八木重吉ノート(1)

 

 


はじめに──重吉の評価をめぐって──


 信仰と詩というつながりを考えた時、まっさきに思い浮かぶのは、宮沢賢治と八木重吉といっていいだろう。そして二人とも、教師を生業とした時期があることでも一致している。賢治の伝記を読むと、彼が人並み以上に真面目で熱心な教師であったことが覗える。ある時は生徒を連れて「イギリス海岸」に遊び、高歌放吟したなどというような話からも、賢治が生徒を愛し、生徒のために尽くし、そしてまた彼等からも愛されたということがよくわかる。そういう熱心な教師としての賢治はよく知られているところである。
 一方、八木重吉は、大正十五年二十三歳で東京高等師範学校(以下東京高師)を卒業し、ただちに兵庫県御影師範学校英語科教諭として赴任して四年間勤め、東京高師の先輩にその優秀さを見込まれて、大正十四年、千葉県東葛飾中学校に引き抜かれ、翌年結核を発病して休職するまで勤めている。それだけの知識と、その温和な詩風から、重吉もまた賢治と同じように「よい先生」だったのだろうと漠然と考えてきたのだったが、今度『八木重吉全集』に収録された日記や初期詩稿を読んでいささか驚いた。そこに連綿と書き綴られている短歌の大半は、生徒と同僚の教師に対するすさまじいほどの違和と嫌悪の情だったのだ。重吉をただ純情で天使のような詩人だ、などと思っていたわけではないが、それにしても、この激情の渦を前にしてしばし戸惑ったのも事実である。
 八木重吉の評価には二つの傾向があるように思われる。その一つは、とにかく重吉の詩の純粋さ、透明さ、信仰の深さに惚れ込んで、文学史的位置づけなどは関係ないとする傾向である。それは、長い間、重吉の詩がキリスト教信者、特にプロテスタントの間で、いわば「信仰の糧」として読みつがれてきたことによるだろう。

 八木重吉の詩ははたして現代詩として通用するか、そんな論議くらい八木重吉の詩と無縁な、したがって空しい論議はない。そんなことはどうだっていいことなのだ。かりに、八木重吉の詩は現代詩といえないという結論が出たとしても、八木重吉の詩の価値はなにひとつゆるぎもしないし減りもしない。


佐古純一郎『八木重吉全集 月報2』

 この佐古氏のような意見がその代表といっていいだろう。
 ある詩人の詩に惚れるということは、全く個人的事情なのだから、ここで佐古氏の力説していることは、むしろあたりまえのことでしかない。「現代詩として通用するか」という論議は、何も重吉の詩とばかりではなく、全ての詩とも無縁だと言ってもいいのだ。しかし一方で、客観的な評価という立場も当然ありうるわけで、詩人の「研究」などというものは、その立場に立たなければ成り立ちようがない。そういう点からすると、佐古氏は、重吉の詩だけは普通の詩とは別格で神聖なものなんだから、「客観的研究」など不可能なんだと言っているのと同じことになってしまう。重吉の熱心な読者であればある程、まして、重吉の詩を自らの祈りとしようとするキリスト教信者であればなおさら、重吉の詩の「現代性」や「文学史的位置」をとやかく言うのは許しがたい冒涜と思われることだろう。そのような重吉の詩の神聖化・絶対化に対しては、当然反発も出るわけで、要するに重吉の詩は「高原野菜」のような、「無害」だが「どこかもの足りない」ひよわな詩だというような冷たい評価も出てくる。「現代詩としては通用しない」というような考えかたもこれに含まれるだろう。
 しかし、「信仰の糧」として絶対化するにせよ、「現代詩に非ず」として切って捨てるにせよ、そこでは重吉詩の「純粋無垢」がいわば前提となっている点で、重吉の評価の一つの傾向としてまとめて考えることができる。こうした傾向に対して、近年目立つのは、重吉詩そのものが、実は「純粋無垢」とか「優しさ」とかいったものだけから成り立っているのではなくて、鋭い近代的意識を内包しているのだという指摘である。旺文社文庫『八木重吉詩集』の郷原宏の解説がその代表といえるだろう。これについては、いずれ詳しく考えてみたいが、要するにここで郷原が力説しているのは、八木重吉の詩を、「敬虔なクリスチャンの純粋な詩」というふうに一面的・平面的にとらえることから脱却し、重吉の詩そのものの中に、重層性を見なければならないということだ。
 八木重吉は、ただ純粋無垢な、少女のような、敬虔なだけのクリスチャン詩人ではなかったのだ。彼も、近代人としての苦悩を一身に背負っていたのだ。ということは、いちおうここで確認しておく必要があるだろう。これまで数葉の写真と、わずかな詩篇から描かれた重吉のイメージは、決してこういう重吉を示しはしなかったのだから。
 さて、いわば重吉の実像は、『全集』第三巻によって初めて公開された重吉の日記によって、かなりの所までつかむことができるようになった。それが、我々を戸惑わせるに十分なものをもっていることは前に述べた通りである。その日記を読みながら、自分なりに重吉像を再構築してみようと思ったわけだが、たまたま『国文学──解釈と鑑賞』に、新資料を使った重吉論が目にとまった。本格的な論文ではなく、解説風のものなので、あまりむきになってもしかたがないが、その粗雑さにはちょっと驚いた。

重吉がキリスト教に接するのは、年譜によれば、大正初期、神奈川師範学校在学時で、十七・八歳頃とされている。洗礼は大正八年三月二日(二十一歳)となっている。しかし以後、後年のクリスチャン詩人としての評価どおり救済されていったかというと決してそうではない

ゼロだ。空虚だ! あゝ。センチメンタリズムでもいゝ。幼稚でもいゝ。自分はもいちど、燃ゆる求道者であろう……。「教師」というしごとは安易なしごとだ。悪意のあるしごとではない。また、胸に血の燃ゆる若い者のたやすく耐えらるゝ仕事でもない。……反発せよ。反抗せよ。(日記・大正十・十・三)

東京高師卒業後、兵摩県御影師範学校に奉職してから六ヵ月後の痛切なる現状認識である。もちろん、こうした心情であるが故に、安心を求めて信仰をのぞむのであろう


田中栄一『国文学──解釈と鑑賞』一九八四・四月号(赤字・山本)

 恐らく田中氏としては、当然のこととしてさりげなく書いたであろう赤字部は、しかし実に重大な問題点なのである。田中氏のように読めば、結局、重吉は純粋な信仰によって身も心も安定した生活を送っていたのではなく、現実には信仰では救われない悩みをかかえていたのだ。というだけのことになってしまう。ここでは、「信仰」は「心の安定をもたらすもの」、「救済」は「心の安定」としかとらえられていない。それ以外のものであるなどと田中氏は夢にも思っておられぬようである。しかし、これはとんでもない誤解である。重吉は、教師の仕事に絶望を感じたから、あるいは恋愛が思い通りにいかないから、「安定を求めて」、「信仰をのぞんだ」りしたのでは断じてなかった。重吉を崇拝する読者も、一蹴する批評家も、重吉の信仰が一体どのようなものであったのかという点については、あまり突っ込んで考えていないようだ。みなそれぞれ自分自身の「信仰観」によって勝手に判断しているように思えてならない。まずその辺のことを、重吉の日記や初期の詩篇を読みつつ考えていくことにしたい。

 


第1章 「教室」と「教員室」


『八木重吉全集』第三巻の「日記2」は、大正十年九月二十一日の日付で、十六首の短歌が並んでいるが、テーマはほとんどが「教え子」と「教員室」である。

あまりにもうるおいしらぬ教へ子のひとみにけふもかほをそむけし
わがおもひかたらんとしてあまりにも夢なき子らにもだしてやみぬ
われはしも夢みる子かやおしへ子のにごれるひとみまもるにたへず

 二十三歳の青年教師は、教壇に立って自らの「夢」をせいいっぱい若い魂に訴えかけようとしたのだろう。ところが、生徒はそれをドロンとした目で聞くともなく聞いている。うすら笑いすら浮かべて。重吉は、悲しそうに目をそむけて、「夢」を語ることをやめ、英語の授業に戻っていく。その心に湧きあがってくる憎悪の感情をかろうじて抑えながら。
 大正十二年の『草は静けさ』という未刊詩集には、もっと激しい感情を歌った次のような詩もある。

ひどく寒い日だ。
おお、今日も、醜い顔、
胸くそのわるくなる顔!
いやだ、いやだ。
何だ、その、いやに赤黒い皮膚、
汚らしい眼!
眠っているよりもいやな眼!
低脳の群れよ!
豚の群れよ!
何だ、その瞳は!?
「夢」なんて、あるのかえ!?
「幻影」のない、衆愚よ。
動物の群れ、獣の群れ。
俺れは、
一時間中、窓の外を見て、
ふりしきる冬の暗光に魂を投げた。
豚よ、豚よ、
真珠は、尊いものだぞ!

 ここには『秋の瞳』や『貧しき信徒』からはおよそ想像もつかない重吉の内面がある。ほどんど、呪詛に近いことばを、どうして重吉は生徒に投げずにはいられなかったのだろうか。同じ詩集に次のような詩もある。

『これだけのものに、
せめて、うちとけたい。』
こうおもってみまわす
この三十人の教室も私の世界じゃなかった、
それは
無関心、冷笑、痴愚、
偽瞞、無恥、の世界だった

 普通の英語の授業をやっていただけだとしたら、この重吉のひどい孤独感はどうも説明のしようがない。おそらく重吉は、授業中に、キリストについて語らずにはいられなかったのだろう。『これだけのものに/せめて、うちとけたい』という思いは、せめてこの教室の三十人に、しみじみとキリストについて語りたいという切なる思いであったろう。

与へたいのだ、
そして与へられないのだ、
願ひがある、だが
その願ひが、燃えないのだ

 重吉ほどの激しい信仰を持っていれば、どうしてもそれを目の前の生徒に伝えたいだろう。しかし、生徒は無残にもそういう重吉に冷笑を浴びせかける。そういうことの繰り返しの中で、「与へたいという願ひ」すら重吉の心の中で燃えなくなってくる。

一歩踏みいだすのさへ
容易なわざではない
ちがった一言を云ふのさへ
此の社会ではむづかしいのだ

でも、私はゆかう、

 「ちがった一言を云ふ」とは、おそらく、キリストについて、その福音について話すことだ。「此の社会」では、キリストについて話すことは、それほど「異質」のことなのだ。そのことを重吉はいやというほど感じていたに相違ない。

そうだ、俺れは、今日も
生徒にむかって
心を閉して来た、
同僚にも、そうだ、
いつになったら、この、
小さく鼓動する心臓をつかみだして、
べっとりとしたまま
それを、人に示し得るのか!?

それにしても、だれか、
訪ねて、来ないだろうか?
私は、語りたい、
あの人について、あの人のことを、
そうだ──耶蘇についてだ、
私の心は
耶蘇のことを語るとき
きっと躍るのだ、
だれか、来ないか、
だれか、来ないのか、

 これらの詩篇は、いずれも『草は静けさ』に入っていて、結婚後の作品だが、その孤独感は底知れぬものがある。重吉と本当に打ち解けてキリストについて、信仰について話し合う友がいなかったということは、何か不思議な感じがする。
 重吉にとって、いちばん身近な同僚の教師たちはどうだったのだろうか。実は教員室も重吉にとっては一つの地獄だったのだ。九月二十一の日記に戻ろう。

税金のことのみいつも口にするひとありげにも教員らしき
借り家と米の相場がいとおもき教員室の話題なりける
かくまでにけちけちくらすものならば土ほじりすが尊きものを
なにごともにやにやわらひ用のすむ教員といふは人のくずかや

 まことに激しい憎悪のことばだ。同僚の教師たちは、重吉の頭をいっぱいにしているキリストのことなどまるで理解しない俗人ばかりだった。信仰に対するエキセントリックな重吉の態度が、教員室でどのような反応を生んだかは想像するに難くない。しかし、非は必ずしも同僚の教師たちにあったわけではないだろう。教員室の話題は、いつも「税金」や「借り家」や「米の相場」だったにせよ、だからといって彼等が心の中にまじめな問題を抱えていないなどとは言えない。「にやにや笑ひ」の裏に、人生の悲しみを秘めている教師だっているだろう。こうした初歩的ともいえる人間理解の視点が、重吉には全く見られない。そこに重吉の「若さ」があったということだろうか。
 関茂氏はその著書『八木重吉──詩と生涯と信仰』(新教出版社)で、次のように述べている。

 教師にとって、教室は戦場であるとすれば、教員室は戦線後退の安息の場である。放課後そこでは、生徒の知らないあけっ放しの教師像があらわれる。軽口、冗談、人物評、そしてときにワイ談──ところが、いつもほとんどその話の仲間に加わらず、ひとリポツンとしているのが重吉だった。彼はクリスチャンであったから、そういう猥雑な世間話に乗らなかった、というのではない。もしそうなら、重吉の態度はもっと自信と安定にみちていたろう。そうではなくて、逆に、教員室の重吉は、にぎやかな話の中にはいっていけないほどにさびしそうだったのである。

 ここで関氏の言わんとしていることが何なのかよくわからないのだが、とにかく同僚の教師のバカ話に加われず、ポツンと一人さびしい顔をしてとり残されている重吉という弱々しいイメージを描いている。しかし、実際には、重吉はむしろ自分のほうから同僚を嫌悪し、軽蔑して、心を閉ざしていたのではなかったか。そういう態度は「さびしそう」というよりは「傲慢」と同僚の目に映ったに違いない。関氏は「彼はクリスチャンであったから、そういう猥雑な世間話に乗らなかった、というのではない」と断定しているが、真相はむしろそれに近いのではなかろうか。「猥雑な世間話には乗らない『自信と安定にみちた』クリスチャン」というものを肯定的にとらえる傾向が関氏にも重吉にもある。ただ重吉は、憤怒が大きすぎて、自信と安定にいたらなかっただけのようだ。
 一方では、東京高師を優秀な成績で卒業したという矜持が「お前たち田舎の教師と一緒にされてたまるか」という気持ちを生んでいたようにも思われる。そういう重吉のそばで、仲間の教師たちは、わざと俗っぽい話をしては彼をからかっていたのかも知れない。
 またある時は重吉も、ふとした気のゆるみから仲間と談笑することもあったのだろう。

われはしも教員なればいつしらずぬるきわらひにそまりはてけり

 そういうふうにして、同僚と同じような一介の「教員」になっていくことに重吉は耐えがたい屈辱を感じたようだ。

妻よ、さあ、
「労働者」がかへって来たんだよ、
「中等教員」といふ、「みじめな奴」が、
さあ、出迎へるんだ、出迎へるんだ

 これはまた何という自嘲だろうか。ここにはやりきれない挫折感がある。重吉にはやむにやまれぬ立身出世への願いがあったのだ。しかし、それがどういう事情で挫折に至ったのかはつまびらかではない。
 関氏の前掲書にょれば、「重吉が師範をこころざすにいたったのは、特別の理想があったからではない。小林権一郎という重吉の年上のいとこが師範出で、中学の英語教師をしていた。この人に接するうち、重吉は、自分も師範に行き、同じように英文学をやろうと思うようになった」ということである。とすれば「教師」は重吉にとってあくまで「仮の姿」として意識されていたのだろう。いつかもっと出世することを夢見て、辛いおもしろくもない仕事に耐えていたのだろう。重吉は既に鎌倉師範のころから特に英語にすぐれ、東京高師への入学も「きわめてめずらしい例としてストレートで行われた」(関茂・前掲書)というから、誇り高い優等生であったわけだ。

 御影時代の日記を再び見よう。九月二十九日の日付。

いつにてもわがなりわひをなげすてんわれをしひとはわらふに似たり
かくまでにおなじき日のみくりかへしくりかへしつゝかれらは生くも
教師てふものうきわざにあきもせでよくもかれらの今日まできつる

 重吉は教師という職業に一片の興味も喜びも感じていないようだ。重吉の「教師観」をもうすこし見てみよう。

「教師」というのは安易なしごとだ。悪意のあるしごとではない。また、胸に血のもゆる若い者のたやすく耐えらるゝ仕事でもない。「ぬるき」仕事だ、「あつくもなく冷くも無い」仕事だ。反発せよ。反抗せよ。なまぬるい笑ひに費すエナージイがあったなら、日輪の下で、わが生の尊厳について冥想したがいゝ。職業は人間を機械化する。(日記2・十・三)

 重吉は、教師という職業の「生ぬるさ」を繰り返し書いている。

毎日は、なまぬるく、而も、嘘だ、嘘のかたまりだ、教壇に立ってゐる自分はまさに偽善者の標本である。(日記2・十・五)

 一方、重吉はこうした自分の職業に対する態度を反省もしていて、同年五月二日には、次のような記述が見られる。

 教ふることの芸術化、それは、他のためとすると同時に自分にとって、もし自分が一生教壇に立つとしたら、是非為さねばならぬことだ、仕事の芸術化は、仕事の種類に依らぬのではあるまいか、(然しこれは体のよい自己弁護か?)、すべての人が乞食にならねばならぬのだろうか? それとも「心の乞食」でさへあればよいのだろうか?(中略)何を云うたとて、俸給の対象としてしか生徒が眼にうつらぬ様な中は、徹底した生を生きる資格はないのだ、

 ここで重吉の言う「教ふることの芸術化」ということがどういうことなのか、はっきりとしないが、このすぐ後に、

 生くる以上は、芸術的に生きねば嘘だ、人間の一番深いもの、美しいものを働かせて生きねば嘘だ、でなければ死んだ方がよいのだ、「死」か、芸術的な生か、どちらかであれ、その中間にをるのは醜いことだ、

 とあるから「徹底した生」を生きるということが「芸術的な生」だということになるようだ。
 ここで重吉は、大いに不満ながら、もし仮に自分が一生教壇に立つとしたら、教師という職業を芸術化──徹底化するしかないというのだが、すぐに「それは体のよい自己弁護」ではないのかとの内心の声がする。それはなぜなのか。ここに重吉における大きな問題が存するのだ。

  神の道

自分が
この着物さへも脱いで
乞食のようになって
神の道にしたがわなくてよいのか
かんがえの末は必ずここへくる

        『貧しき信徒』

 重吉には、強迫観念といっていいほど、この考えがつきまとっている。右の詩は、初稿が大正十五年なのだが、このテーマは既に見たように五年前に全く同じ形で日記に現れていたのだ。

 わたしはあなたのすべての業を知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。わたしは、むしろあなたが、熱いか冷たいか、いずれかであってほしい。このように、あなたは熱くもなく冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。

(黙示録・3/15ー17)

 重吉は、一生このことばの強迫を受けて苦しんだようにぼくには思える。
 重吉は、何よりも「生ぬるさ」を憎んだ。自分が本当にキリストを信じているなら、何もかも捨ててキリストに従わなければならないのではないか。そうしなければ「生ぬるい」キリスト者に堕すであろうと重吉は恐れたのだ。「教ふることを芸術化する」程度では、まだ「生ぬるい」のではあるまいか、と重吉は考えざるを得なかったのだ。教師という職業の中に「愛の実践」の道を見出し、その道を徹底して歩むことにより「生の芸術化」を果たせるならば、それでいいのではないかとぼくなどは思ってしまうのだが、重吉はそうは思えなかったのだ。重吉は、しかし、観念的にはわかっていたはずだ。教師としての自分がどうあるべきかということを。先程の日記の続きには、次のような記述が見られる。

 生徒を、まづ、一人一人の「人」として対したい、自分の怠惰、気むずかしさ、短気、薄い愛情──これ等のために、生徒を、ただ、マンネリズムで取扱うな、(中略)『キリストが、室の隅で、参観してゐる!』こう思ったら、いかな、自分でも、生徒に対して、今迄とは全然異った態度で対せねばならなくなる筈だ。(日記2・五・二)

 教壇へ立ったとき、生徒に対する態度が、生徒を神の顕現であると観ぜば──すべての事、すべての物、すべての者が、神の顕現であると観ぜば──(日記2・五・十六)

 重吉が懸命になって、教師という職業の意義づけを行っている様子がよくわかる。しかし、逆に言えば、こうまで考えつめなければならなかったということは、「教師という職業」や「生徒」に対して、自然な愛情を抱くことが、重吉にとっていかに困難であったかということだ。怠惰で、通俗的で、軽薄で、税金や月給のことしか話題にしない教師たちと、ちっとも夢のない、濁った瞳の生徒たちが、重吉を絶望させていたのだ。
 しかしながら、前にも既に述べたように、そうした教師や生徒たちの姿は、あくまで重吉の目にそう映ったということであって、それがそのまま彼等の真の姿であったわけではないだろう。確かに、どこの学校においても、軽薄な笑いのない教員室などありはしないし、教師の話を馬鹿にしていねむりするような生徒が皆無の教室もない。しかしまた、どこの教員室でも、軽薄な笑いの次には、まじめでしんみりした人生の問題が話題にならないわけではないし、どこの教室でも、何人かの生徒の瞳が教師にむかって輝いていないわけでもないのだ。重吉は、前者の姿のみを肥大させ、後者に目をとめようともしなかったとしか思えない。若者らしい性急さと、オール・オア・ナシングとがそこにあった。
 「教室」と「教員室」、それは、いってみれば重吉のまえに初めて広がった「現実」だった。その現実を全否定することで、重吉は自らの信仰の緊張度と純度を高めていったのだ。あるいは重吉の信仰が、そうした現実の否定を導いたといえるかもしれない。ともかく重吉にとって何よりも重要だったのは、現実の理解ではなく、信仰の激しさだった。そのために、重吉の信仰は、ついに社会的な広がりを獲得することなく、ひたすら純粋な内面性に向かうことになったのだ。


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