながら、むしろそれゆえになおはげしく「まぼろし」を追って生きていかねばならぬ自分の心のかなしみをうたっているからだ。

 「多くの解説者」も郷原も、「役立たぬもの」「まぼろし」が、キリストを指すということではどうやら一致しているようだが、これもとんでもない誤解である。少なくとも重吉にとってキリストが「役立たぬもの」であるわけがないではないか。これまでの考察によっても明らかなように、キリストは、重吉にとって「役に立つ」とか「役に立たない」とかいった次元の存在ではない。まして、重吉がキリストに絶望するわけがない。キリストの前で、自分に絶望するのが重吉なのだ。
 この詩は、神やキリストとは直接には関係のない詩である。ここでいわれる「役立たぬもの」とは、「詩」そのものであり、「美」である。八木重吉は、信仰に生きたが、同時に詩にも生きたのだということは忘れてはならない。特に、『秋の瞳』においては、「詩」は必ずしも「信仰」と同じ方向を向いてはいないのだということは既に述べたとおりである。

   うつくしいもの

わたしみづからのなかでもいい
わたしの外の せかいでも いい
どこにか 「ほんとうに 美しいもの」は ないのか
それが 敵であっても かまわない
及びがたくても よい
ただ 在るといふことが 分かりさへすれば、
ああ、ひさしくも これを追ふにつかれたこころ

 この詩の「美しいもの」も、キリストなどと解釈されるが、キリストが「敵」であることなどありえないのだから、これも、言葉どおり「美」への憧憬を歌ったものと解釈されねばならないのである。
 従って、『心よ』も、「キリストへの絶望」を歌っているのではなく、キリストの前で絶望せざるを得ない重吉が、信仰とは別の詩美の世界への憧憬を歌っているのだと言わねばならない。

   しづかな画家

だれも みてゐるな、
わたしは ひとりぽっちで描くのだ、
これは ひろい空 しづかな空、
わたしのハイ・ロマンスを この空へ 描いてやらう

 この「ハイ・ロマンス」が「信仰」だとは誰も思わないだろう。まさにここにあるのは芸術に憧れる重吉の姿なのだ。もしも、重吉が人並みの健康を与えられていたら、重吉は恐らく、『秋の瞳』以後、ロマンチックな詩人として、幅の広い活躍をしたであろう。しかしながら、目前に迫ってきた「死」が、彼の信仰を急速に成熟に向かわせ、それと共に、重吉の「詩」も独自なスタイルの中に収斂していったのである。

 


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