八木重吉ノート(2)

 

 


第1章 「教室」と「教員室」 (承前)

 徹した生と、調子の低いのとは別なものだ。あゝもう止めよう、にやにや笑って、うす馬鹿のようにして、べらりべらりと毎日を消してゆくのは、いゝ加減に止めよう『火を投げ入れんためにきたれり、われ何をかのぞむ、その火のすでに燃えたらんことなり』
 毎日は、なまぬるく、而も、嘘だ、嘘のかたまりだ、教壇にたってゐる自分はまさに偽善者の標本である、なぐり倒す価のある者だ、その他は? まさに焼き捨つるゝ価値あるものだ、(日記2・大正十年十月五日)

 「教室」と、「教員室」は、八木重吉の前に広がった初めての「現実」だった、と前回書いた。その「現実」を理解することよりも、自分の「信仰」の激しさを求めたために、八木重吉の「信仰」は社会的な広がりを持たず、ひたすら内面化していったのだ、とも書いた。それは、多分に非難がましい口調だったし、事実そう書いた時、ぼくはそういう八木重吉に対してあまり同情的ではなかった。どんなに醜い現実だって、真正面からぶつかって、それを内側から理解すべきではないのか、そして「信仰」も個人の内面の問題に留まることなく、積極的に現実に関わって行く契機とならなければいけないのではないか、という視点があったからだ。
 あれから一年たち、再びこの「ノート」を執筆しようと、全集を繙くと、また別の思いにもとらわれる。なるほど、ぼくらは好むと好まざるとに関わらず、ある特定の「現実」に向き合って生きていかねばならない。だから理想的にいえばその現実と調和すべく努力しなければならないということにもなろう。しかしながら、どうしようもない現実というものも確かにある。どんなに嫌悪しても足りないほどの醜い現実が確かにあり、そういう現実を前にしては、我々はただもうひたすら嫌悪し、憎悪し、反発するしか自分の精神の均衡を保てないという事態になる。それがぼくらの生きるという事の「現実」なのではあるまいか。そう考えてみると、前回のぼくの八木重吉に対する視点というのは、ちょっと冷たかったんじゃないかとも反省されるのだ。
 職員室の「げらげら笑い」をどれほど八木重吉が嫌悪したかは既に書いた。その重吉の気持ちはよく分かるが、その嫌悪の感情を越えて、その「げらげら笑い」の奥にあるであろう人間の真実に同情を寄せるべきだし、「信仰」もそういう方向に動かなければ本物ではない、というのが僕の論点だった。しかし、やはりそれもあまりに酷な要求なのかも知れない。八木重吉はそのときまだ二十三歳だったのだ。いや歳のことは言うまい。何歳であれ、われわれは、自分の嫌悪する対象の中に愛すべきものを見出し得るほど人間として成熟することは容易なことではない、ということを、身にしみて知っているはずだ。「汝の敵を愛せ」というイエスの教えは、まさに究極の教えであり、ぼくらが軽々しく口にすべき教えではあるまい。教会の「偽善者」は、その教えに感激したあまりに、その教えを聞いただけで、あたかも自分が「敵を愛せる人間」に変身したかのような錯覚を覚えるところから生まれるのだろう。そういう偽善者を徹底的に嫌悪したのも他ならぬ八木重吉であった。
 考えてみれば、ぼくも重吉と同じような心境を味わってきたのだった。高校時代から教員志望だったぼくが、「初志貫徹」して夢にまで見た教壇に立ったとき、どんな失望を味わったかは決して忘れることができない。何を話しても、まるで別世界のことのように聞くともなく聞いている生徒たち。そしてそういうぼくを更に深く失望させたのは、同僚の教師たちの生活に疲れた惨めな姿だった。ぼくはかれらと同化することを心底嫌いながら、結局は人間関係の渦の中に呑まれていかざるをえなかった。それは恐らくぼくの弱さであったので、何も嫌悪する同僚の心の底に、愛すべきものを見出していたわけではなかったのだ。むしろ正直な気持ち、彼ら同僚の教師の姿に自分の将来の姿を重ねることが、ぼくには耐えられない思いがしたものである。
 そんなわけで、八木重吉の教員になりたての頃の心境というのは、手に取るように分かるような気がするのだ。しかし、それだけにまた、文句の一つもつけたくなったというわけである。
 それにしても、「教師」というものは、どうしてこうもみじめったらしいイメージを背負わなければならないのだろうか。先日たまたま子規の随筆を読んでいたらこんな箇所に出くわした。

 妄想は一転して倫理教育の上に至る。中学以上の生徒に分かりきつたる忠孝のお話など何の役にも立たぬことなり。殊に不道徳なる先生の鹿爪らしき道徳談や、あるいは二三十円の月給を頂戴してやうやうに中学校の教員となつて校長のお髯を払ふやうな先生が天下丸呑の立志論を述べ立つる杯片腹痛きにも限りあるものなり。


(明治三三年十月十五日記事)

 昭和も六十年を優に越えた現在でも、「教員」のイメージはたかだかこんなものであろう。世間一般の人々は、口では「先生」と言って敬意を払っても、心の底ではどう思っているのかわかったものではない。「勉強しない生徒」「世俗的な同僚教師」「教師への世間の低い評価」──これらが、若き八木重吉を絶望させたと見て、間違いあるまい。

 


 

第2章 「哀しみ」の源泉   ──「御影時代」の詩篇を中心に──

   虹


この虹をみる わたしと ちさい妻
やすやすと この虹を讃めうる
わたしら二人 きょうのさいわいのおおいさ  

                『秋の瞳』

 この頃八木が書いた詩である。この詩を読むたびに、私は八木と二人して立ちつくしていた御影の自然を想い出す。でもこの詩稿のすぐあとに綴り込まれているこの詩を読むとき、あの平安であった日々のなかで八木をひたしていた「かなしみ」とは何だったのだろう、としきりにおもわずにはいられない。

   はらへたまってゆく かなしみ

かなしみは、しずかに たまってくる
しみじみと そして なみなみと
たまりたまってくる わたしの かなしみは
ひそかに だがつよく 透きとおってゆく
こうして わたしは 痴人のごとく
さいげんもなく かなしみを たべている
いずくへとても ゆくところもないゆえ
のこりなく かなしみは はらへたまってゆく


                『秋の瞳』

吉野登美子『琴はしずかに』

 

 第1章では、いわゆる「御影時代」の八木重吉の内面を、「職員室」や「教室」に対する思いをとおして探ってきたのだが、その時期、重吉にとっての最重要事というのは実は別の所にあった。言うまでもなく、登美への熱烈な恋愛である。
 ほんの偶然から、たった一週間ほど英語の勉強を見てやった登美への激しい慕情は、「日記」の全体を覆っているが、その夥しい短歌と詩はとりたたていうほどの独自性を獲得してはいない。むしろ我々の興味をひくのは、その恋愛の展開のあまりに急速な進展ぶりである。
 大正八年、重吉は東京高等師範学校本科三年に進んだが、前年末スペイン風邪から肺炎を併発して入院したのを肺病と言われて寮を追われ、池袋の下宿に入り、そこで小学校教諭の石井義純と同宿になった。その石井に頼まれ、島田登美の勉強をみることになった。登美は新潟県高田市に何代も続いた士族の家の娘だったが、十二歳で父を亡くし、上京して麻布に住む兄の許に身を寄せ、独学で滝野川の女子聖学院三年級の編入試験を受ける準備をしていたのである。

 大正十年三月中旬のこと、数え年で十七歳の私は、肩上げのとれない銘仙の着物姿で、池袋の常磐通りの奥にあった平屋建の家の玄関にはじめて立った。おずおずと案内を乞うと、色白で丸顔の優しそうな青年が障子を開けて出て来た。
「英語と数学を一週間くらい教えて頂きたいのですが」と頼む私を青年は、「どうぞ上がってください」と奥へ請じ上げてくれ、小さな机に互いに向かい合って坐った。これが八木重吉とのはじめてのあっけない出会いであった。
      (中略)
 初対面の八木は、机の横に火鉢を持ってきて、真剣に教えてくれた。私は私で、向かい合った若い男性の顔など恥かしくてまともには見られない年頃であったが、大事な勉強の仕上げに、それからの一週間を一途に通いつづけた。
 こうして不思議な運命の糸でめぐり合った二人であったのだが、正直のところ私にとってはただ勉強一途の脇目もふらず過ごした一週間、八木の方は二、三日でもう私の行くのを待ち焦がれ、火にかけた薬罐の水がなくなるのにも気づかず、縁側に立ちつくして門の方ばかり見ていたという。稚ない私はそんな気配に少しも気づかないでいた。


『前掲書』

 勉強は実際に一週間で終わり、登美は試験に合格した。そしてそれから間もなく重吉は高師を卒業して、兵庫の御影師範学校教諭として西へ旅立っていった。そこでの意にそまない生活の中で、登美への慕情が日に日に募っていったのだった。登美への手紙も次第に熱烈なものになってゆき、とうとうその年の九月には愛を告白、そして東京高師の先輩である内藤卯三郎に登美への結婚を申し込みを依頼する。「意が叶わぬときは死を考えている」と聞いて驚いた内藤の奔走によって、翌大正十一年一月、婚約が成立した。重吉二十四歳、登美十七歳である。結婚は二年後に登美が女学校を卒業してからという約束だったが、その年の五月、登美が肋膜炎にかかるや、重吉は登美の兄に「私は教育者ですから、引き取って自分で教育します。そしてきっと丈夫にしてみせます」と言って、登美を引き取り、七月内藤の立ち合いのもと、三人だけのささやかな結婚式を新しい借家であげたのだった。
 婚約が成立してから結婚までの約半年、重吉は登美にほとんど毎日、日によっては一日に二通もの手紙を書き続ける。その手紙を読んでいくと、重吉にとって二年の歳月というのは、到底堪えることの出来ないものであったろうと容易に推測ができる。従って、登美の病気は重吉にとってはまさに「渡りに舟」の思いだったに違いない。とにかく、一日千秋の思いで待ちに待った結婚生活が、周囲の住人から「兄と妹」と誤解されるような微笑ましさで始まった。このように激しい恋愛の末に結ばれた二人の生活は、当然幸せなものであったはずだ。現にその幸せを重吉は何度も詩に書いている。しかし、登美子夫人も言うように、一方で重吉は途方もない「哀しみ」を抱え込んでもいたのだ。激しい恋の果てに結ばれた新婚生活をもってしても拭い去ることのできなかった「かなしみ」。その「かなしみ」とは一体何だったのだろう。その「かなしみ」はどこから来たのだろうか。


***


 郷原宏は、旺文社版『八木重吉詩集』の解説で、この「かなしみ」の源泉についてかなり詳しく言及している。郷原はまず、「八木重吉は作品以外の場所では一度も自分を語ろうとしなかったので、その生涯のどこにかなしみの源泉がかくされていたかをさぐるのは容易ではない」としたうえで、次のように言う。

 ただひとつだけはっきりしていることは、それが山村暮鳥や室生犀星の場合のように社会的階級的な劣等感から生じたものではないということである。八木重吉は貧窮家庭の生まれでもなければ私生児でもなかった。常識的な観点からすれば、その家庭生活はどちらかといえば恵まれたものであった。

 そして、発病後の生活に密着した作品を引きつつ、その状況の悲惨さにもかかわらず、詩人の意識は「健全な家庭人」のそれであり、結局のところ「八木重吉の現実的な生活過程には、かなしみの源泉は見当たらないといってよいのである」とした。また、「かなしみの源泉」を、幼児体験に求めるのも意味がないとし、次のように言う。

 もしそれが先天的な気質によるものでないとすれば、八木重吉のかなしみは八木重吉の詩とともにはじまったとみるほかはない。つまり、詩を書くことによって、それまで心のなかにあったものが「かなしみ」として昇華され、その「かなしみ」がまた新しい詩の源泉になったという事情が考えられる。そしてこの場合、キリスト教がいわば両者の相互転換を助ける触媒の役割をはたしたことはいうまでもない。詩とかなしみとキリスト教は、三位一体となって八木重吉の生涯を決定していくのである。

 しかし、果たして郷原の言うように、「現実的な生活過程には、かなしみの源泉は見当たらないといってよい」だろうか。確かに八木重吉は「貧窮家庭の生まれでもなければ私生児でもない」。その年譜を見ても、郷原の言うように「やや線が細いとはいえ、いつも家族と地域社会に祝福された、純朴で利発な少年の姿」が見えて来るのも確かである。しかし、あくまでそれは「御影」以前のことであるように思われる。郷原は「御影」行きについて次のように言っている。

 この関西行きが彼の希望によるものであったかどうかははっきりしないが、いずれにしろ、これがひとつの精神的な転機になったことだけは確かなようである。すなわち重吉はこのころから旺盛に詩を書きはじめ、詩と信仰が一体になったような生活を生きはじめる。夭折詩人のイメージがつよいわりに、詩的な出発は遅かったといわねばならない。そしてその出発をうながしたのは、東京にのこしてきた恋人、島田とみ子への慕情である。

 郷原がこの文章を書いたのは『全集』刊行以前なので、これが精一杯であったのだろうが、『全集』によって、つぶさに御影時代の重吉の心境をみることの出来る我々は、その「精神的な転機」とはいかなるものであったかを伺い知ることができる。重吉が「やや線が細いとはいえ、いつも家族と地域社会に祝福された、純朴で利発な少年」であればあっただけ、御影での教員生活が与えた絶望は深刻であっただろう。重吉はそこで、初めて現実の醜さ、信仰の問題など歯牙にもかけない大衆の軽薄さ、あるいは実利主義に直面したのだ。そういう現実を前にして、重吉がその現実の奥深くへ突き進むことなく、ひたすら自分の信仰の内部に閉じ籠もり、現実と鋭く対立することでその信仰を先鋭化していったことはすでに述べたとおりである。その孤立感があまりにも深かったことが、登美への慕情を激しく募らせることにもなった。登美への愛だけが、孤立した重吉をかろうじて支えていたといえる。登美の手紙だけを唯一の生き甲斐として毎日毎日を暮らしている重吉の姿は『全集』の「島田とみ子宛書簡」のいたるところに見出せる。それは登美への愛の深さをもちろん証明してあまりあるが、それにもまして御影における重吉の底しれない孤立感の深さを意味してもいるのである。そしてその苦悩こそが、重吉の詩の出発なのである。
 こう見て来ると、郷原の言うように「現実的な生活過程には、かなしみの源泉は見当たらない」とは、必ずしも言い切れなくなってくる。御影時代の教員生活は、源泉とはいえないまでも、おおきな要因であったと言える。郷原は八木重吉が「詩を書く」ことによって、「それまで心のなかにあったものが」が「『哀しみ』として昇華された」とし、「キリスト教」は「詩」と「かなしみ」の「相互転換を助ける触媒」の役割をはたしたとしているが、そうだとすると「キリスト教」はあくまで二次的なものになってしまうだろう。そこから「キリストによってもついに癒されることのない孤独の発見」とか「どんなに奇矯にきこえようと、八木重吉のキリストは、かれの心のかなしみが外化したものであって、その逆ではなかったのである。」とかいった結論がでてくるのはむしろ当然であろう。ここでも郷原は、前回の田中氏と同じく「キリストは孤独を癒す者である」ということを無条件に前提にしてしまうという過ちを犯している。重吉はどうしようもない孤独をキリストにすがることによって癒されたいというふうに思って信仰の道に入ったわけではないだろう。そうではなくて、簡潔に言い切れば、重吉はキリストを信じたからこそ孤独になったのだ。重吉にとってキリストを信じるということは、限り無くかなしみにみちた行為だったのだ。つまり、キリスト教こそ重吉の「かなしみ」の源泉であるということがいえるのだ。
 キリストを信じて孤独から救われる人もいるだろう。キリストを信じることが限りない喜びである人も多いだろう。しかし、「御影時代」の重吉にとっては、そんな単純なことではなかったのだ。それはなぜか。
 『琴はしずかに』の中で、死を間近にした重吉のようすを述べている部分で、登美子夫人は全く思いがけないことを書いている。

 ある日のこと、八木が突然、東京の富永徳麿牧師へ手紙を書いてくれ、といい出した。自分はお世話になりっ放しでご無礼していたから一度お詫び申し上げたい、というのだった。富永牧師は手紙を受け取られるとすぐさま、ご親切においで下さった。八木は籐椅子に寝たまま一心にお詫び申し上げていた。これはずっと後になって分かったことであるが、高師時代に富永牧師から洗礼を受けながら、教会へつづけて行かなくなったことを命あるうちに謝りたかったのだとおもう。(生前八木から洗礼を受けたことは一言も聞かされていなかったとおもう。)

 思いがけないというのは、(  )の中のことで、登美子夫人は重吉の生前、彼が洗礼を受けているということを知らなかった、ということだ。登美子夫人の方は「大正十年十一月二十七日、聖学院の教会で尊敬する平井庸吉牧師から洗礼を受けた。私はこのことをさっそく八木に手紙で知らせた。」という。その時、重吉はどう反応したのだろうか。登美子夫人が知らなかったという以上、重吉は自分の受洗については、かたくなに沈黙したとしか思えない。とすれば、重吉にとっては洗礼という儀式はもはや何の意味もないものとなっていたのであろう。重吉に洗礼を授けた富永は、「『神人合一』を唱え、教会の儀式よりも信仰の体現を主張して、キリストの人格的な把握、臨在感を重視する独自な宗教家であった」(『八木重吉文学アルバム』)というから、その影響も多分にあったろう。とにかく重吉は、受洗後間もなく、はっきりと教会を捨てているのだ。重吉は内村鑑三の無教会主義の影響で教会を離れたとされているが、重吉のは無教会主義というより、厭教会主義ともいうべきもので、教会に対する激しい憎悪と嫌悪に満ちている。教会にあつまる「信者」や「牧師」を重吉は徹底的に嫌悪した。

でも
いったい
「聖書」を新調のフロックコートで
もったいらしく教壇に講ずるなんて
そんな漫画(カリカチュア)がどこにあろうぞ

もしも 今、この今、
エリアの火が
焔々と降るならば
おそらくは
もっとも怖ろしい焔が
教会に集ふてをる
お召の淑女と
ぞろりとした紳士の頭上に下るだろう、

おそらくは
「神学博士」なぞのあるこの現世こそ
世の終りかもしれないぞ、

      ○

まあ そう思ふのだよ
まあ、かりにでいゝからな、キリストが
再臨したと、な、──ところで
この世界中で いったい
たれが
『これぞ わが子』と
キリストに抱いてもらへようか?
(え? そんなことはないって?
まあ、いゝさ、
かりに、そうしてみるさ、)
牧師かって? おゝ、とんでもない、
彼等は だいいちばんに
地獄の火に 投げ込まれるだらうぜ、
信者かって? さあ??
だが
信者も 牧師も
この世界中で
いちばん キリストに遠い奴等だから、な、
『こうするな』と ヱスが
いふことばかり してゐるんだから、な、
つまり
偽善者を罵る偽善者だ、よ、
いちばん たちのわるい、な、

           『暗光』大正十二年

私は
故郷の「苦しむ農民」の一生が、
甘ったるい、お白粉くさい
「クリスチャン」より祝さるべきをおもふ、 

         『草は静けさ』大正十二年

 教会を捨てた自分が、さて、それにも益した何ものをえたらうか? 生ぬるい、教会の空気にはき気をもよほして、これを逃げはしたが、やはり、あゝ何といふ、微温な現在であるか。(日記・大正十年十月二七日)

 重吉の全否定の論理がここにも現れている。論理というよりは感情である。「職員室」では「げらげら笑い」に怖じ気をふるい、「教室」では「低能児のブタ」を嫌悪し、そして「教会」では「白粉くさいクリスチャン」に吐き気を催す。ここに八木重吉の気質がよく現れているように思う。重吉は、どうしても周囲の人間と妥協して生きることができなかった。ごく当たり前の人間が抱えている愚かさも、重吉にはがまんがならなかった。それを愛すべきものとして受け入れていくことが重吉にはできなかった。そして、そういう潔癖さは、周囲の人間のみならず、自分自身にも向けられていた。教会の生温さを嫌悪してこれを捨てながら、現在の自分の生活の生温さも自覚せざるを得ないという矛盾を重吉は生涯抱えていたのだ。
 教会を単なる人間の集団としか捉え得なかった重吉は、その集団構成員たる「信者」や「牧師」の世俗性に反発し、その結果として教会を捨てざるを得なかった。そして、重吉は「一人の求道者」として、真のキリストを求めることとなった。そういう重吉の唯一の拠所は、いうまでもなく聖書一冊であった。そして熱心なプロテスタント信者の例に洩れず、「ボロボロになるまで」聖書を読む。そして、キリストのようになること、を自分に強いたのだった。それでは、八木重吉はキリストをどのように理解していたのだろうか。
 先程引いた『暗光』所収の詩の後に次のような一節がある。

要するにだね、
キリスト教は
キリスト一人を
神につないだだけじゃあるまいか、
こうした疑念が
かなり自分につよい

 断片的な詩句なので、これだけで八木重吉の「キリスト観」を云々することはできないが、ここに八木重吉の「キリスト観」の倫理主義的傾向がほの見える。キリスト教の教えを完全に実現できたのはキリストだけなのではないかという命題は既に大きな矛盾を含んでいるが、それはともかく「キリスト教はキリストしか救えなかったのではないか」と考えるところに、キリスト教をもっぱら道徳的・倫理的規範として理解していこうとする重吉の傾向がよくみえる。聖書に出て来る様々な「教え」をまともに実行しようとすれば、誰だってすぐに挫折するだろう。そしてこんなことを完全に出来るのはキリストだけだ、という感想も持つだろう。しかし、重吉は何としても、キリストの要求に忠実であろうとした。キリストの生き方を本当に我が身に体現しなければ嘘だと考えたのだ。しかも、重吉は自分が他の信者と違ってキリストの教えを体現できる立派な人間だと自惚れていられるような鈍感な人間でももちろんなかった。そこに、重吉の底知れない「かなしみ」が生まれて来るのだ。

妻よ、妻の母よ。
私はわからない。私はさびしい。
さびしいから、詩をよむ、
よんで疲れる、疲れてもやめない──なぜならば、
詩の世界の外は、白ちゃけた世界だから。
しまひには、ぼんやりしてしまふ、──それでも、
詩集だけは、離さずにゐる、──自分の
たった一つの魂をやってしまふ様な気がするので。
神をおもふても、心がおどらない。いや、
神はあんまり遠すぎる。──
「無一物」といふのは「無一物」だらう!
だれも、まちがってゐるのだ、
みいんな、まちがってゐるのだ、
わたしも、他の人も、みいんないけないのだ。

詩は、私の酒にすぎない。
私は、「詩」を飲んでゐたい、
酔いがさめると、白ちゃけた世界がみえてくるぞ!
「神」への片恋がくるしくて
私は終日、「詩」に、溺れてゐる。
「神」への初恋も、
この臆病なわたしの心が邪魔になる。

妻よ。やがて、私の子の母となる妻よ。
ゆきくれたこの私を責めないでくれ、
わたしは、あらんかぎりのちからで戦ってゐる。
おまへ自らのことも、おなかの子供だっても、
どんなに、可愛いいかしれないんだ。
けれど、この「神」への恋もとがめないでくれ、
妙にふさぎこむ、私をあやしまないでくれ。

 重吉にとって「神」は「遠すぎる」存在だった。キリストは「無一物」を要求する。そうしなければ、神には到底たどりつくことはできない。しかし、自分には愛する妻もいれば、やがて子供まで生まれようとしている。「無一物」になって一筋に神に向かって行きたいと願いながら、妻や子を捨てきれない「臆病な心」がそれを邪魔する。重吉は常にこうしたジレンマに悩んでいたのだ。
 「神」をあくまで遠い存在として意識し、キリストはその神の要求を満たし得た「強者」であるという認識が、重吉を時として絶望させた。絶対的な強者としての神の前における孤独と無力感、これが重吉の「かなしみ」の源泉である。それは郷原がいうように、もともと心にあったものが、詩をかくことによって顕在化したというようなものではない。重吉の「かなしみ」は、神を意識し、キリストを愛し信じた所から生まれたといってもいい。少なくとも重吉の生涯を通じて彼がいつも問題にしていた「かなしみ」はそのようなものであった。
 神の前にいる自分というものを意識していれば、人間は己の至らなさに恥じ入り、粛然とせざるを得まい。そして、深いかなしみに囚われずにはいられまい。重吉が「げらげら笑い」を嫌ったのは、そこにはそうした神のまえの人間という意識が見られないからであったろう。軽薄な世間話に加わるということは、たとえ片時といえど、神を忘れる行為だというふうに重吉は捉えていたはずだ。重吉にとって神を信じるという行為は、己の心の厳粛さ、──「かなしみ」──を常に心に保つということによってのみ可能だったのだ。そしてそのような信仰の姿を身をもって示しているのが、ほかならぬキリストなのだ。したがって重吉にとってキリストは「強き人」であると同時にいつも「悲しき人」である。

「悲哀」を常住にもち得たら、感謝の念は自ら湧くにちがいない、(中略)「悲哀」を常住にもつといふことと、「哀しがる」とは、全然別なものだ、前者は神のことだ、後者は偽りのことだ、人間のことだ、(日記4・大正十一年一月二十四日)

「キリスト」は大きな悲哀のかたまりだ、懐しい、──『死』そのものゝような悲哀のかたまりだ。大自然の沈黙のような、哀しいものだ。大きな、力強い、沈黙である。(日記4・大正十一年五月九日)

私は、まだ、
柔い瞳の耶蘇をみない。
私の心の耶蘇は、いつでも
寂しい耶蘇だ、
怒れる耶蘇だ。

       『静かなる風景』大正十二年

さんらんとして
メシアは 怒る、
「ゆるせよ 友を
ゆるせよ」──おゝ
おぞましき
「信者」の 痴れ言
妥協者の 偽善

金色燦爛として
メシアは
怒る、

あゝ エルサレムの殿堂に
「鳩を売る者を 打」ちし者は
誰ぞ!? 誰れぞ!?

        『私は聴く』

 重吉は、このように「怒るイエス」をいつも心に描いていた。「火をもちきたるイエス」こそが重吉のイエスであった。そしてそういうイエスの心を自分の心としたのだ。世俗的現実に対する重吉の激しい違和と憎悪の念が、そこから生まれたのか、あるいはもともと重吉の内部にあったものが、イエスの心によって確信を与えられ増幅していったのかはあきらかではない。しかしイエスをひたすら「怒るイエス」としてのみ捉えようとしていることから考えてみても、重吉は自分の思いにそって自分のイエスを描いていったと考えてよいだろう。その意味で解釈するかぎり、郷原の「八木重吉のキリストは、彼の心のかなしみが外化したものであって、その逆ではない」という説にも妥当性がある。
 世俗を否定する者は、世俗から拒否され、孤立する。「怒るイエス」は同時に「寂しいイエス」でなければならぬ。重吉の「かなしみ」は、こうして常に「怒り」に裏付けられている。「御影時代」の重吉の信仰は、そうした「怒り」と「かなしみ」を心に保つことによって成り立っていたのだ。
 「ゆるす」ことを重吉はどんなに願っていたろう。しかし、イエスの激しい「怒り」を理解しようともせず、甘い現実の中にどっぷりひたってひたすら「ゆるし」を説く「信者」や「牧師」に、重吉は偽善を感ぜずにはいられなかったのだ。こうして重吉の「怒り」と「かなしみ」はますます深まっていったのだ。
 しかしながら、重吉はそうした信仰のありかたに自足していたわけではない。キリスト教の究極の教えは「憎悪」ではなく「愛」だからだ。重吉の前に広がっていたのは、嫌悪すべき世俗的現実だったけれど、重吉の信仰はそれすらをも愛することを要求していたはずなのだ。しかしどうしたらそれが可能なのか。重吉の詩はその苦しみのなかに続々と生まれ続けていた。

わたしはうたふ、
これが詩か?
これが詩でないのか?!

知るものか、知るものか!
たれが、知らう?!

わたしは、あらわしたい、
わたしをあらわしたい、
わたしの魂の風景を、
愚なわたしが生きてゐる
愚なことを考へてゐる
わたしは、
わたしの魂の風景を生みたい、

どうしたらよく生めるか?!
どうしたら
その現された風景が
「私」であり得るだろう?!

「真理」を知らぬわたしは寂しい
たれか、おしへてくれ
たれでもいい、たれでもいい、
わたしは、
「真理」となって、燃えたい、
愚なわたしよ、
さびしいわたしよ、
いつまでも、こうしてゐるのか、
死ぬるまで、分からないのか?!

      『石塊と語る』

 


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