104 没入体験──「木枯し紋次郎」   

2023.6.3

 


 

 先日、中島貞夫監督の「木枯し紋次郎」についてフェイスブックに投稿したら、近くに住む中学以来の友人Hが、これを見ろといってTV版のDVDを貸してくれた。

 市川崑劇場のこのシリーズをどれほど熱狂して見たことか。大学時代のことで、当時中高時代の友人と作っていた同人誌に、このHと、のちに京都に住み、中島貞夫と親交を深めた友人Kの三人で、「誰かが風のなかで」と題する座談会を載せたことがある。今読むと、発言しているのは、HとKばかりで、ぼくは相づちをうっているだけなのだが、とにかく、ぼくらの熱狂ぶりが伝わってくる。

 その中で、Kは、この中村敦夫の紋次郎が、当時の世相を反映して、思想的文脈で語られることが多いのに反発している。おもしろいので、ちょっと引用しておく。

K:たとえば映画を批評するのにね、まずあの監督はどうこういう──そんなことはありはしないんだよ。絶対。実際みたらね、たとえば、ジャン・ルイ・トランティニアン(注:コスタ・ガブラス監督「Z」で、予審判事を演じた。主演はイブ・モンタン。1969年。)がやってるとしたらね。
H:(喜色満面で)うん、うん。
K:そこでまずトランティニアンの扮するね、それにシビれてね、その役者としてのトランティニアンを混同した上でね、すばらしい、すばらしい、といっているうちにそこから本当のアレがわいてくるんだよ。
H:そうそうジャン・ルイ・トランティニアンがさ、サングラスをかけてさ、(笑い)検事をやってる、あれがいいんだよ。
K:そうなんだよ。だいたいいっさいの映画ってのはそっから出発するのにね。今のインテリみたいな所はね、その、映画俳優が好きですっていうと、ミーハー的だって軽蔑したりするような所がある奴がいるわけよ。全部がそうだとはいわないけど。それ全然意味ないわけ。まずミーハー的にワーワー騒いでさわいでね。ああすてきだ、キャーキャー言ってね。そうした上で、それをしゃべってくうちに又何かでてくる。それをしゃべる前からね、「ジャン・ルイ・トランティニアン? 関係ありませんね。だいたい『Z』という映画は──」としゃべるなんて、くだらないんだ。全然意味ないと思うよ。たとえば又、紋次郎のTV見てね、「ああ市川崑の映画です。あれはすばらしい。」って言うわけね。関係ないんだな。市川崑であろうと何であろうと紋次郎って人間がいてまずすばらしい、それから普通の神経としたらまず中村敦夫にいくじゃない。で、中村敦夫って何て素敵な俳優だろうってね。それからはじめてカメラがいい、音楽がいい、監督がすばらしいことやってるってわかってくるんであってね、それが逆の見え方をするってのは全然おかしい。

(同人雑誌「拙者 5号」1972)

 このKは、後に美学者(映画や演劇が専門)となったのだが、映画に対する基本的な姿勢は、今でもちっとも変わらない。

 そんなこんなを思い出しつつ、このDVD収録の2話を見たが、当時ぼくが繰り返しみてはため息ついたオープニング映像が、カラーで見られることに感動し、中村敦夫のすがすがしい若さに感動し、当時画期的と言われた泥まみれのチャンバラに感動したのだった。

 Kが言いたかったことは、映画は、まず、没入体験があって、しかるのちに、批評的意識が芽生えるものだ。最初から批評意識でガチガチに構えて見たら、見えるものも見えないということだろう。

 今おもえば、ぼくの場合は、幼い頃の映画体験は、東映の時代劇だったわけで、それはそれでものすごい没入体験だったのだが、その後、「暗黒の中学受験期」を経て、中学に入ったころには映画もあまり見なくなり、ひたすら昆虫採集に熱中していたので、こうした没入体験は久しくなかった。大学に入ってから、紛争のあおりを受けて、ものすごくヒマになってしまったので、映画や演劇を見まくったのだが、やはり、「文学部への新参者」意識が根深くあって、Kの言う「逆の見え方」になっていたのかもしれない。

 この年になって、ようやく、映画のほんとうの見方が分かってきたような気がする。

 


 

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